チョコレート・ホリック



     チョコレート・ホリック
 それはなんとも甘美で耐え難い誘惑……すなわち、それ中毒症状。


 松下の家を出た三日後がバレンタインだった。
 沢見に付き合ってもらってチョコを買いに行ったのが昨日。
 そして今日になって連絡しようと思ったら、料金滞納で携帯が止められてることに気がついた。
 平日だから学校には行ったはず、と思う。水曜はどのバイトのシフトも入ってなかったはずだから、ここで待ってれば会えると思ったんだ。確実に松下に、会えると思ったんだ。
 固い扉を背にして、もうどれぐらいここに座り込んでるんだろう?

 沢見の家に移ってから、なぜかあまり眠れなくて夕方のこういう中途半端な時間に、急に眠気が襲ってきたりする。さすがにこんな吹きっさらしの所じゃ眠れはしないけど、それでも防寒はばっちりできたから気がついたら少しウトウトしていたみたいだ。
 ガサ、と紙袋の中で小さな包みが擦れる音がしてハッと我に帰る。
 しゃがんだ足と胸の間に、見事に嵌り込んでいる紙袋。
 しまった、潰れたかも…?! と思って慌てて確認してみたけど、とりあえず包装は崩れてないみたいなので一安心。中身もたぶん大丈夫なはず。
 早く、帰ってこないかな。こんなことなら合鍵返さなきゃよかったって思う。
 ……いやいや、でもそれじゃまた甘えちゃうかもしれないから、男の意地で決めたんじゃないか。
 男たるもの、有言実行でなければ…!
 今日もチョコだけ渡したら帰ろうって思ってる。
 アイツの顔見て、渡すもの渡したら帰ろうって決めてる。
 ……その自信が揺らがないうちに、できれば帰ってきて欲しいんだけどな。
 毛糸の手袋に包まれた指先を吐く息で暖める。どんなに厚着してても、さすがにこんな外に座り込んでると末端からじわじわと冷え込んでくる。
 ふいに、カンカンカン…と階段を昇ってくる音がして俺はドキドキしながらその方角に視線を縫いつけた。俺がここに居座りはじめてから初めての足音。
 もしかしたら違うかもしれないけど、もしかしたらアイツかもしれなくて。
「……和泉?」
 白い息を吐きながら階段を上がってきたのは、ものすごく見覚えのあるピーコートだった。


 扉の前に座り込んでる俺を見て、さすがに驚いたのだろう。松下の目がちょっとだけ瞠目する。
 その耳には開いた携帯が押し当てられてて、機械的な女性のアナウンスがうっすらと俺のところまで聞こえてきてた。
「…なんだよ」
 俺の顔を認めた途端、誰かにつなげようとしていた電話をあっさり諦めて、ピーコートのポケットにしまい込む。
「おまえの携帯、朝から通じねーぞ」
「え? あっ」
 言われて初めて、いまかけてたのがどうやら自分の携帯だったらしいことを知る。
「料金滞納で今朝から止められてて…」
「早いとこ払ってこいよ。おまえの家族も心配するだろ、これじゃ」
「はい、スミマセン…」
 顔を合わせるのは三日ぶりだというのに、なんと早々に説教を食らってしまった。チクショウ…と思うも明らかに松下の方が正論なので、この場合俺に云い返せる言葉はない。
「ほらどけよ、開けるから」
「……あい」
 ドアノブに見慣れた鍵が差し込まれて、くるりと一回転するのをじっと見つめる。
 ガチャっという、これも聞き慣れた開錠の音。
 開かれたドアの隙間から、三日前とほとんど変わらない簡素な室内が見えた。
「寒いから入れよ」
「あ、でも、俺…っ!」

 男は有言実行! 今日はチョコだけ渡して帰るのだ…!
 持ってた紙袋を素早く押しつけようとしたところで、俺はスコンと後ろから何かで後頭部を叩かれた。

「ここ通路。ジャマだからとりあえず入れ」
「……あい」
 こうして俺は済し崩し的、玄関のたたきに足を踏み入れた。
 俺を置いてさっさと靴を脱いだ松下が、首から水色のマフラーを抜きながら鞄をラグマットの上に放るのをその場に立ち尽くしたまま眺める。ヒーターのスイッチを入れた足でキッチンへと消えるピーコート。きっと今日も、あの下は薄着なんだろうなと思った。この真冬だというのにあの鈍感男は、部屋に一人だと「暖房」という概念すらをたまに忘れ去るらしい。
 ったく、おまえはどんだけ鈍いんだっつーの。
「…………」
 だからあのヒーターはいま、俺のために入れてくれたんだと解る。

 なんか解んないけどキュ…ッとして、俺は慌てて心臓の上を押さえた。

「いつまでもそんなところに突っ立ってるなよ」
「……あーい」
 松下の声に促されて、モソモソと靴を脱いでフローリングに上がる。あれから三日しか経ってないのに、なんだかこの部屋の匂いが懐かしい気がした。
 よし、こうなったらもう寛いじゃえ。勝手しったる傍若無人さで、ラグマットに転がってたお気に入りのクッションを利き足で蹴り飛ばしてローテーブルのそばまで寄せる。だがその様子をマグカップを両手、キッチンから戻ってきた松下にしっかり目撃されてしまった。
「…………とりあえず座れ」
「ほんとスミマセン…」
 ひとまず詫びを入れてからクッションの上にちんまりと座る。
 ローテーブルの上に、熱々のココアがことんと置かれた。白い湯気と甘い芳香とが心地よく鼻腔をくすぐってくれる。そういえばこのココアにしろ、冷蔵庫のプリンにしろ、色々なものがまだこの部屋に残ったままなのを思い出す。
 熱いマグカップに両手を添えたところで「ちょうどよかった」と、いつもの声音で言いながら松下が俺の斜向かいに腰を下ろした。
「おまえの荷物けっこう残ってるだろ? 持ってくんなら早いうちがいいと思って電話したんだよ」
「あ、なんだ…」
 松下の前で波々と揺れてる、ブラックコーヒー。
 そりゃそうだよね。この男にバレンタインなんて、甘いイベントをきちんと認識しろって方が難しいのかもしれない。
 今日が14日だから連絡くれようとしてた? ……なんて。
 勝手にそんなこと思ってた自分に「バーーーカ!」と内心だけで告げる。
 そもそもコイツ、甘いモン好きじゃないし、こんなんあげたって別に喜ばないよな?
 むしろ貰って迷惑みたいな、そういう顔しそう。いや、絶対するね。
 ……いちおうそんな甘くないシャンパントリュフを選んでみたけど、自分で食わずに誰かに横流しとか、そういうのもやりそう。まったく、人の気持ちをなんだと思ってやがる。
 つーか俺ってば今日、何やってたんだろう?
 ほんとバカみたいだって思った。

「荷物……いらない。おまえの好きにしていいよ」
「フウン、全部捨てるぞ?」
「いいよ。捨てて」

 なんだろう? 急に悲しくなって俺はココアを見つめたまま、きゅっと下唇を噛んだ。
 別に何も、ここで俺がこんなに凹む必要とかないのかもしんないけど。やっぱり俺がここにいた日々は、コイツにとって迷惑だったんじゃないのかなとか思う。
 だって俺甘えてたもん、おまえに。なんだかんだ文句云いつつも、おまえは受け入れてくれるって知ってたから。だからここに逃げ込んだんだよ。そういう自分が何より嫌で、沢見が帰ってきたのを切欠に俺はようやくこの家を出ることができた。何よりお荷物だったのは、俺だろ?
 わざわざこんなところまでこなければヨカッタ…。

 ややしばらく続いた沈黙を、先に破ったのは松下の方だった。

「忘れないうちにコレ渡しとくぜ」
 ピーコートのポケットから引っ張り出した包みを、松下がピンポイントで俺の額にぶち当てる。
「い…った…!」
 その感触で、さっきドアの前で俺の後頭部を叩いたのもコレに違いないと確信を抱く。
「珠チャン先輩んとこのヤツ」
「……え?」
「おまえみたいな甘党には重要なんだろ、14日ってのは」

 うん、重要。すごく重要。
 松下が俺にコレをくれたってのが重要。
 わざわざ俺のために買ってきてくれたってのが重要。
 え、つーかまじで……?

 細長い水色の包装紙に、金と銀のくるくるとした細いリボンが巻いてある。
「これ、限定のトリュフじゃん」
「……それ見ただけで解るのか?」
「解る。これ好き。すげー食べてみたかったんだ。超スキ!」
 さっきが赤信号だったとしたら、いまは完全に青信号。
 頬が自然に緩んでしまうのを自分ではまったく制御できない。
「すき、好き、スキ……すげー好き」
 俯いたまま何度も繰り返すと「そりゃよかったな」ってテーブルの向こうで笑う気配があった。
「うん、マジ好き」
 最後だけ顔を上げて、松下の目を見て真剣に呟く。

 ヒーターの可動音で満たされた室内に。
 またはじまった沈黙がゆっくりと、ゆっくりと、たゆたう。
 このままキスとかそういうふうに流れるかなって、ちょっと思った。
 でも俺もあいつも動かないまま、永遠とも思える数秒が目の前を通り過ぎる。

「そっち、行ってい?」
 返事を待たずに立ち上がると、俺はローテーブルを回って松下の膝をひょいと跨いだ。
 向かい合わせでその膝の上に体重をかける。ピーコートの裾をぎゅっとつかんで首を傾げると、松下が呆れたように片目を眇めた。
「甘やかすのはこないだ限りって云わなかったか?」
「じゃあ甘やかさなきゃいいじゃん」
「お、云ったな」
 目前に迫った指が失礼にもデコピンをかましてきやがる。
 さっきチョコがぶつかった時よりも明らかに痛いぞ、このヤロウ……。
 思わず両手で額を押さえると、その隙を盗むように軽くキスされた。

「ん?」

 慌てて松下の顔を見るも、そこには「どうかしたか?」的な表情しか浮かんでなくて。
 どうやら完全に惚ける気満々のようだ。
 何、この卑怯な男……。
 ムカついたので、俺は目の前にあった鼻の頭にガブリと噛みついてやった。
「いてーな、オイ…」
「先に仕掛けたのはそっちの方だろ?」
 あれ、なんでいつものケンカになってるんだ…?
 三日前と変わらない空気が俺と松下の間にあることを知って、俺はなんだか急に安心した。
 安心、したんだ。すごく。

 間近にある頬に触れて、あれ少し痩せたかな? とか思ってみる。
 たった三日でそんなに変わらないか。
 うっすらと霞みはじめた視界に松下の不審げな眼差しを捉えながら、俺は一週間前にチカ兄がつけた唇脇の傷を撫でた。さすがにもうほとんど癒えてる。傷跡もこの至近距離で見ないと解らないほどだ。
「あ、そうだ」
 危ない、危ない。あやうくその存在すら忘れかけてたところだ。ラグマットの隅に放置したままの紙袋を「あれ」と振り返って指差してみせる。
「おまえにやるチョコな」
「あ?」
「じゃ、そーゆことで……」
 それだけ告げると俺はカクン、と松下の肩に額を預けた。
「オイ?」
 どうしようもない睡魔がずるずると俺の意識を引き摺っていく。
 ほぼ平地に近い雪山の起伏を、ゆっくりとソリで下っているみたいな感じだ。
「……顔色悪いと思ったら寝不足かよ」
 充電切れ一歩手前の俺の耳元を、松下の溜め息がふわりと掠めた。
 背中に回された手が俺を支えてくれるのを感じながら、一度だけ大きく息を吸う。
 あ…松下の匂いがする…。
 途端にさっきの安心感が何倍にもなって膨れ上がった。
 ちょっとだけ。ちょっとだけでいいから枕になってくんないかな…?
 回した手でピーコートの背中をぎゅっとつかんでから、夢の国までのカウントダウンをはじめる。

「せめて上着ぐらい脱いでから倒れろ?」

 そんな説教を最後に、俺はしばし夕寝の世界へと旅立った。


end


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