メモリーズ・ビター
突如、無性に欲しくなってしょうがなくなる。それ即ち、中毒症状。
「松下佑輔ってアンタ?」
唐突にかけられた声に振り向くと、すぐそこにもう拳が迫ってて。俺は慌てて一歩退くと強烈なアッパーを寸でのところでかわした。ものすごく間近で空を切る音。
「ちぇ、よけるとは思わなかったな」
「…アンタ、誰だよ」
俺の質問にはまるで答えずに襲撃者の唇がニヤリと歪む。
そうすると神経質そうな顔が一気に妙な迫力を帯びて、思わず気圧されそうになる。ケンカ慣れしてるな、コイツ…。気を抜くとやられる。
「じゃあ質問を変えてやろうか。弟のバージン、奪いやがったのはテメェか?」
「…あァ?」
一瞬、反応が遅れた。そのせいでもろにストレートが入る。
骨の当たる音。広がる血の味。
「お、少しは動揺したか」
「アンタ…」
「これぐらいで済むとか、まさか思っちゃいねーよな?」
俯けた視界の端に、ゆっくりと黒いサイドゴアがフェードインする。続けて繰り出されたストレートを避けると、俺はヒョイと横に体を逃がした。
「オイオイ、避けられるとすげームカつくんだけど」
「避けないバカがどこにいんだよ」
「じゃあ哀れな兄貴のために、ちィーとばかしそこでジッとしててくんない?」
「断る」
「カワイくねーガキ」
振り向きざま飛んできた拳を右手で押さえ込む。相手の目が僅かに瞠った。
「何だ、慣れてんだ」
「理不尽な暴力には対抗するクセがついてるんでね」
「なら、もっと指を庇えよ」
昔よく云われたフレーズ。父にも母にも姉にも教師にも。眉を潜める。
「アンタ誰だよ」
「俺か?」
二度目の質問でようやく声のトーンが少しだけ変わった。相手の力が抜けたのを確認して手を離す。ダラリと落ちた拳がトレンチコートの表面をかすった。
「中澤とは学部が一緒でね。闇討ちしてやろうと思ってココ訊いてきた。ま、失敗したけどね」
「あんたの弟ならいま出てるぜ」
口から出まかせを云ってみる。あのガキの動向については関知してないが、とりあえずこの兄が話し合いにきたとはとても思えない。
「知ってる。さっき駅前で殴ってきた」
へーえ、じゃあ俺自身に用があるってわけだ。
まさかホントに殴りにきただけだとか?
「用件は手短に願いますよ」
「まあ聞けよ。ヒトんちの事情なんざ興味もねーだろうがな」
殴る意志はもう捨てたのか、ダラリと両手を下げたまま唇の片端を器用に吊り上げる。そうすると禍々しかったオーラがさらに増して凶悪になった。殴る意志はなくても殺意は滲み出る。そんな感じだ。
「ウチは一家揃って昔から末っ子派でね。親父なんか目に入れても痛くねーとかまじ思ってるし。ありゃ息子じゃなくて完全に娘だと勘違いしてるな。なまじ長女が結婚に失敗したから、最近よけいに末っ子信仰深まっちゃってさ、正直参ってんだよ。実際のトコ、かなり迷惑」
言葉とは裏腹に突き刺さってくる敵意。隠しててこれだってんなら、相当憎まれてるな。ありがたいことに憎まれ役なら昔からやり慣れている。父親からはついに引き出すことのできなかった視線だが、学校では終始こんな視線を浴びていた。懐かしい感覚。戻ってくる五感。
そして働く第六感。
「ちぇー」
隙を突いて出したつもりだったんだろう拳が空を切る。襲撃者は急に気が殺がれたように下を向くと今度は心底楽しそうに笑った。そこにはもう殺気も敵意も残っていなかった。
「ま、いいや。とりあえず一発入れて気は済んだ」
クルリと向けられた背中があまりに呆気なくて、思わず遠ざかるバーバリーを目で追う。口中に広がる血の味。唇の端が派手に切れていた。歯が当たったのなら、向こうの拳も無事では済んでいないだろう。
右手を庇うようにポケットに突っ込み、遠ざかる後姿。
「…なんなんだよ」
口の中だけで毒づく。唇の端が痛んだ。
一気に重くなった足でアパートの階段を上がる。
俺が家を出る時にはまだソファーで眠りこけてたが、あれからココを出る決意を固めたらしい。机の上に残されたメモ。
あーやっと出てったかと思う。なんだかんだで一週間も居座りやがって。あの調子なら家に連絡も入れてなかったのだろう。子供の家出。巻き込まれたコッチはいい迷惑だ。別に引き留めてたワケじゃねーし、好んで囲ってたワケでもねーよ。言い訳ならいくらでも取り繕えた。だが、それが全部ムダなことはあの目を見れば明らかだった。
そんなことは初めから何の焦点にもなっていない。おまえなんかに治まるのかって問われたら、答えは「解らない」だ。考えてみれば俺はアイツのことを何も知らない。アイツが俺のことを知らないように。その必要があるとも思ってなかったが、それは本当にそうなのだろうか?
床にカバンを放り投げたところで携帯が鳴った。
「ああ、何」
冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを呷りながら、耳に押し付けた携帯を肩先で固定する。
ザワザワした喧騒の手前で白木の声が時折、膨張して聞こえなくなる。
「へえ、そうなんだ」
俺もその兄貴に殴られたぜ、と心の中で付け加えておく。
「ふうん。別に止めねーよ、俺は」
白木の言葉を裏付けるように置いてあったメモ書き。
どうせ放っておいても明日メンテで会う。いま俺がここで取るべき行動も、かけるべき言葉も思いつかない。だいたいあんだけ過保護にされてるんなら、とっとと家に戻るのが得策だ。
ペットボトルのキャップを閉めて冷蔵庫の扉を開ける。アイツが勝手に買い置きしやがったプリンがまだ三つほど奥に残っている。俺にどうしろってんだよコレ…。
最後に楽しそうに付け加えられた白木の台詞が、通話を切っても脳内にこびりついていた。
「ご愁傷さま」
……ハイハイ、イタミイリマス。
それに被さるように脳内でリピート再生の始まる台詞。
「――帰れるもんなら帰ってる、っちゅーの」
あの日、アイツが呟いた台詞。
妙にしおらしく俯いた視線で暗闇を見てた瞳。
これはもしもの話だが、アイツがまだ家に帰る気がなかったとすればどこに行く? 少ない選択肢はどれもあまり好ましい状況とはいえない。
本当に世話焼かせるよな、あのクソガキ…。
着たままだったピーコートに財布と鍵だけ突っ込むと、俺はアパートを後にした。だかしかし。
「松下佑輔さん?」
敷地を出て十歩ぐらい歩いたところで、またしても俺を呼び止める声があった。凛とした声の表情どおり、涼しい眼差しの女性が背後に立っていた。ポケットの中でチャラリと鍵が音を立てる。指先にその冷たい感触。
「弟がいつもお世話になってます。よかったら少し、お話できません?」
白い肌、パッチリとした目、赤い唇。弟にそっくりな面差しでそう告げると、その女性は僅かに首を傾けこちらの反応をじっと待っていた。
弛まない笑顔の向こうで真っ直ぐにこちらを見定める視線が働いている。顔は和泉に似ているが、根底はまるで違う。襲撃者とよく似た本質。兄弟とはそういうものなのかもしれないな、と漠然ながらそんなことを思う。
「…構いませんけど」
「そう、アリガトウ」
揺るぎない笑顔の向こうで。
カチっと何かのスイッチが入ったように見えた。
「それ、チカにやられたのね」
こんな所じゃなんだから、と和泉の姉を誘いシネマカフェに入って十数分。コトン、と目の前にコーヒーが置かれたのをきっかけに赤い唇がようやく言葉を紡いだ。
「あの子が出向く前にと思ってたんだけど、ちょっと遅かったみたいね」
どうぞ、と云って差し出されたハンカチを丁重に断る。ブレンドを一口含むと、少しだけ唇の端が沁みた。窓の向こうで鬱蒼とした樹木が北風に揺れる。春にはまだ遠い。今日のブレンドはやけに苦いな…。
「うちの両親、離婚するのよ」
伏せてた視線をソーサーから上げると、和泉によく似た面差しが真っ直ぐに俺のことを見ていた。
「ずっと前から決まってたんだけど、あのコには誰も云い出せなくてね。誰よりも家族を大事に思ってるあのコの居場所を、できることなら失くしたくなくて…でもそれが余計にあのコを傷つけちゃったみたい」
可愛らしい顔立ちに明らかな憂いが混じる。
相槌もそのタイミングもつかめないまま、俺は熱いカップを両手で包み込んだ。
「たかが離婚で、って思うでしょ? でもあのコにとっての家族ってすごく重いのよ。掛け値なしに自分を見てくれる唯一の存在だって思ってるの。家族だけが本当の自分を見てくれるって」
店内の照明が半分ほど落ちて、それを合図にカタカタと部屋の隅でプロジェクターが動き始める。スクリーンのぼんやりとした白光がテーブルの上でゆらゆらと揺れていた。カップとソーサーの間を行き来する、柔らかな霞。その霞の中で白くほっそりとした指先がカップの縁をなぞっていた。薬指に嵌まった指輪が、鈍い光沢を薄闇の中に放つ。
「あたしたち年子の三人兄弟でね。上二人の性格がヒネくれてたせいか、両親は末っ子のあのコを特に可愛がったわ。文字通り溺愛よ。何をするにもトモ優先。年が近いこともあって、あたしたちはそれが面白くなかった。物心ついた時にはあのコをいじめるのがすっかり日課になってたわよ。もちろん親に見つかるようなヘマはしない」
云いながら赤い唇をかすめた寂寥が、うっすらとした微笑に変わる。無言のままその移り変わりを眺めていると、ふいに凛とした眼差しがまた真っ直ぐに俺を射抜いてきた。
「それでも、どんなにヒドイことをしても、あのコあたしたちの後をついて回るのよ。散々泣かせて意地悪してるのに、オネーチャン大好きって云うの。屈託のない笑顔で、オネーチャンもオニーチャンも僕の顔じゃなくてちゃんと心を見てくれるからって。それ聞いた途端、あたし涙出るかと思ったわ。そんなの、家族ならアタリマエの話じゃない? でもあのコにとってはそれが全てだったのよ」
スクリーンの弱々しい光が黒く沈んだブレンドの表面をチラチラと舐めていく。その揺らめきを眺めながら、俺は苦い一口を口に含んだ。
「あの時、あたしたち決めたの。この先何があっても、あたしたちだけはこのコの味方になってあげようって。……本当はもっと早くに気付いてあげられればよかったんだけどね」
カップに当たってカチンと小さな音を立てた指輪がプロジェクターの光を鈍く反射させる。
無言で含んだコーヒーを静かに嚥下すると、和泉の姉の視線がもう一度値踏みするようなそれに変わり俺の顔を撫ぜた。薄暗い室内の中、交わった視線を外すことなくその瞳の奥に浮かぶ感情の波を静かに見守る。やがて逸れた視線がテーブルのフォルムを辿り始めるのを目で追うと、それを待っていたかのように潜めた声が静かに俺の鼓膜を揺らした。
「小五の時の担任がね、血迷ってあのコに手を出しかけたコトがあったのよ。もちろんあたしとチカとで未然に防いだけど。あのコ、その担任にすごく懐いてたの。なのに…」
モノクロ映画を彩るフランス語が和泉の姉の言葉を所々削り取ってしまう。
「……しばらくは口も利けないぐらいショック受けてたわ」
断片的にしか捉えられなかった台詞群を補完してくれたのはつい数秒前まで自分に注がれていたあの眼差しの質感だった。アンナ・カリーナの唇に合わせて出てきた言葉が続けて俺の胸に突き刺さる。
「たぶん、それが決定打になったのね。あのコ、この世の誰よりも自分の顔が嫌いなのよ。自分を憎んでるの」
「…………」
食道を滑り落ちていったコーヒーと共に、腑に落ちた感慨。
和泉が時折見せる自暴自棄な一面、恐らく俺はいまその一端に触れているんだろう。怖いぐらいに冷めた瞳がたまに見つめているその深淵。
「中学までのあのコは本当にヒドイ有様だったわ。近づいてくる人間は残らず全員、見下してかかってた。人間とも見做さずに適当にあしらって。高校に入ってからは少し変わったけど…、でもあのコの本質はまだ何も変わってないの」
カップの縁をなぞっていた指先がテーブルの上で静かに組み合わされた。
「……兄弟思いなんですね」
この先の返答次第では、あの細く白い手に渾身の力で頬を張られるのだろう。気付けば襲撃者とも和泉とも違う、揺るぎない意志が俺の退路を抜かりなく塞いでいた。逃げも誤魔化しも許さない視線が、俺の眼差しを真っ直ぐに撃つ。
「ただの興味本位でしかないんなら、あのコを追わないで」
アンナ・カリーナが赤い唇に笑みを乗せた。
恐らくこれが最後の挑発。選択肢は二つに一つだ。
イエスか、ノーか。そんなの考えるまでもない。
「貴方は俺を買い被り過ぎてる。まずはそれを否定しておきますよ」
「あら、そう?」
「興味本位、俺がアイツに抱いてる感情はそれ以上でも以下でもない」
年末辺りからずっと俺を支配していた苛立ち。暴いてみればその正体はあまりにも滑稽で。自分の中にいるニヒリストが嘲りと侮蔑とをもって高らかに笑い上げる。
「ましてやアイツを救ってやろうなんて、そんな大それたこと欠片も思ってませんから」
そうだ、俺はずっと逃げ道を探していたんだ。
こんな風に、アリキタリで済ませられる穏便な逃げ口上をずっと探していたんだ。惹かれる感情は確かにあった。けれど日々募る苛立ちがいまや日常を侵食するまでに膨らみ切っていたから。これ以上煩わされるぐらいなら、自分を見失ってしまうぐらいなら、いっそ消してしまった方がいい。俺の視界から。
心の底でずっと燻っていた感情をいまさら否定する術は俺の中にもう存在しなかった。
あいつの視線に背を向ける覚悟ならもう決まっている。
「それがあなたの本音なの?」
慎重な反問に極めて平静な声でその先を続ける。決意を語るのにこれほど適したタイミングもないだろう。白い指先がつかむより先に「偽る必要がどこにあるんですか?」と、掠め取った伝票をクシャリと丸めて掌に握り込む。
「気になって仕方がない、ただそれだけなんで」
答えなんて初めから一つしかない。
ここまできて道を見誤るほど落ちぶれてるつもりもなかった。アイツを背にして吹き付ける雨も風も全て、俺がこの身に受ければいい。立ち上がらせた体を、「アリガトウ」とほっそりとした指先が力強く引き止めた。
「試すようなことをしてごめんなさい。でもそれがあたしの立場なの」
「…………」
外れる気配のない手と視線に一瞥を投げると「…言質は頂いたからね」赤い唇がフワリと狡猾な笑みに染まった。
ああ、本当に兄弟思いなワケね…。思わず浮かべた苦笑を鮮やかな微笑に切り返されながら、俺は伝票を手に店の階段を足早に駆け下りた。
俺はこの日、下らないプライドを一つ切り捨てた。
思い当たる節を一つ一つ回るうちにようやく駅前で見慣れたシルエットを見つける。寒い中ずっと歩き回っていたんだろう。着込んだコートの色に負けないぐらい寒さで顔色が白くなっていた。
「…ったく」
つくづく世話の焼けるヤツだ。スタバで温かいココアを調達すると俺は足早に痩身に近づいた。植え込みに力なくへたり込んだ体。伏せた眼差しは今にも涙を振り落としそうなほどに揺れていた。
「一人?」
下手なナンパを装った声に和泉が力なく首を左右に振る。失敗したな…。果たしてどう繕えばあの俯いた瞳から涙が溢れるのを防ぐことが出来るんだろう? 持っていたカップを目前に差し出してやる。和泉の手袋に包まれた指がそっと熱いカップを握り締めた。
「すげー顔色。こんなトコいるとまたぶり返すぞ、風邪」
潤んだ瞳からみるみる溢れ出した涙が白い頬を伝って零れ落ちていく。思わず差し出した指先で拭うと、痺れるぐらいに熱い感触が俺の指を灼いた。
「寒くねーのか」
「サムイ…」
「なら帰ろうぜ」
差し出した手を掴んでいいのか、推し量るように和泉の視線が俺の顔を見上げる。…参ったな、そんな顔してずっと街歩いてたのかよ? そんな捨て猫みたいな顔して。
揺れる瞳に浮かんだ逡巡を断ち切るように、俺はおずおずと差し出された和泉の手を強く握り締めた。
子供のように泣きじゃくる和泉の手を引いて帰途につく。部屋に入ってまずは暖房のスイッチを入れて。それにしてもまた思い切りよく殴ったもんだな、あの兄も。絆創膏からはみ出した痛ましい跡に手を添えると和泉がキュッと両目を瞑った。少し切れてた傷口を手早く消毒して手当てを終える。保冷剤を渡して部屋の隅のクッションを指定すると、いつになく従順な体が云われた通りにもそもそと移動する。ココアのカップを手にしたまま大人しくしてる和泉を尻目に自分の傷口にもテキトウな手当てを施すと、俺はカバンから取り出した大判の封筒をローテーブルの上に広げた。
俺が少しでも動くたびに、ピクリと震える赤茶けた髪。慣れない環境に戸惑うように揺れる瞳は、それでも俺の上から外れることはない。そうやってると本当に拾ってきた猫みたいだな。下手に突付くとまた泣き出しそうな気がするので、しばらくは放っておくことにする。
やがて落ち着いてきたんだろう、うるさいぐらいに絡み出した視線を断ち切るため、俺は課題を封筒の中に戻すと席を立った。自分のために入れたコーヒーを片手、ローテーブルに戻ってテレビのスイッチを入れる。和泉の涙の余韻が妙な波紋になって、少しずつ胸の内に広がっていくのが解る。だからといってどうすることも出来やしない。あんな話を聞いた後では。
「…逝ったか」
「逝ったね」
雑音で部屋を埋めてくれていたテレビが、臨終を迎えて唐突に部屋が静まり返る。和泉がこちらの気配をしきりに覗っている気配。心配しなくたって今日はもうオマエに構わねーよ。
開いた雑誌のページを繰りながらさして興味もない特集をパラパラと読み流す。そのうちの一ページに触発されるように思い出した課題。ああ、やべえ…あれ明後日までだったか。
「っかしーな…」
それに関してのページにはマーカーを引いた覚えがあるのだが…一向に見当たらないそのページを求めて、俺は和泉のすぐ横で山になってたバックナンバーの山に手を伸ばした。ビクっと震えた華奢な肩は目に入ってない振りで、雑誌のタワーを突き崩す。音楽時事論なんか取らなきゃよかったな…毎回嬉々として厄介な課題を押しつけてくる講師の顔を思い足しながらようやく見つけた目的の号をパラパラめくって。だが活字が脳内に入る隙はなかった。
「松下」
「あー?」
「キスして」
唐突な台詞に思わず声を失い、言葉の消えた唇だけが開く。
傍らの和泉を見やって、アア失敗したな…と実感した。
出来るだけ装うとしてた平静を言葉一つで、視線一つで突き崩してしまう仔猫が軽く首を傾げる。それすら自覚がないのだろう。かすかに震えてる唇がキスを待ち侘びるかのように上向いた。
「熱あんのか?」
「ないよ」
「じゃあ寝言?」
「何? 松下は寝言にしたいの?」
不服そうに和泉が唇を尖らせる。
「そりゃ、これが夢だってお墨付きがありゃ」
これぐらいは軽くできる、抱き締めた体を腕の中に閉じ込めて耳元に囁く。華奢な体を思い切り抱きすくめて背骨が軋むほど胸に押し付けた。加減が効かなくなる、ギリギリでどうにか持ち堪える。柔らかい髪を撫ぜて宥めようとしてるのは和泉なのか、それとも逸る自分自身なのか。たぶんその両方なんだろう。腕の中で細身が小刻みに震える。
「今日だけな。甘やかしてやるよ」
「……っ…ク」
それでも必死に涙を堪えてる和泉がギュッと俺のシャツを両手で握り締めた。
「声出して泣けよ」
その一言で堰を切った感情が次々に溢れ出す。間近にその涙を見つめながら俺は何度も柔らかい髪を撫ぜた。
少しずつ治まっていく感情がジワジワと腕の中に収束していく。ようやく泣き止んだ背中に掌を当てて何度か叩くと、まるで子供のような仕種で和泉が首筋に縋りついてきた。そうだ、子供だと思えばいい。ともするとすぐにも踏み越えてしまいそうな、危ういラインの内側に俺が佇んでいることを和泉は知らない。
「ねえ」
「何」
「キス、してくれないの?」
だから軽くそんなコトが云えるんだろう。
「……やれやれだな」
溜め息を苦笑に変えて和泉を抱き上げると俺は膝の上に乗せた。まだ涙に濡れてる瞳がキスしか求めていないことぐらい解っているから。重ねた唇を深く合わせて和泉の熱を中から味わう。甘いココアの味が舌に乗っては絡め取られていく。ふいに甦った白木の台詞が耳元にわだかまった。ご愁傷さまって、そっちの意味か?
なんとも的確な嫌味じゃねーかよ…。
とりあえずしばらくの間は、膝の上の仔猫がまた泣き出さないよう見張っているしかないのだろう。
その命題を胸にもう一度ココアの味を深追いする。たぶん最初からこの味にハマっていたんだろう。それなくしてはやっていけないほどの中毒と、自分を苛立たせていた禁断症状。とんだ仔猫を拾ってしまったもんだ。
キスが甘ければ甘いほどに際立つビターを噛み締めながら、俺は何度も甘いキスを重ねた。
end
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