Escape from battle line



「母さん、またトモが抜け出そうとしてるー」
「あらやだ。すぐに捕まえて」

「…ちっ」
 またも作戦は失敗に終わったか。目聡い姉に二階の階段前で捕獲されて、和泉は仕方なく引き摺られるままに自室の扉をもう一度くぐった。
 つい五分前と同じように、目の前でメイキングしなおされたベッドに放り込まれる。
「このチクリ魔ッ」
「あー、何とでもお云い」
 頭から毛布を被せられ、その上から圧し掛かるように158cmの全体重をかけられた。
「起き上がんじゃないわよ」
「イタ…っ、イタタタタっ」
「あーら、まだそんな元気があるの?」
 いつもながらこの細身のドコにそんな力があるのかと思うほどの馬鹿力だ。もがけばもがくほど強まる力に、和泉はついに観念して体中の力を抜いた。
「ビョ…、病人相手に本気出すバカがどこにいる…」
「だったらココから抜け出そうなんて頭はさっさと無くすことね」
「うるせ、出戻り…」
「何アンタ、殺されたいわけ?」
「あっ、ウソごめんなさ…」
「逃がさないわよ」
「うっわ、まじ勘弁…ッ!!」
 脇腹に回された腕から逃れようと体をひねった瞬間、和泉は吸い込んだ息を気管に詰まらせて思い切り派手に噎せ返ってしまった。
「ほーら天罰よ」
 毛布の中で体をくの字に曲げて苦しむ弟の姿を、むしろ楽しげに眺める姉の図。
「ア、アクマ…」
「ほんとに学習能力のないコね」
「!」
 再び伸ばされかけた手に和泉が本気で戦慄を覚えた瞬間。
 姉の部屋から軽快な、もといけたたましい着信音が鳴り響きはじめた。
「あら」
 珍しく動じた風で姉のスリッパが遠ざかっていく。

 シメた、いまがチャンスだ!

 もちろん頭ではそう思うのだが。
 如何せん、即戦力になる体力など残っていないのが現状だった。
 ただでさえカゼで衰えている体力をいままでの遣り取りで確実に消耗させられたことを体が全身で訴えかけていた。息でさえマトモにつげないこの有様…。
 だが諦めるわけにはいかない。
 幸いにも隣室の通話は長引きそうな気配だった。扉から出るのが無理だというのなら、まだ窓という手段が残されている。
「…よし」
 呼吸があらかた整ってきたのを確認すると、和泉はベッドから落とした身をスルリと出窓のカーテンに擦り寄せた。集合時間も差し迫っている。
 ニット帽を深くかぶって、こんなこともあろうかと自室に持ち込んでいたバッシュに手早く左右のつま先を詰め込んだ。あーもう急いでるのに 紐がうまく結べない…ッ。いーや、もう固結びで! 手近にあったマフラーをぐるぐるに巻きつけながら窓の鍵を静かに外す。
「う、サムッ」
 途端に凍てついた外気が和泉の白い指を凍りつかせた。
 こんなクソ寒い中、いまから出て行かなければならないのかと思うと気が遠くなる。
 自分だって店長があんな電話さえかけてこなければ、今頃このビョーニン生活を大人しく満喫していたハズなのだ。ぬくぬくとした風邪っぴきライフをエンジョイしてたはず。
「…サムイ、けど」
 でも聞いてしまったからには、とてもジッとなんてしてらんない。

「おい」

 突如、割り込んできた声が和泉の鼓膜を打つ。
 やっべ、チカ兄だっ。
 声の主を感知するやいなや、和泉は慌てて窓の隙間にその身を滑らせた。
「待てってオイ!」
 兄の声が追いかけてくるのを遠く聞きながら、和泉は夢中で雨樋を伝い、柔らかい地面にポンと降り立った。
「ちょっと初詣に行くだけだっつーの!」
「高熱出してまで行くバカがどこにいるんだよ」
「ココッ」
 半ば自棄クソ気味に云い返しながら、和泉は一目散に裏の木戸めがけて走り出した。

「何逃がしてんだよ、カエ」
「うるさいわね、アンタこそ逃げられてんじゃないわよ」
 年末から引き込んだ弟のカゼが、これでよけい悪化するだろうことは目に見えた結果だ。
「ったく、親父に殴られんの俺じゃんかよ…チクショー」
「母さんにヒスられんのはこのアタシよ?」
 異口同音に「やってらんねー」と呟きながら、姉は弟の、弟は姉の目線を捉えると互いにニヤリと口の端を歪めた。
「ま、帰ったら覚えとけってことで」
「了解」


 そんな姉と兄の思惑などもちろん知る由もなく。
 和泉はひたすら駅前を目指して、緩やかな坂道を必死で駆け下りていた。


end


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