コーカサスの虜



 明け方近くまで映画を見ていたせいで、目覚めた時にはすでに太陽は傾き始めていた。

 最近観た映画の中では、重い部類の内容だったと思う。もっとも軽い戦争映画なんてあるワケもないが。
 夏休みの課題に指定でもされない限り、自分から観ることはなかったろう映画だ。夢の中で兵卒の絶望を反芻していたような気がして、だいぶ寝たにもかかわらず頭の芯が鈍くて重い。脳裏に引っかかっている夢の切れ端は、怖いほどに美しく、そして残酷で悲しかった。戦争を始めることは簡単だが、終わらせることは難しい。監督の言葉が胸に痛い。

 ……にしてもかったるいな。元来ショートスリーパーの気があるらしく、たまに長く睡眠を取ると却ってその方が疲れてしまう。今日はバイトもない。とりあえずDVDの返却がてら、夕飯の材料でも調達してくるとするか。財布と携帯だけをポケットに突っ込んで立ち上がったところで。

     ピーンポーン

 インターホンが来訪者の存在を告げた。受話器での応対が面倒で直接扉を開けると、「よう」計算づくで小首を傾げた和泉がそこに立っていた。ニコリと笑った表情の奥でチラチラと何かが見え隠れしている。
「何の用だ」
「松下さ、今日メンテ入ってないよね?」
「だったらどうするって」
「ビデオ! 観ようぜ一緒に!」
 今度は反対側に首を傾げて見せる。微妙に上目遣いなのも当然、計算の上でだろう。胸に抱えたレンタル屋の袋。ああ…。なんとなく先が読めたような気がする。
「別に俺の家で一緒に見る必要はねーだろ」
「だって、俺んち誰もいないんだもん」
「要するに一人で見れない映画なんだな。んなモン借りてくんな」
「だって観たかったんだもん!」
 それに自分が巻き込まれる必然性が解らない。つーかコイツ、なんで俺んち知ってるんだよ。ジーワジーワと蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。傾いた陽が和泉の足元に長い影を落としていた。額に浮いた汗。確かコイツ、方向音痴だって話を前に聞いたような気がする。加えて店長の悪筆は筆舌に尽くしがたいものがあった。
「よく店長の地図、解読できたな」
「…実はすげー迷った」
「入れよ」
 西日の中、立ち話をするのもなんだ。大きく扉を開いてやると目に見えて和泉の表情が明るくなった。
「やたっ、お邪魔しまーす」
「オイ、土産の一つくらいあるんだろうな」
「なんだよ、美少年一人じゃ足りなかった?」
「云ってろ」
 玄関で脱いだ靴をきちんと揃えてから、和泉がキョロキョロと窺うような視線でリビングへと向かう。要所要所の躾はきっちり入ってるんだよな。キレイに揃えられた水色のマルセイユ。隣に並んだ自分のニューバランスがやけに馬鹿でかく見えた。そういえば、バイト先の誰かを家に上げるのはこれが初めてだな。
「入るぞー」
 リビングの扉の前で立ち止まった和泉がくるりとこちらを振り返る。サッサと行けよ、と指先で促すと「エロ本とか隠さなくていいの?」と妙に神妙な顔つきで小さく首を傾げて見せる。素なのかソレは。
「んなヘマしねーよ」
「なーんだ」
 二歩で追いついた背中を軽く後ろに引きながら扉を引き開ける。
「わっ…」
 よろけた体がトンと胸に当たった。振り向きざま見上げてくる視線の挑発。悪いけどそのテは食わねーよ。
「いつまでも突っ立ってンなよ、邪魔だ」
 取り合わずに受け流すと、和泉は少し残念そうに「ちぇっ」と呟いてから前に進んだ。室内はお世辞にも片付いてるといえる状態ではないが、元々家具やらなにやら最小限のものしか置いていない。さっきまでの遠慮は何処へやら。和泉は部屋の隅にカバンを放ると、敷きっ放しだったマットレスの上にゴロリと寝そべった。
「お茶」
「知るか」
 キッチンから一人分のアイスコーヒーを手に戻ると、和泉が派手に頬を膨らました。ヒデー顔してんぜ、オイ。鏡見せてやろうか? 
「この家にゃ甘い飲み物なんて存在しねーぞ」
 蛇足ながら付け加えてやると、和泉は愕然としたように目を瞠った。
「アリエナイ!」
 怒涛の抗議よろしく八回その台詞を繰り返されたところで、そういえば…とふと思い出す。こないだ姉が来た時に置いていった缶のミルクティーがあったな、冷蔵庫に。カシマシイ和泉を冷え切ったそれで黙らせると、俺はラグマットの上に胡坐をかいた。
 和泉がいそいそとレンタルバッグの中から数本のビデオを取り出す。オイオイ、何本見てく気だオマエ…。目で追ったタイトルがあまりにも定番過ぎて思わず吹き出しそうになったのを堪える。
「いまさらそんなのが観たいのかよ」
「だって観たことないんだもん」
「やめとけよ、寝らんなくなるぜ」
「…そんな怖い?」
「お子サマにはな」
 和泉の頬がまた膨らむ。そーいうトコがオコサマだってんだよ。三本のビデオテープを前にしばし眉間にシワを寄せていた和泉だったが、そのうちの一本をつかみ上げると四つん這いのままテレビの前へと移動する。「これ、どこが電源?」とか、電化製品にあまりに不慣れな質問に適当に返答しながら、ローテーブルに読みかけだった雑誌を広げる。パラパラとページを繰ってると、強張った顔つきの和泉がクッションを抱えてマットに転がった。そんな顔してまで観る意味がどこにあんだか…。皆目見当もつかないが、和泉なりの理屈があっての結果なんだろう。そこに至るまでの経緯が知りたいわけでも、現時点での和泉の心境が知りたいわけでもない。ただなぜか、コイツはこれを抱えてココにやって来たという事実。それが目の前にあるだけだ。

「照明、落としてやろうか?」
「フザケンナ」
 映画もそろそろ中盤。途中、何度も上がる悲鳴に中断を余儀なくされつつも、読みかけだった雑誌をついには熟読し終えてしまった身としてはあまりに手持ち無沙汰な状態が続いていた。
「…俺、買い物行ってくるワ」
「フザケンナ!」
 間髪いれず、和泉の手がシャツの裾を握り締める。直後、ブラウン管の中でガラス板に飛ばされた首が宙に舞った。声にならない悲鳴を上げた和泉がバタバタとマットレスの上を転がり回る。だからそんなになってまで観るなっつーの。悶絶の極地から還ってきた和泉の目には、多量の涙が浮かんでいた。

「松下! ココ!!」

 マットの上をバシジバシと叩きながら、シャツの裾をグイグイと引っ張る。いまのが相当怖かったらしい。シカトして泣かれても面倒なので、仕方なくラグマットからマットレスの上へと移動する。それを待っていたように和泉が俺の背後に回った。胡坐をかいた俺の膝越しにブラウン管に注がれる真剣な眼差し。ここまで怖がりのヤツがこんなの観たら、後が大変に決まっている。
 ……よく解んねーよな。これが怖いもの見たさというヤツなんだろうか。身近にこのテのタイプがいなかったのでそのへんの心理はよく解らないが。警戒心の強い野良猫のように、背後で小さく蹲った和泉の盾を、務めるともなく続けるうちに画面がエンドロールに切り替わった。夕方のチャイムが辺りに鳴り響く。
「ふう、怖かったー」
「なら観なきゃいーだろ」
「ダメッ、これ観てカエ姉を見返すんだから!」
「…あっそ」
 かなりの意地っ張りだろうとは思っちゃいたが、どうやらコイツのは筋金入りだな。馬鹿みたいな意地をいくつも張って、引っ込みのつかなくなる典型タイプ。こういうヤツにはけっきょく何を云っても無駄なのだ。
 チラリと見たレンタルバッグに挟まれてたレシート。返却日からしてこのまま続けて残りの二本を見させられるハメになるのは明白だ。腹が減ったと大騒ぎする和泉をシカトで、二杯目のコーヒーを入れにキッチンに入る。
「あー、これパセリ入ってるのかぁ…」
 戻ってきた時にはなぜか和泉の手には、宅配ピザのメニューと携帯とが握り締められていた。
「俺ね、アスパラと茄子とブロッコリーは食べらンないから。松下は?」
「オイ…どっから出してきたんだ、そのメニュー」
「え、下のポストに突っ込んであったよ?」
「あのな」
 人ン家の郵便受けを勝手に漁るなっつーの。結果として、食材の乏しいこの家において有効な選択肢の一つではあるがな。だがしかしだ。悪気がないというよりはむしろ当然、といった顔つきでメニューを捲っている和泉にカチンと頭の隅が鳴った。
「ちょっと貸せ」
 和泉の手から奪ったメニューに目を通しながら携帯にピザ屋の番号を打ち込む。和泉にクチを挟ませる隙なく、淀みない注文を素早く終えると俺は通話を切った携帯をマットレスに放り投げた。
「ちょっと待て、いま何頼んだ?」
「茄子とかアスパラとかな」
「テんメッ、食えないつってんだろ!」
「なら食うな」
「バカ!」
「気に食わねーんなら出てきゃいーだろ」
「この人でなし!」
 語彙が貧しいにも程がある罵りを受けながら、巻き戻し終えたテープを取り出してローテーブルに乗せる。あと二本も映画を観なくてはいけない境遇としては一分のタイムロスも惜しい。もはや定位置と化したマットレスに腰を下ろすと、和泉がソロソロと背後に回った。これみよがしな演出にいちいち引っかかっては悲鳴を上げる和泉を背に、ただひたすら字幕を目で追う。何度目かのクライマックスが来たところで。

     ピーンポーン

途端に引き攣った悲鳴が湧き上がるのをその場に残して、玄関に向かう。防音仕様の部屋で心底ヨカッタと思わざるを得ない。こうも頻繁に悲鳴を上げられちゃーな…。ピザを片手にリビングに戻ると、和泉が真っ白い顔を幾分青くしてマットレスの上でジタバタと暴れていた。階下に響くからヤメロっつーの。ローテーブルに缶ジュースとピザを並べてやると、しゃくり上げながらも伸びてきた手が勤勉にそれを口に放り込む。人間の五感てのは面白いもんだな。どうやら恐怖と食欲とに意識を支配されてる所為で、味覚にまで気が回っていないようだ。ややしばらく経ってから。
「アスパラ、食えないって云ったのにー…!」
 阿呆が今頃気付いたのか、和泉が食いかけのピースを箱の中に戻す。すでに三ピースは腹の中に収めてるくせに。意識も視線もブラウン管に奪われていてそれどころではないのだろう。もう何度目か知れない悲鳴が湧き起こる。にしても、うるせークチだよな。あれ塞いだら静かになるだろうか? ぼんやりそんなコトを思う自分に内心苦笑する。あーあ、ヤキが回ったとはこのコトか。
「ヤバイって! むしろ家族見捨てた方が早いって!」
 クッションを思い切り抱き竦めながら、和泉が意味のないアドバイスを画面に送る。いいな、オマエの人生は楽しそうでよ…。胡坐から体勢を崩して両足を伸ばす。ただ座ってブラウン管のチラツキを見ていると、眠くはないはずなのに頭の芯がだんだんと鈍ってくるようだ。映画自体は前に何度か観てるヤツだし、展開なんていかにも過ぎて笑っちゃいそうなのに。気付くといつのまにか画面に引き込まれていた。

「…おい」

 やけに静かになったな。字幕を追ってた視線を背後に流すと、寝息を立ててる和泉がそこにいた。シャツの裾を握り締める指は変わらず。白い頬をシーツにやんわり押し付けて、健やかな呼吸を繰り返す肢体が猫のようにマットの上で丸くなっていた。
 初動はなんだったろう。もう覚えてない。鼻っ柱へし折ってやろうとか、世間を教えてやろうとか。尤もくさくつけた理由をいつのまにか自分でも本意と思い込み始めてたから。
 見なくてもいい。触れなくてもいい感情だと、頭の隅が静かに告げる。だが――。


 目を奪われずにはいられない。
 その身に触れずにはいられない。


 長く揃った睫毛の先に零れることのなかった涙が纏わりついている。触れた指先を濡らすソレ。辿る頬の滑らかな感触が左胸に甘やかな針を刺す。そうしてもたらされる感情を名付けてよいものか、本当はずっと迷っているのかもしれない。人を愛することより、殺すことの方が簡単なのだと。明け方近くに観た映画を思い出す。兵卒の運命を辿るとしても、後悔しないと云えるだけの保障はどこにもない。けれど虜も悪くないと思ってる自分は、すでに逃げ道を失っているのかもしれない。絶望にしては甘く、切望にしては息の長いこの戦いを。


 終わらせる気なんか何処にもないのだから。


 砂嵐のチラツキが部屋中を揺らめく。リモコンでテレビの電源を落とすと急速に部屋の中が空虚に満たされた。タイムリミットを間近に熟睡とは余裕じゃねーか? さて、どう起こしたものか。しばし考えた後、俺は和泉の食いかけブロッコリーをその半開きの口の中に放り込んだ。
「フガガ…ッ?」
「起きろよオコサマ。寝るにゃまだ早ェーぜ?」
「フグ…っ、フガガガ…!」
「悪いけど人間の言語しか解らねーんだ、俺」
「フザケンナ…ッ!」


 和泉の振り回した手がリモコンに当たって、砂嵐が再びリビングを席巻した。


end


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