ショコラの気持ち



 チョコレートって何の味に似てるか、知ってる?


 一階から八階までの吹き抜け、その全部がラッピングペーパーに包まれたみたいに飾り付けてあって、そのあちこちに散らばってる大・中・小のハートマーク。
 階層ごとに微妙に変化してるグラデーションがとにかくキレイで、なんかモール全体が一つの大きなお菓子でできてるみたいだなって思った。そうか、もうすぐバレンタインなんだ。
 すれ違う女の子たちの顔も、みんなどこかウキウキしてて可愛らしい。
 一階の特設広場にこれでもかと並べられた色とりどりのチョコレートたち。どれも甘くて美味しそうで、見てるだけでも幸せな気分になってくる。ああ、こんなたくさんのチョコに囲まれて暮らせたらどんなに幸福な人生を送れるだろう、なんてボンヤリそんなこと考えてたら前方に不審な影を発見した。すぐに回れ右したんだけど向こうもこっちに気がついてたみたいで。
「待てコラ、ボケッ」
 暴言が暴力とともに俺の後を追いかけてきた。


「チカ兄なんか地獄に堕ちてしまえ!」
「あーいいよ? いくらでも堕ちてやるよ、お前を殴った後ならいつでもな」
「ワ、暴力反対!」
「よく喋るクチだな、おい」
 ガツン。問答無用で一発殴られた。
 よける間もなくてモロに食らったその衝撃に体が傾く。そのまま背後の植え込みにハマりそうになった俺の体をチカ兄の手が軽々支えた。そうやってもう一発ぐらい殴ってくんじゃないかと思ってキツク目を瞑る。すると今度はペチンと軽く頬を張られた。
「イエ空ける時は、電話ぐらいしろっていつも云ってんだろ」
「…ごめんなさ」
「ああ? ぜんぜん聞こえねーよッ」
「だから、ゴメンナサイってば!」
 ほとんど自棄で叫び返すと、父親似の顔でチカ兄がこれみよがしに唇の片端を上げた。そうすると世にも意地悪な、悪魔みたいな顔になるんだけど、でも云うと絶対怒るから口には出さない。これ学習能力。
「オマエの所為で昨夜、俺は親父に殴られたんだぞ」
 ウワ! つーかこれはほとんど云い掛かり!
 この兄は何かというと父親の裏をかくのがスキで、それが原因でしょっちゅう殴ったり殴り返されたりというコミュニケーションを密に取っているのだ。だから俺がいようといまいとそれは日々変わらないイニシエーションなはず。
「よけてアッパー食らわしてやったけどな」
「あ、そ」
 和泉家において俺の扱いはほぼ次女のソレに近かったので、幸いそのテのコミュニケーションに強制参加させられるようなことはなかったんだけど。もちろんあんな痛そうなコミュニケーション、取りたくもないけどさ。だけどその隙間をことさら埋めるように、チカ兄は昔から何かというと弟に実力行使を揮うのを日課としている人間だった。
 まあ、おかげで打たれ強い性格にはなったよね。妙にケンカ慣れしたし。こっちの容姿だけ見てカサにきてきたヤツにはこうしろ、などという不穏なアドバイスも小学校の時にはだいぶ役に立ったわけだし。この顔でいじめられもせず安泰なスクールライフを送れたのは正直、兄の功績によるところが大きい。不本意ながらも。
「で、いまドコにいるって?」
「…友達んとこ」
「そんで? トモが家に帰らない理由は?」
「もう…っ、話すことが何もないからだよ…ッ」
 云った途端に鼻の奥の方がツキーン、ってなった。いまにも泣きそう、でも絶対泣かない。こんなことぐらいでってチカ兄はまた鼻で笑うだろうし、自分だって必死にそう思おうとしてるんだから。いまどきこんな理由じゃ小学生だって泣かないわよ? 呆れ顔の姉がチラチラと瞼を過ぎる。
「親父たちが19まで待った意味、まるでなかったな」
「そのっ、子ども扱いが…ッ」
「イヤだって? じゃあ泣いてんじゃねーよ」
「泣いてないだろっ」
「いまにも泣きそうな顔してるクセに」
 そんな風に云えば俺が泣くと思ってる。俺が泣いて癇癪起こして、そんで家帰って何もかもぶちまけると思ってるんだ。甘いのはチカ兄の方だよ。
「とにかく! 絶対帰らないから、父さんにも母さんにもそう伝えて!」
「俺はメッセンジャーじゃねえ。自分のクチで伝えな」
「じゃあ伝えなくってもイイ! とにかく俺はもう帰らないから」
「…んなコト云ってると、ほんとに帰る家なくなんぞ」
 チカ兄がぼそりと云った台詞は、そのときの俺にはまるで感知できなくて。後になって俺はその重さを知った。自分の浅はかさ加減も。
「まあいい。食って掛かる程度の元気は余ってるわけだ」
「俺は…」
「やるよ、コレ」
 ヒラヒラと降ってきた絆創膏。最初から殴る気満々だったってわけね。
 なんかそれ見た途端、殴られた頬が急に痛くなってきた。
「とりあえず一回、家に電話入れろよ。逃げても現実は変わんねーぞ」
 すっごく痛い台詞。俺が何も云えないでいると、チカ兄は俺といたことなんて三歩で忘れちゃったみたいに、軽やかな足取りでモールの駐輪場を出て行った。
 痛くて苦しくて。
 だから何も考えたくなくて、頭からゼンブ放棄しちゃいたいんじゃん。
 それじゃ何の解決にもならないって知ってるけど、痛くてキツくて立ってられないんだよ。こんなのただの逃げで、甘えで、このまま行ったらたぶん取り返しつかないことになるって頭ではそう解ってるのに。
 心が容認しない。許してくれない。
 だって家族を失ったら、俺は何を信じて生きればいいの?
 俺が全てだと信じて疑いもしなかった「家族」がとっくの昔に空中分解してたなんて。
 つい、一週間前まで俺は知らなかったんだ。


 モールで偶然、ネエさんに会ってビターキャラメルスムージーを奢ってもらった。
 シネマカフェの二階から見える風景は、相変わらず向かいの公園の鬱蒼とした暗い森とその向こう側に見える殺風景なビル群とを同一線上に並べる、奇妙なコントラストに満ちた構図だった。今日はビルに清掃のゴンドラが一つぶら下がっている。
 代わり映えしないように見える風景やモノでも、実はほんの少しずつ変わってるもので。変化の速いもの、目に見えるものは解りやすいけど、そうでないものは鈍い俺にはすごく解りづらい。
 珠ちゃん先輩いるかな?って思ったけど、今日はシフト入ってないみたいだ。
 ネエさんに寝耳に水でモデルに誘われた。
 知り合いのインディーズの人の撮影なのよ。大掛かりなもんじゃないから、何着か服着てカメラの前に立ってくれるだけでいいから。それでコレよ? なかなかイイ仕事じゃない? そう云ってネエさんが立てた指は三本あった。
 なんとなーくモヤモヤしてる気分。その一つはたぶんコレなんだろう。無目的に入った大学ソッコウ飽きて退めて、無目的に始めたバイトをただなんとなく続けてて。バイト行って食べて寝て、またバイト行って。その繰り返し。俺っていったい何なんだろう?
 ただ起きて呼吸をすること。たったそれだけのコトが面倒な朝がある。
 いいかもね、モデル。気分転換にはなるかも。とりあえず名刺だけもらって俺はカフェを出た。
 そうして本当に、ものすごく唐突に。
「あ……」
 俺は行く「トコロ」がどこにもないことに気付かされてしまった。


 松下の家に転がり込んではいるけど、でもあそこは俺の居場所じゃないし。
 考えてみたらアイツだって昼間は学校行って夜は夜でバイトして、しかもファーストフード以外にもどっか別のところでバイトしてるらしいし、いや考えるまでもなく忙しい身なんだよな。
 そんなとこにいきなり転がり込んできて、俺は布団にマミー零したり、スキあらば冷蔵庫にプリン詰めたり、余ったシェイクも冷凍庫に詰め込んでみたり、やりかけのレポート間違って捨てそうになったり、そんで心底嫌がられてたり…。
 わースゴイ。迷惑の塊じゃん?
 帰れないよ、まさか…。今頃そんなこと気付いたのかってアイツには云われそうだけど、でも気付いたからには帰れない。
 どうしよう。とりあえず荷物だけでも取りに行こうかな。荷物ったってぜんぜん大したモンじゃないけど、そんでとりあえず…行くトコないから、マネージャーん家でもお世話になろうかな。中澤マネジ、確か一人暮らしだったし。
 トボトボと歩きなれた道を歩く。この時間、あのブッキラボウは確かどっかで別のバイトに精出してたはず。ドアの鍵を開けて中に入る。思ったとおり中には誰もいなくて、でもさっきまでそこに誰かがいたって雰囲気をあちこちに残したままになってた。
 床に落ちてるシャツ。飲みかけのコーヒー。開いたままの雑誌。
 そのページに蛍光ペンでチェックが入ってて、へえ松下ってこういうの聞くんだーとか思った。たぶん俺には縁のないページだな。
 ハービー・ハンコック? 誰それ、知らないヒト。
 何も云わずに出て行くのはさすがに気が引けて、俺は手荷物をまとめると机の上にメモを残した。いざとなったら何書いていーのか解んなくなったから「サンキュ、世話になった」とだけ書いて置いた。下手なこと書いてもな。どうせ明日の晩、メンテで会うし。
 まとめてみたら俺の荷物なんて紙袋一個に納まっちゃうような分量で、まさかそんなモン提げて町内歩くのはさすがに恥ずかしいんで、俺は部屋の隅に放ってあった空のトランクにそれらを詰め込むとアパートを後にした。メモの一番下に「トランク借りる」って一行だけ足して。
「ちぇ…」
 マネジの携帯に電話してみたけど、味も素っ気もない留守電サービスが応えるだけで、俺は三回かけたところで諦めて携帯をポケットしまった。家族からのは全部シャットアウトしてるから。ここ数日、ほかの着信はなし。メールもなし。俺ってすごい寂しいヤツじゃん。
 北風が冷たくて白いニット帽を耳元にまで引っ張って伸ばす。昔買ったヤツですげーお気に入りなんだ。沢見が似合うって云ってくれたからソッコウで買った。
 そういえば沢見、近々こっちに帰ってくるようなコト云ってたっけ。そしたら沢見のホテルに泊めてもらおーっと。なんか立場、逆だけど。つーか、そこまでして逃げ体勢の俺って、我ながらめちゃめちゃカッコ悪いと思うけど。情けないと思うけど。
 でも思うように心は動かない。
 駅前の方に戻ってブラブラしてたら噴水のところで一回、公園通りで一回、それぞれ男にナンパされた。最初のヤツは俺を女だと思ってて、二番目に声かけてきたヤツは初めから俺が男だと解ってたらしい。その上で「ホテル行こう」って云ってきやがった。心の中で「死ね」って叫びながら、俺は笑顔でそれをあしらった。時にはそういう技術も必要だとカエ姉が教えてくれた。
 俺って家族に愛されてたんだなぁって、今更ながらに思う。
 だから俺も精一杯、愛情を返してたつもり。なのにそれを裏切られたみたいで、すごくショックだったんだ。衝撃のあまり家を飛び出しちゃうぐらいには。
 俺だけが知らなかった。壊れかけてる家族の中で、俺だけがのほほんと日々を過ごしてたんだ。お気楽な話。笑っちゃうよね。
油断するとポロポロ涙が零れそうになる。
 気付くとあたりは暗くなってた。「厳重にも程がある」と沢見には買う時散々笑われたけど、白い厚手のコートのおかげか二時間も外にいたってのに寒くなかった。
 もしかしてもう感覚マヒしちゃってるのかな?
 あー、でもオナカは空いた。今日胃に入れたのってネエさんに奢ってもらったスムージーだけじゃん。こないだ松下ん家で体重計乗ったら、中学ん時のベスト体重割っててさ、さすがにこれはヤバイと思った。ただでさえ体力ないのに、食わないとそれだけで効率悪くなる。
 顔から血の引いてく音がして、俺はペタンと植え込みに座り込んだ。
 やばい、貧血だ…。しかもこんな時に限って三人目が現れるし。タイミング最悪。
「一人?」
 この顔色みて解れよ。こちとら具合悪いんだよ、バカナンパ野郎!
 云い返してやりたいけど声が出ない。ただ黙って首を振ったら、目の前に暖かそうなカップが差し出された。ショコラの匂い。甘くて苦そうなココアの香り。
 受け取ったら手袋越しに熱い感触がキた。
「すげー顔色。こんなトコいるとまたぶり返すぞ、風邪」
 みるみる零れた涙を松下の細めの長い指が拭う。
 コイツ、優しくする時のタイミングって外さないよな。ここって時にいつも有り得ないぐらいの隙を縫って、ふいに優しくしてくる。さりげなく。当たり前みたいに。
 泣くなって方が難しいよ、こんなの。
「寒くねーのか」
「サムイ…」
 聞かれた途端に思い出した。寒かった、ずっと寒かったんだ…。内側と外側から迫りくる寒さに、どうしようもなくて途方に暮れてた。
「なら帰ろうぜ」
 そう云って差し出された手を、俺が掴んでいいんだろうか?
 見上げると片手を差し出したまま、ブッキラボウが無表情にそこに立ってた。俺がそれを掴まない限りコイツずっとこのまんま立ってそうで。手袋の手を目の高さまで持ち上げると松下の掌がそれを包み込んだ。
 ココアなんか目じゃないぐらいそれがイチバン、胸にキた。



 松下に手を引かれて、泣きじゃくりながら俺は帰途についた。
 傍から見たら百発百中、松下が俺を泣かしたみたいに見えてんだろうな。ちょっとザマーミロ。
 机の上にメモはなかった。カバンとかその辺に放り投げてあって、ここに帰ってきた人間はわりとすぐにまたここを出て行ったらしいことを物語ってた。
 どうしよう、俺いますごく子猫の気分なんだけど…。
 道端で拾われた子猫みたいな気持ち。すごく人懐こい気分…。
 家に帰ると松下は真っ先に俺の絆創膏を剥がして、チカ兄の爪に引っ掛けられてたらしい小さい切り傷を丹念に消毒した。
 俺にそんな手当てしてくれてる松下の顔にも殴られた跡があって、俺はそっちのがよっぽど痛そうじゃねーかと思いつつずっと黙ってた。
「ほらよ」
 タオルに包まれた保冷剤を渡されて、部屋の隅のクッションを指差される。指示されたままクッションの上に座ると、本当に自分が猫になったような気がした。松下もおざなりながら自分の顔に手当てを施す。顔を顰めながら唇の端の傷を舌で確認する様は、なんだか野生動物みたいだった。ずいぶん派手に殴られたもんだ。めずらしい。
 ココアに口をつけながら、その面白い手当ての一部始終を眺める。
 暖かい。フル稼働のヒーターとエアコンの甲斐あってか、体もだいぶ温かくなってた。
 泣いたからかな、ちょっと喉が痛い。あんなふうに声を上げて泣くなんて何年ぶりだろう。まるで子供。駄々をこねてる子供みたいだった。
 ……ああそっか、俺ずっと駄々こねてたんだ。仲間外れにされて拗ねて、それで一人で意地張ってたんだ。すごいバカみたい。
 もう戻らないものを認めたくなくて、ずっと駄々をこねてるんだ。いまも。
 すげーガキじゃんね、俺。これじゃ誰に「ガキ」って云われても文句云えない。でも、なんかそう解ったらだいぶスッキリした。たぶん心が認めるまではまだ時間がかかるけど、それでも俺さっきよりは確実に一歩前に進んだ。だってほら、こんなに景色が違う。
 じーっと見つめてると迷惑そうに松下が顔を上げた。
 封筒から出して眺めてた何枚もの写真をまた元通り中にしまって、今度はそれを厳重にカバンの中にしまう。それはアレか? 俺に捨てられないようにか? どうやら課題の一つはこれで終わったらしく、松下は台所に行くと熱いマグカップを片手に戻ってきた。
 今日は俺も松下もメンテは入ってない。めずらしく二人とも家にいる、そして持て余してる夜だった。松下がスイッチを入れたテレビはなぜか四分三十二秒後に、ヒュン…という情けない音を出して事切れてしまって。ああ、これはご臨終だな。
「…逝ったか」
「逝ったね」
 貰い物のテレビがよくあれだけ持ったもんだ。
 相変わらず俺はクッションに乗ったままココアを飲んでて、アイツはテーブルに片肘ついて開いたままだったページをめくりはじめた。俺とアイツの距離、約一メートル。手を伸ばせば届きそうで、でも届かない距離。
 アイツも俺も、このまま動かなければずっと変わらない。縮まない距離。でも――。
「っかしーな…」
 ふいにアイツがその距離を縮めてきた。
 テーブルをまたいで俺のすぐ脇で山になってた雑誌をあさりはじめる。お目当ての号がなかなか見つからないのか、軽く眉間にシワを寄せながらその山を突き崩す。
 そのうちついに発見したのか。立て膝なんて中途半端な体勢のまま、俺の横でページをめくり始める音がして。
「松下」
「あー?」
「キスして」
 思わずポロリと云ってから、そういえばこういうの俺らの間でわざわざ言葉にするのって初めてだなって思った。
 松下が何か云いかけた口を小さく開けたまま、しばし固まる。
 それから無言で落ちてきた眼差しがなんか初めて見るってぐらい真剣な色合いに満ちてて、俺はドキドキしながら松下の次の行動を待った。長い前髪の隙間からこっちに落ちてくる視線が、場違いにセクシャルで眩暈を起こしそうになる。
「熱あんのか?」
「ないよ」
「じゃあ寝言?」
「何? 松下は寝言にしたいの?」
「そりゃ、これが夢だってお墨付きがありゃ」
 これぐらいは軽くできる、呟かれた台詞と雑誌が転がる音。それと同時に視界が真っ暗になって、厚い胸にググって押し付けられてた。強く抱き締められて背骨が軋む。
 あ、ど、どうしよう…。
 抱き締められたまま髪を撫でられて、途端に涙腺が緩くなる。俺さ、やっぱすごくいま子猫の気分なんだよね…。しかも人懐こ過ぎてマズイって感じ。
 どうしよう、ヤバイ? ヤバイかな、これ?
 苦しいぐらいに俺を抱く腕。これ以上ないぐらいキツい拘束。
 でも、俺なんかもう、無理みたい…。
 温もりから離れたくない。放されたくない。抱き締めてて欲しい。このままキツくキツく息も出来ないぐらい。
「今日だけな。甘やかしてやるよ」
「……っ…ク」
 今日だけでいいよ。夢でいい。寝言でもいい。幻聴でも、ただの錯覚でもいいから。
 いまこの瞬間だけでもいいから、放さないでほしい。この腕の中から。
「声出して泣けよ」
 ギリギリだった感情が一気に溢れ出て。
 俺は松下の腕の中で泣いた。


 ずっと俺の髪を撫でてた掌。
 一頻り泣き終えたらその手がスルリと下に降りてきた。離れようとする体に逆にしがみつく。ポンポンと優しく背中を叩かれた。泣き疲れた子供をあやすみたいな感じ。そうされるとすごい安心感があって、俺はますますしがみつきながら黒いタートルに顔をうずめた。細い、溜め息みたいな息が首元をかすめた。
 途端、ハッキリしていく意識。さっきまでは本当に夢の中にいるみたいだったんだけど…。でもいまは半分以上、覚醒しちゃった感じだ。アイツも俺も何も云わないけど、部屋ん中を満たしてる空気が違う。さっきまでとはぜんぜん。でも気まずいとかそういうんじゃなくて。…変な感じ。
「ねえ」
「何」
「キス、してくれないの?」
「……やれやれだな」
 背中にあった手が腕の下に回り、ヒョイと松下の上に座らされる。
 目と目が合って。一秒後にはもうキスしてた。向かい合わせになった姿勢のまま、松下の首に両腕を絡めてそのまま長いキスを続ける。
 あ、またなんか夢ん中にいる感じ。心地よい大きなうねりに身を任せて、真っ青な空から真綿の海にダイブするみたいな。
 すごく気持ちいい…。
 舌の上に残ってたショコラの余韻が行ったり来たりしてる。
 甘い、けど苦い。
 でもやっぱり甘い。
 知ってる? チョコレートってね。
 高校ん時に沢見に聞いた話を思い出す。

『チョコレートって、食べると恋してるような気分になるんだってね』
『えー、なんで?』
『人が恋をすると脳内に出る物質と、すごくよく似た作用をするらしいよ』

 だからショコラの味は恋してる気分。
 なあ、オマエもいま、そういう気持ち味わってる?
 俺と同じぐらい恋してる気分になってる?


 今日寝て、明日起きたら全ては今まで通り。
 それでいいよ。だからね、いまこのちょっとの間だけでいいから。
 話さないで。離さないで。放さないで。
 俺が膝の上で子猫になってる、そのほんのちょっとだけでいいから…。
 ショコラの気持ちを味わわせて。


end


back #