バウンド



 スリルが欲しいなら日常を捨てればいい。
 在りきたりなんか捨ててしまえ。
 振り向かずに行ける所まで、息も継がずに走り続けよう。
 ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド。 


「あの、クソ兄貴め…」 
 苦い顔をしながらスムージーをかき混ぜる横顔には派手な絆創膏と痣が目立っている。この顔にこれだけの跡を残すとは思いきりがいいというか。おかげでかわいい顔が見事に台無しである。しかしそれが逆に跳ねっかえりな部分を強調していて、これはこれでいいかもしれない。などと思うのは自分が思いきり部外者だからだろう。

 日曜の午後。ショッピングモールのウィンドウを眺めていると、兄に殴られたという和泉に偶然出くわした。しかもこの有様である。面白いので待ち合わせまでの時間をモールのカフェに付き合わせることにした。
 ビターキャラメルスムージーをぐるぐるかき混ぜながら和泉が唇を尖らせる。松下の家に転がり込んでるらしいことを聞いてはいたが、甘いハナシは期待できないようだ。いつもは黙ってても華やかな雰囲気を放っている和泉だが、今日はどこか憔悴した空気を纏わりつかせている。
「いつまで松下の所にいるの?」
「…わっかんね。もうあそこには帰らないかもしんないし」
 一点を見つめながらもその瞳の中の光は忙しく揺れ動いている。こんな顔もするんだ、このコ。初めて見る和泉だった。いつものあの、ちょっとやそっとじゃ手懐けられない、意地でも服従を誓わせたくなるようなじゃじゃ馬ぶりはすっかりなりをひそめ、いま目の前にいるのは触れたらそのまま崩れてしまいそうな、まるで心細い目をした捨て猫のようだった。それでも心は悟られまいと精一杯の虚勢を張っているのがよく解る。
「ふうん、そう…」
 これは松下の自制心が試される時かもしれない。普段ならまだしも精神的に不安定な和泉は、いつにも増してこちらの衝動を煽るモノを持っている。ふとした時の無防備な表情。思わず唇を塞いでしまいたくなるような。
 さーて、松下はいつまで持つことやら。松下の苦虫を噛み潰したような顔を思い浮かべ、思わずほくそ笑んでしまう。ザマーミロってんだ。
「ねーさんは待ち合わせ?」
「そう、あたしのステディがくるのよ」
「へーえ。よほどカワイイ子なんだろーな」
 何の疑問もなく和泉がそう云う。なんでそこで落ち着いた紳士がくるとは思わないわけ? ヘンな所で洞察力の鋭いコよね。しかも本人はまるでそれに気付いてないときてる。ホントに面白い素材だ。いつもの火傷しそうな負けん気も、今日みたいな危うい線の細さも。どちらもファインダーにおさめてみたい気にさせる。極めて特異な存在だ。松下もかなり特殊なヤツだけど。


 松下と和泉。フタリの行く末がこんなにも気になってしまうのは、ただの野次馬根性だけではないだろう。
 約束の十分前。張り出したテラスからこちらに向かって歩いてくるリカの姿が見えた。
「じゃあ、あのハナシ考えといてよ。報酬は弾むから」
「…まじ?」
 報酬の二文字で和泉の目の色が変わる。まったく、ヘンな所で思いきり素直だし。調教したらさぞかし面白いことだろう。出来れば自分で手掛けてみたいくらい。
「それって簡単?」
「ただ云われるまま突っ立ってリゃいいの。ラクでしょ?」
 ニ週間後に知り合いの新人デザイナーが、新作の撮影を行うことになっていた。カメラマンとして自分も参加することになっている。もしそこで和泉が使えることになれば、かなりオモシロイことになるだろう。
 モデルの仕事で使う、名前と携帯番号だけが入った名刺を渡す。
「ま、軽く考えといてよ」
営業スマイルに乗せて鈴を転がすようにコトバを投げかける。云うだけならいくらでも取り繕える。捕えるコトさえ出来ればあとはこっちのモノだ。
「んー…考えとく。じゃ、俺もう行くわ」
 飲み終えたグラスをコトンとテーブルに戻して和泉が立ちあがる。
 それをヒラヒラと片手で見送り、アタシはシガレットケースから抜いた一本を口に咥えた。階段に向かう和泉とこちらに向かってくるリカとがすれ違う。和泉の赤毛を追うようにリカが立ち止まり振り返った。



 コトン、コトンと靴を鳴らしながらテラスのテーブルまで歩いてくる。
「あのコが例の?」
「そう。なかなかカワイイでしょ?」
「ええビックリしちゃった」
 そう云ってリカが笑った。和泉が詐欺的ロリータならリカはその名の通り、等身大リカちゃん人形だ。小作りな顔立ちにパッチリとした目。小さな口元。肩の少し下で切り揃えられた艶やかな栗色の髪が、華奢なカラダにさらりとかかっている。笑うと片頬に浮かび上がるエクボ。
「ねーさまの気持ちが解りましたわ」
 和泉はリカの眼鏡にも適ったようだ。まったく大した器だ。
 腕時計が3時をさす。うっすらと店内が暗くなり始めた。これから午後の上映が始まる。真っ白い壁に映し出される映像。
「今日は?」
「バウンドですって、ねーさま」


 ジーナ・ガーションの唇はいつ見てもセクシーだ。
 セクシーさの欠片もない役所にも関わらず、ユニセックスな役柄に彼女特有の色気が加わり、得もいわれぬ存在感を作り出している。
「ねーさま、今日の新聞見た?」
 英語の台詞に混じってリカの囁きが耳元に流れ込んできた。
 普段の生活に支障がでるほどではないが多少、乱視の気がある。眼鏡の視線を雑誌からリカの取り出した新聞記事の上へと移す。遠野流という字と家元という2文字とが紙面に散っている。
「…ふうん、やっぱ朱実になったか」
 悶着の果てにクソババアの気に入りが結局、家元の座に落ち着いたようだ。素質がないの一言で自身の娘たちを一蹴した末、ババアが次期当主に据えたのは弱冠17歳の小娘だった。母親の落胆にくれた顔を思い出す。あんな古い因習に塗れた世界のどこに誇りを見出しているのか、いまだに理解に苦しむところだが。

「葉子サンにはきっと一生解らないわ」

 最後に会った時の朱実の台詞がリピートされる。そう、一生解らないだろう。あそこを出て行ったアタシの気持ちを、たぶん誰よりも解っていただろう朱実。けれど朱実は制約と束縛と、理不尽が正当化される世界を自ら選んだのだ。あるいはアタシが歩んでただろう道。

 後悔はない。百万回生まれ変わろうともきっと同じ選択をしているだろう。アタシがアタシである限り。
「ねーさまの妹君?」
「従妹。野心家でね。先が楽しみだわ」
 家元は女子高生。
 下らない三文小説みたいなコピーが雑誌を飾る日も近いかもしれない。

 ミルクココアのマグを両手ではさんだまま映画に夢中になっているリカの横で、二本目の煙草に火をつける。
 日曜にこんな所でのんびりしていると、世界中が平和に満ちているような非現実的な錯覚に陥ってしまう。フロアの隅にいるカップル。男の方がさっきからチラチラとリカのことを盗み見ている。ミルク飲み人形のように少し色づいた頬に雪が降り積もりそうなほど、長く揃った睫毛。マグを包む柔らかそうな細い指。この手が繰り出す鞭の威力を彼は知らない。フリルとレースに包まれた人形のような彼女の容姿に幸せな妄想を抱いているのだろう。けれど彼女に踏みつけにされたいという男もゴマンといるのだ。なんて下らない世の中。

 けれど、下らないからこそ面白い。低俗、けっこう。来れ、俗悪。
 偽善と偽悪のマイムはヒトが存在しうる限り止まることはないだろう。
 それでも涙に価値がある限り、アタシは生きていたいと思う。
 本当はスリルなんかいらなかった。縛るものから解放されたかっただけ。
 アタシはアタシ。他のなにものでもない。
た だそれだけのコトを云うのにたくさんのモノを失って、いらない経験を無駄に増やした。でもそれらすべてが愛おしい過去だ。その中のなにが欠けても、いまのアタシは存在しないだろうから。


 映画が終わる頃を見計らい二杯目のココアを注文する。
「ねーさま」
「なに?」 
 近づいてきた唇にそっと唇を塞がれる。柔らかい感触。
「ねーさまは、ずっと私のねーさまでいてくださいね」
「ハイハイ」
 運ばれてきたココアの熱い湯気の向こうで、リカの笑顔が華やかに咲いた。


 これらすべて愛おしい日々。


end


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