ワルツを一緒に



「何やってんだよ」


 背後からかけられた声に振り向くことなく。如月は靄のかかった山並みを眺めながら、手の中にあるセブンスターを玩んでいた。答えが返らないのを気にした風もなく、五組の教室から出てきた観月がベランダに立ち尽くす如月の隣りに並ぶ。
「うっわ、サミー!」
 白い息の感嘆符が冷たい手摺りの上を滑り落ちていった。凍てついて芯まで冷え切った鉄製の手摺り。そこに置いた掌はもう何十分も前から凍っていた。厳重に手袋に包んでいて尚、身を裂くような研ぎ澄まされた冷気が刻一刻と肌を侵食していく
 それが堪らなく心地よかった。体を蝕まれているような気がして。

「呼ばれてんだろ? 謁見の間、行かなくていーの?」
「話すコトなんて何もないわ」

 担任の気遣いはそれはそれで有り難いと思う。けれど伝えるべき言葉も話すべき未来も、いまは自分の中に存在しないのだというコトを認めさせるのがどうにも億劫で。担任の呼び出しを何度すっぽかしたか知れない。それでも声をかけてくれる教師の気持ちを思うと、如月の胸の隅にザラザラと生温い俄か雨が降った。
 高三の授業も残り僅か。耳を澄ませばうっすら聞こえてくるどこかのクラスの授業模様、昇降口前に溜まってる中学生たちの歓声、廊下を過ぎ行く賑やかな笑い声たち。年が明ければ懐かしいと思うようになってしまうのだろう。いまは身近にあるそんな全てが、泡のようにパチンと消えてしまう。実感なんてまるで沸かないけれど。
 そういえばいつからこうして此処にいるんだろう?
 いくら記憶の糸を辿っても、如月にはそれが思い出せなかった。

「妊婦の喫煙は止めるぞ、俺は」
 ニッコリ笑顔で告げられた台詞。けれど言葉が笑ってないのは明白だった。
「吸ってないわよ。ただ持ってるだけ。ライター持ってないもの」
 掌を広げて潔白であることを証明する。その切っ先に僅かな種火さえ灯さなければ、煙草は煙草でも煙草ではない。
「吸わない煙草に何の願掛け?」
「…安産であるように」
「へえ」
 途絶えた会話の間を遠い英語教師の声が穴埋めする。
 何も訊かれないと何か云いたくなるのはどうしてなんだろう。云うつもりのなかった気持ちを、気がついたら言葉にしてる自分を如月は他人事のように遠くから眺めていた。手の中のボックスをくるくると玩びながら。セロファンの表面を手袋の指先がつるつると滑る。
「ウチの母親、三人姉妹だったのよ。でも姉二人は難産に耐え切れず亡くなってるの。母子共にね。元来、丈夫な家系ではないのよ」

 劣性遺伝を重ねたところで意味はないのかもしれない。それを認めるのが何よりもイヤで意固地になっていた部分は確かにあった。やるだけ無駄と、徒労に終わるだけと、嘲笑う親戚連中の鼻を明かすため。けれど刻々と迫ってくるリミットを思うとどんなにイヤでも考えざるを得ないこの身の血筋。
 夭折の家系が交わったところで未来なんてあるんだろうか?
 怖かった。自分の選んだ道が例え間違ってたとしても後悔なんてしない。そう云ってあの人の元に行ったのに。あの人はもうこの世にいないのだ。自分も同じ道を歩むかもしれない。否定できないその可能性が何より怖かった。


「オマエは死なねーよ」


 手袋の上に重なった掌。
 分厚いソレを通して尚、火傷しそうな熱さがジワジワと沁みてくる。
「オナカの子も無事」
 凍りついた指先に血の通う感触。回転性の眩暈が急激に三半規管を襲った。いまにも崩れそうな体を支えているのは一本の腕。
 止まない俄か雨が胸の土壌をしとどに濡らした。
「天国行くには徳が足りねーし、地獄に落ちるにゃツメが甘いんだよ」
「…そうかもしれないわね」
「そーゆこと」
 手袋から退いた手が冷たく冷え切った手摺りを握り締める。あの手がこの指に直に触れることはなかった。そう、中三のあの日以来。


 自分の中に降るのが俄か雨なら、観月の胸に降るのは天気雨だ。


 俄か雨は俄かに降るからその名を冠しているワケで。止まない雨なんてこの世にない。如月は笑顔で雨雲を散らせると真っ直ぐに観月の瞳を見返した。
「じゃあ少し、悪事を控えようかしら?」
 細めた目元に笑みを滲ませて「ま、いーんじゃない?」興味なさ気に肩を竦めると観月はそれからニッと口元を笑わせた。
「徳を積まない程度に頼むよ」
「なら手始めに身包み剥がせて頂こうかしら」
「…なるほど、そうきましたか」
 観月が脱いだ上着を如月の肩に被せる。切欠が欲しかったのは何もアンタだけじゃないわ。自分からは触れることの叶わない観月に免罪符を与えることで接触を許す。総身を包む暖かさ。自分の体がどれだけ冷えていたか、この時になってようやく思い知る。観月の掌に力がこもった。両肩にじんわりとした熱が入っていく。

 ここで火を灯すわけにはいかない。
 お互い解ってるから。

 すぐに離れた手がまた手摺りをつかむ。雲間からほんの少し差した日が中庭に光の梯子を下ろした。眩しくて見えないその梯子の裾を、狭めた睫毛の隙間から眺める。
「ヨハンシュトラウス、かな?」
 観月の声に耳を済ますと、どこからか流れてくるワルツの旋律が翳した指先を掠めていった。緩やかな三拍子に合わせて、光の粒子がキラキラと纏わる。もしこの先に未来があるのなら、云わなければならないことがたくさんある。やらねばならないことも、果たさねばならない約束も。それを待っている人間がいる限り。

「あーこれ、プロムの予行か」
 絶え間ないワルツの調べに乗せて、時折ステップを指示する声が聞こえてくる。そういえばそんな伝達を朝のHRで聞いたような気がする。途中で教室を出てきてしまったから定かではないが、そのための講習会があるとかないとか。
「いやだ、ワルツなんか踊らせる気なの?」
「ま、余興みたいなもんだろ」
「クダラナイ。空木の考えそうなコトよ」
「アレじゃね? 二次会の無礼講との落差をつけたいんじゃね?」
「だーから下らないって云うのよ」
「…そら、ご尤も」
 卒業プロムなんて慣習を残していったのは、三学年上の先輩たちだ。それを正式なものに位置づけようという、空木の魂胆は見え見えだった。この体でどんなフォーマルを着ろというのか。卒業式の服ですら悩んでいるというのに。楽天的な苦悩を思い出して、如月は思わず口元を綻ばせた。

「俺さー、プロムに誘おうと思ってるヤツがいるんだけどさァ」
「勝手に誘えばいいじゃない」
「や。誘ってもたぶんギリギリまで返事かえってこねーから。当日誘う気なの」
「バカね、断られたらどうするの?」
「その時はその時でしょ」
 ヘラヘラって笑ったその顔があまりに楽天的で、ついつい口を滑らせてしまう。悴んでるくせに随分滑らかな舌だコト。自嘲気味にそう思う。
「リムジンの送迎つきなら断られないわよ」
「おー、なるほどね」

 オレンジ頭のフォーマルなんて想像しただけで決まらないわね。近い未来、眺めるだろうその光景を思い浮かべながら。云われるだろう、そして答えるだろう台詞を胸の中で反芻する。あのね、天気雨にならいくらでも降られていいと思ってるのよ?


     どうか、ワルツを一緒に


 声にならない思いを三拍子に乗せて。如月は観月の隣りでワルツの調べが途絶えるのを待った。心の底ではそれをひどく惜しみながら…。
無用になった煙草を観月の上着のポケットにしまうと、如月は白い、そして淡い溜め息をついた。


end


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