冬、咲く花



 見慣れた猫ッ毛が前を歩いてたので思わず呼び止めると和泉の童顔がくるりとこちらを振り返った。
「あ、マネージャー!」
 途端に人懐こい表情が全面に浮かんで、あーやっぱカワイイなぁとか心底思ってみたりする。
 ナンパや見知らぬ人間にはわりと冷たく対応するのを知ってるから、この笑顔の無防備さはまた格別だ。でも根が性悪な俺としてはこの信頼を裏切ってみたいなんて気持ちも常にあるんだけどね、心とは裏腹に。この純粋培養はきっとそんなこと考えてもいないだろうけど。
「これからバイト?」
「あ、イエ、お使いの帰りです」
「フウン、もし時間があるなら俺とお茶でもしてかない?」
「マネジの奢り?」
「当然。なんなら夕飯ゴチソウしてやろっか?」
「すげー、太っ腹!」
「どっかの勤労学生とはワケが違うんでね」
 ありがたいことに俺の財布は、例え和泉をこれからフランス料理のフルコースにエスコートしたとしてもまるで痛まない財布だったりする。松下にはよく云われるが、最近は自分でもホスト天職かもって気がしないでもないっていうかね。でもそうなるとたぶん親が泣くんで、とりあえずは「知人の手伝い」という名目で俺は日々夜の花を咲かせる身だった。気付いたら半年で預金額はけっこうな額に跳ね上がってたんだけど、ピアノなんかやめてむしろこれで食ってく方が容易いだろうと哂う現実を俺はまだ見て見ぬフリでいる。
「何か食いたいもんある?」
 歩くたびにヒョコヒョコと上下する赤毛の隣りに並びながら商店街を抜ける。沈んだばかりの日がまだそこかしこに黄昏時の余韻を残していた。このまま公園に誘うのも悪くないテかな。この道を真っ直ぐ行けばやがて公園通りに突き当たる。
「でも俺、お使いの途中なんで…」
「ああ、持ったげるよ」
 和泉の手から重そうだった紙袋をそっくり引き受ける。中でガサリと音を立てた紙の束、見覚えのある背表紙に視線を走らせると胸の隅に懐かしい痛みが走った。
「フウン、アイツの使いなんだ?」
「そーなんですよ。なんか注文しといたのが届いたからって、取って来いとか横暴こきやがってアイツ」
「こんなのわざわざ買わずとも家に帰りゃ腐るほどあるだろうに」
 いまさらこんなものに何の用があるのか、詮索する気はないが多少の興味はわく。袋の中のタイトルを目で追ってると「ねえ、マネジ…」隣りから伸びてきた細い指が俺の意識とカウチンの袖を引っ張った。
「マネジって松下と高校、一緒だったんですよね?」
「うん、それがどうかした?」
 言葉の裏には気づかないフリでわざと恍けた返答を選ぶ。すると案の定、少し困った顔つきで和泉が小さな口元を引き結んだ。聞きたい…けどあからさまに聞くのもなんだし…でも聞きたいし…。そんな逡巡が手に取るように解る表情だ。そういう素直だけど意地っ張りなところがつい構ってみたくなる衝動の根源なんだけどね。
「聞きたい、アイツの昔の話?」
「ハ、ハイッ!」
 頃合を見て向けた話の水に文字通り和泉は飛びついてきた。勢い余った風情、俺の右腕に両手で縋りながら黒目がちの瞳をいっぱいに見開く。無意識なんだろう、上目遣いの熱い視線が俺から外れることはなかった。…参ったね、こりゃ可愛いや本当に。
「少し座って話でもしようか」
 ちょうどたどり着いた公園の入り口、俺は和泉を誘って遊歩道に入った。


 昼間暖かかった所為か日が沈んでもまだ辺りは冷え込むほどには至っていない。遊歩道から少し外れたベンチに並んで座ると、吹いてきた風がくるくると落ち葉を絡めて小さな旋風をいくつも巻いた。途中で買ったココアの缶を渡して自分の分の缶コーヒーのプルタブを引き起こす。カシッ、と乾いた音が辺りに響いた。
「才能のあるないで云ったらあったよ、アイツには」
「ピアノの?」
「いや、どっちかってと弦の方。ヴァイオリンね」
「…へーえ」
「そういうの何にも聞いてないだろ?」
「…………」
 叱られて落ち込んだ子犬のように項垂れた首が一度だけコクンと頷く。バカだな、そこ落ち込むトコじゃないから。思わず猫ッ毛に手のひらを埋めると俺は柔らかいそれを二、三度撫でて慰めた。
「そりゃ自分からすすんでは云わないだろうよ。途中で逃げ出しましたなんてそんなカッコ悪いこと」
「逃げ出した?」
 途端、持ち上がった瞳がパチリとまた大きく見開かれる。…やれやれ、こんな無垢な瞳を向けられるんじゃ余計に云い辛いわな。それは俺も例外じゃないんだけど。
「ま、俺もあんまり人のことは云えないんだけどね」
 頭に乗せたままだった右手で痛い視線を少しだけ俯かせると俺は浮かべた自嘲を苦笑に代えた。
「俺も途中で全部放り投げたクチだからさ」
「マネジも?」
「そ。俺は女親との確執でね、泥沼の末けっきょくは中退。アイツは父親の方と揉めてたみたいだけどな」
「へえ…」
「中退こそしなかったけど進路は見ての通り」
「そーな、んだ…」
 急に覇気のなくなった声が沈んでいくのを眺めながら、本当に解りやすいコだなぁと思う。確かにね、他人の口からヒトん家の事情を聞くってのは罪悪感に繋がりやすいもんだよな。でもそれは和泉が感じることではない。わざわざ話して聞かせてるのはこっちの方だ。
「俺だって誰彼構わず吹聴してるワケじゃねーぜ?」
 持ち上がった瞳がややあってようやく意味を解したのか、フワリと崩れて満面の笑みになった。
 冬空の下で懸命に咲く花のように、開いた笑みが柔らかく綻ぶ。
 コレを手放したくないと思うアイツの気持ちは痛いほど解る。抱え込む不安もきっとキリがないだろう。いつどこで一体どんな悪い虫がつくか、知れたものではない。そう、こんなふうに。
「マネジ…?」
 スピード勝負、わずか数秒で仕掛けたキスは、けれど。


「俺、松下が好きなんです」


 唇を覆った手のひらの向こう、和泉が理路整然と告げる。
「知ってるよ、そんなの」
「じゃあなんで…」
 白い手を外して赤い唇を露わにすると震えた息と戸惑いとがそれを彩った。右手を細い顎の下に添えて、親指を下唇に押し当てる。
「一人に縛られる不自由な恋愛が趣味?」
「でも、俺は…!」
「遊びを知るのもそう悪くないよ」
 柔らかい感触を愉しみながら抉じ開けた唇の端、だが捻じ込もうと思ってたキスを阻んだのは意外にも冷静な和泉の声だった。
「俺、マネジのこと軽蔑したくないです」
「……そうきたか」
 ダテに場数は踏んでないと、冷めた口調と瞳とが物語る。
 でもその裏にあるのは。
「そう云われたらもう手も足も出せないな」
 名残惜しさの残る唇を開放して、尚も温もりの残る指先を宙に躍らせる。冷えた風が余計に冷たく感じられた。やれやれ、わりと本気で落としにかかってたんだけどね。裏切らないで欲しい、と揺れていた切望を無視できるほど俺もキチクじゃないよ。もう一度赤茶けた猫ッ毛をそっと撫でる。バイトの先輩と後輩、他愛ない関係に戻ってのスキンシップ。
「じゃあ、松下に飽きたら俺んトコおいで」
「…マネジ、みんなにそれ云ってそう」
「何だ、バレてるのか」
 安堵で緩んだ表情が思わず涙ぐむのを見なかったフリで遊歩道の向こうに視線を投げる。するといつからそこにいたのか、銀杏並木の真ん中にピーコートのシルエットがあった。
「ほら、お迎えだよ」
 俯いてた視線を誘導すると途端にフワリとまた花が咲いた。西風に煽られた木の葉がいくつも舞い上がって暗くなり始めた冬空に散る。
「こんなトコで油売ってんじゃねーよ」
 俺が隣りにいるのが気に食わないくせにわざとスローダウンした足取りが到着するのを待ってから「イイコト教えてやろっか」和泉の耳元に唇を寄せる。途端、松下の眉間にシワが寄るのが面白くてしょうがない。余裕面気取りてーんならもう少し修行積むことだな。
「コイツね、母親にユウちゃんとか呼ばれちゃってんの」
「まっじで?」
 途端に元気付いた声で和泉がはしゃぐのを嫌そうに眺めながら「帰るぞ」一言だけ吐き捨てて松下が踵を返す。素直じゃねーよなァ、コイツもほんと。
「あ、待って」
 慌てて後を追おうとした和泉に紙袋を手渡すついで。
「こんなもん買うぐらいなら意地張ってねーでサッサと帰れって伝えて?」
 大声でピーコートへの言伝を託す。
「だってさ、松下!」
「その言葉、そっくりそのまま返すって云っとけよ」
「だって、マネジ」
「…あっそ」
 可愛くねーよなホント、あのガキ…。
 それでも少しは前進したということかもしれない。どんな経緯であれまた楽譜を手に取ろうとそう思えたのなら。半生を共に過ごしてきた「伴侶」はやっぱそう簡単に捨て切れるもんじゃない。それは最近、俺が身にしみて感じてるコトだ。昔馴染みの恋人のように、胸に朱をひいた初恋のように。俺もけっきょくは捨てきれずまたこんなコトしてるってわけ。
「水曜の夜はいつもここで弾いてるから」
 財布から取り出した割引チケットと店のリーフレットを和泉に手渡す。
「よかったら松下と一緒においで」
「ハイ!」
 白いコートの背を押すと子犬のように走り出した和泉があっというまに追いついたピーコートに軽く蹴りを入れる。なんというか「子犬のワルツ」だな、和泉はホントに。可愛らしいことこの上ない。それを動じた風もなくハイハイと慣れた仕草宥めながら、並んで二人歩く姿は。
「フウン…」
 予想以上に様になっていた。いつから気づいていたかと云えば、すでに昔話になりつつあるのだが。こうもしっくり落ち着くとは思わなかったな。
 ややしてから振り返った松下の視線が驚きに満ちていたのは二つ目の言伝が伝わった所為なんだろう。ま、いつまでも一つ処に留まっちゃいらんねーよなってことで。
 俺は先に行くぜ? ヒラヒラと軽薄に指先を閃かせると少し悔しそうに笑った松下が片手を持ち上げて見せた。その先には楽譜の詰まった紙袋が掲げられている。
 おやおや、宣戦布告かね。

「望むところだよ」

 缶コーヒーに描かせた放物線、その行く末を見届けてからゆっくりベンチを立ち上がる。枯葉に埋もれたくずかごが一度だけカサリと乾いた音を立てた。


end


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