合鍵とカゼひき



「松下くんなら休みだよ」


 最初はただの思いつきだった。
 借りっぱなしだったCDを返そうかと、ふと思いたっただけ。確かアイツ今日、夕方からシフト入ってたよな。別に行っていなけりゃそれでいいし。適当に夕方の人と話して帰ればいい。それだけだったのに。
 なぜか俺はいま、今月のシフト表を持ってアイツの家に向かってたりする。

「ちょーどヨカッタ。和泉クン、松下くん家までコレ持ってってくんないかな」
「は? なんでですか」
「別のバイトとの都合で変更する日があるかもって云ってたからサァ」


 ってなワケで。まあ、云わば不可抗力ってやつだ。
 別にアイツが心配だから、とかってんじゃ全然なくて。それにいつも飄々としてるアイツが弱ってるトコなんて…。かンなり興味あるっしょ? そうそう見られるもんじゃないし。いや別にアイツの弱み握ろうとか、そんなのガンガン狙ってるケド。
 だからホラ、その。
 細かい理由はどうでもよくって。
 とにかく俺はいまアイツの家に向かってるワケだ。

 寒いのは苦手なのに。
 口元にあてた手袋を吐息で暖める。吐き出した白い息がフワリと空中に溶けていく。バイト先でこっち方面に住んでるのは俺と松下だけだ。他はみんな反対側か、山の手の方に住んでる。
 いままでに、四回ほど歩いたコトのある道筋。去年の夏と飲み会、クリスマス。それから今年のはじめ、初詣に行った時と。過去三度はいずれも松下に連れてこられて、帰る時は一人だったっけか。自分で連れてきといてあのヤロウ、放り出すように追い出しやがったのだ。まったく。別に19年間も住んでる地元で迷いやしないケド。そういえばアイツの地元ってドコなんだろう? そんなコト、話したコトもない。
 見覚えのあるアパートの階段を途中まで上がる。
 と、視界の先に突然、ゴッツイ黒の皮ブーツが飛び込んできた。これまた見覚えのある靴だな、オイ…。

「あーら、ぼうやじゃない?」

 そして聞き覚えのある声。
 ポケットから出した鍵で施錠すると、葉子はクルリとこちらに向き直った。
 相変わらず、迫力のある美人だ。無造作にはねる白に近い金髪。このクソ寒い中、ミニスカートから伸びる足は素足で、首元の大きく開いた服の隙間からヘビのタトゥーがのぞいてたりする。赤い舌が白い肌によく映える。

 ……このねーさん、やっぱタダモンじゃねー。

「松下ねェ、いま寝ついたトコ。アイツ寝起き、超ワリィから起こすならもうちょい後のがイイかもしんないわね」
「あ、そう」
「誰かサンにマウストゥーマウスで風邪もらったらしいじゃない?」
「…へーえ」
 昇りかけの階段で、手摺につかまったまま見上げる美人というのもまた格別なものがある気がする。いまにもその足に蹴落とされそうで。
階段を上がりきると、並んだ葉子の視点は自分よりはるかに高い所にあった。
 そーいえば、モデルをしてるとかしてないとか。そんなコト聞いたよーな気もすんなぁ。納得のスタイルだ。
「久しぶりじゃん。そこまでちょっと、付き合わない?」
「…メンドイ。ねーさんの奢りなら考える」
「云ったわね。OKよ。さ、行きましょ」
 真っ赤な唇がニッと微笑んで。
「…………」
 俺は逆らうのを諦めてそれに従った。


「お待たせ致しました」
 店員は迷いもせずに俺の前にキャラメルパフェを置くと、葉子の前にホットコーヒーを置いた。
「……」
 事実そのとーりとはいえ、少しは迷うくらいの配慮を見せやがれってんだ。コンチクショ…。
「ぼうやって煙草吸う人?」
「んーん。吸わねー人。ねーさんはヘビースモーカー?」 
「見るからにでしょ。でも非喫煙者のそばでは吸わないから安心してね」
 葉子はライターだけを取り出すとそれに火をつけた。オトコが好んで持つようなゴツい、限定物のジッポのライター。自分に合う物をよく理解ってる選択だ。
「そいえば松下と賭けをしたなァ。99年の夏にもし世界が終わったら、アタシは禁煙するって」
「ソレ意味ねーじゃん」
「そ。松下は世界がもし終わらなかったら、俺はオンナ遊びやめるって云ったのよ。アイツそれ守ったわね」
 さりげなくそう云うと、葉子はジッポの蓋を閉めた。
「あんだけ食い散らかしてた年上、キレイに清算しちゃったもの」
「へーえ」
 それしか云わず、俺はすくったクリームを口へと運んだ。

 駆け引きは嫌いじゃない。
 けど、それは相手にもよる。
 相手がネコの皮を被った虎の場合は特に警戒が必要だ。
 拙い駆け引きじゃ太刀打ちできない。

「で、ねーさんも清算されたクチ? それとも今でも続いてる?」
 ズバリ訊きたかったコトをそのまま口にする。
 葉子は笑いもせず眉も上げなかった。
「だったらどーするって?」
「別にどーも。俺は俺で好きに動くだけ」
「フフ…。ねえ、ヒトクチ頂戴」
 脈絡なく柄の長いスプーンに葉子が手を伸ばす。抵抗する間もなく、俺の手から奪ったスプーンでキャラメルクリームをすくうと豪快に口へと運ぶ。
「佑輔ってね、他はドコ触られても平気なくせに首の後ろだけは弱いのよ」
 口の端についたクリームを舌先で拭って。
 ざわざわと俺の胸の中で、居心地悪い何かが、イヤな音をたてる。赤い唇がクスっと笑った。
「キスの時、相手の前髪をかき上げて耳許に手をやるクセは相変わらず?」
 はい、と差し出されたステンレスのスプーンを、素直に受け取る気にはとてもならなかった。言外に「アタシのお下がりよ」って台詞が見え隠れしてる気がして。
 挑戦的な視線を受け、こちらも負けじと目を細めると急に葉子の美貌が破顔した。

「ちぇー。先越されたッ」
「はァ?」
 次の瞬間。俺の唇はネーサンに塞がれていた。
 わけが解らず、間近で色素の薄い瞳を見つめる。たっぷり三秒間、重ねた唇をゆっくり離すと葉子はニンマリと笑って見せた。
「摘み食いしちゃった」
「……何の真似?」
「お詫びよ、お詫び。混乱させたでしょう? あとは嫌がらせ、松下に対してのね。それにしても、ぼうや果報者よ。女王様のキスなんてそうそう簡単に頂戴できるもんじゃないんだから」
 そういえば…。いかがわしいクラブでのバイト遍歴を、前に聞いたような気もするが。
「現役?」
「バリバリ」
 思いきりピースサインを見せつけて葉子が笑う。
 道理で風格が漂ってるワケだよな…。呆れて、肩肘ついた手を思わず額にあてる。
「種明かししちゃえばね、アタシの友達が松下と付き合ってたのよ。さっきのはそれのウケウリ」
「年上?」
「そ。アイツは年上専門。だったわよ。鍵を持ってるのは、いまやってる共同課題の作品がアイツん家に保管してあるから。ガッコから一番近いのアソコだからね」
「ふうん」
 なんだかうまく丸め込まれたような気がして面白くないが。
 ひとまずココは退いとくべきだろう。あまりに謙虚な選択で自分でも笑っちまうケド、俺にも分別がついてきたって感じ。
 この礼はいつか。いつか絶対、リベンジしてやる。
「ごちそーさんデシタ」
 頃合を見て立ち上がると、葉子がカバンから引っ張り出したナニかをひょいとこちらに投げて寄越した。
「コレあげるわ。もうアタシには用済みだから」
 簡素なキーホルダーに古びた鍵が一つ、ついている。
「アイツとアタシはライバルなのよ。色恋とは無縁の仲ね」
 続いて外国産の煙草を取り出して、そのうちの一本を咥えると葉子は自嘲気味に唇を歪めて見せた。
「だから悔しかったの。アイツのが先にボウヤみたいなのを見つけたってのが」
 グシャリ、と葉子の逞しい手が煙草の空き箱を片手で握り潰した。
「じゃ、またね」
「縁があったらね」
 シュボっと煙草に火がつけられて、俺はその場を後にした。それ以上の詳細を語る意志が無いコトを了承して。どうも、俺が首を突っ込む問題でもなさそーだしな…。


 松下のアパートに着くと、俺は合鍵で中へと入った。
 乱雑な部屋の端、フローリングにそのまま布団を敷いて松下の長身が横たわっている。初詣ン時に風邪でぶっ倒れて連れ込まれた時、俺が寝かされてたのって松下の布団だったんだな。熱にうなされながら道理で松下の夢ばかり見るはずだ。アイツの匂いを体がもう覚えてる気がする。
 そういえば俺がここで寝込んでた三日間、アイツはどこで寝てたんだろ? 一月に訪れた時のまま、それ以上散らかりもしてなければ片付けられもしていない室内。
「オイ」
 呼びかけても反応はない。やや規則的な呼吸を繰り返す無防備な寝顔を傍らで見つめる。さすがに寝顔には、性格の悪さは反映されないようだな。風邪ひきだというのに薄手のパシャマで薄い羽毛の掛け布団にくるまっている。アホだな、こいつ。
「…マツシタ?」
 囁きながらそっと唇を近づける。
 あと少しで唇が触れ合うというところで、急に松下の手が俺の首をつかんだ。
「…何の真似だ?」 
「年末のおまえのマネかな」
「ハ。なんのコトだか。人の寝込み襲ってんじゃねーよ」
 どっちがだよ。心の中で反論しつつ、俺は真っ直ぐ見返してくる視線を真っ向から受けた。ふいに松下の視線が少しだけ下がってまた元に戻る。
「どこで付けられたンだ、こんなもん」
 指で口元を拭われて、俺は初めて口紅の色移りを知った。そりゃレジの店員もジロジロ見るよな…。
「さあね」
「白木だろ?」
 断定されて、テキトーな嘘ついてアイツの反応を試そうとしてた俺の目論みはもろくも破綻した。つーか、俺に口紅付ける人物に一人しか心当たりがないような言動すんなっ、ちくしょー!
 だがそんな俺の思惑とは別に、松下は苦々しげな表情を浮かべると軽く舌打ちした。
「…あいつ、余計なコト吹き込まなかったか」
「ア?」
 なにソレ。弱味でも握られてるワケ? やっべ、俺ねーさんと同盟組もっかな。松下佑輔をヘコます会。うーわ、超よくね?
「まあこの際、いろいろと聞いちゃったけど。オマエにはとてもじゃないけど云えないようなコトばっか…って、ゥわっ」
 余裕ではったりかましてたら、いきなりすごい力で敷き布団に組み伏された。
「っテメ、なにしやがるッ」
 病人だと思って甘く見てた、クソっ。
 掴まれた手首をギリギリと締め上げられて固定される。
「イテーな、馬鹿力ッ」
「少しは黙りやがれ、ボケ…」
 死に物狂いで抵抗してやろーと思ったけどその零コンマ何秒か前に、アイツの息が妙に上がってるのに気付いて俺は体の力を一気に抜いた。よくよく見ればかなりの重病人のカオしてやがる。
「病人にキスなんかすっからそーなるんだぜ」
「ああ、ホントだな。死ぬほど後悔してるよ…ちくしょ」
 正月の一件を持ち出すと、松下はまさに失敗とばかりそう吐き捨てた。
 妙に感情的な松下を前に俺は突然、笑い出したい衝動に駆られた。
 オモシレー。こんな松下、そうそう見られるもんじゃない。いつもポーカーフェイスのヤツがめずらしく感情を露わにしてる。
「なに笑ってんだよ」
「イヤ、おまえのそーゆ顔はじめて見たなと思って」
「…黙れよ」
「案外おまえもカワイーとこあんじゃん」
「黙れっ」
 ぶつかるようにして力任せに唇を塞がれる。
 熱に浮かされたか、らしくない情熱的なキス。本気のキス。
 それは、正直焦るくらいヤバいキスだった。
「…っは」
 ようやく解放されて、空気を貪る。
 と、同時にズシリとした重みが胸にのしかかった。
「っンだよ、コイツは…ッ」
 完全にダウンした松下の下で、悪態をつきながらも俺はそのコトに深く感謝していた。頬が熱い…。きっと真っ赤になってるコトだろう。
 たかがキスでなんてザマだ。いたいけな少女じゃねーんだからよッ。
 それでも治まらない胸の高鳴りに。
 躊躇いながら。


 俺は静かにヤツの背に腕を回した…。


end


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