いつか謳う春を胸に



 テラス席でいちゃついてる一組のバカップル。
 辺りに張り巡らされた桃色の靄は、ともすると公害の域にまで達しているのではないかと真面目に思う。
「やれやれ…」
 視線だけはだいぶ前から合っていたから、互いの存在については重々承知だ。
 まさかこんな所で会うとは思いもしなかったな…。
 南のことだから水族館にでも行きたがったんだろう。ナミはまだしも倉貫が池袋にいる、というのはどことなく不似合いな気もしたが…。ま、別にどこにいようと俺の関知するコトでもねーんだけどな。
 話の途中、浮き上がりかけた南の視線を倉貫がさりげなく、テーブル上のパンフレットに誘導する。そっちはその点、扱いやすくていいよな。だがこっちはそうもいかなくてね…。

「あ、倉貫た・ち・だ」

 一応はそっちに注意がいかないよう、これでも尽力はしてみたんだぜ? だが何物をも見通しそうなこの研ぎ澄まされた眼差しの前にあってはすべては徒労に等しく終わった。
「行くのか」
「行くよ。だって面白いでしょ?」
 台詞とともに返ってきた笑顔を見て、アアこれはもうしょうがないなと思う。瀬戸内の好きにさせるしかない。いそいそと楽しげに店の中に入っていく背中に従いながら「やれやれ…」俺は手持ち無沙汰気味、眼鏡の位置を人差し指で矯正した。
 何もこの卒業間際になってまで、帝王の不興をかう必要はないだろうよ。ふとそこまで考えてから、アアだからかと改めて思い直す。もうこんなふうに街中で出会うこともなくなるのだ、あと数ヶ月もすれば。


「相席いいですか?」


 背後から聞いてても十分に解るほど、愛想のいい声。いま瀬戸内の細面を彩っているのは、紛れもなく小悪魔の笑顔だろう。それは倉貫の表情を見ていてもよく解る。
「あ、メガネだ」
「……ナミ」
 最近、どっかのバカ帝王の所為で、南が俺をメガネ呼ばわりすることが度々あった。あれを悪影響といわずして何とする。だがだからといって、態々訂正するのも馬鹿げてるしな。最近は放置の方向で無視することに徹している。アイツのお目付け役兼、教育係だったのはずいぶん昔の話だしな。
「クリオネでも見に来たの?」
 倉貫の返事も待たず椅子を引いた瀬戸内が、水を持ってきた店員に「ここにお願いします」などと勝手に指示しながら腰を下ろす。倉貫の視線が笑えるほど痛い。俺だって少しは努力したんだっつーの。何もこのメンツでお茶を飲みたいなどと、素で思えるのは南ぐらいなものだろう。
「すごいね、偶然だね!」
 ほら見ろ。ただ一人はしゃいだ風でナミがニコリと相好を崩す。
「そうだね」
 それに合わせて浮かべられた瀬戸内の笑みは、隣りから見る限りでは穏やかに凪いでいるように見えた。ここからでは瞳の奥までは窺えないけれど、それでも纏った雰囲気に棘が見られないことを考えれば、それ相応にこの状況を楽しんでいるんだろう。
 一時期に比べて南に対しての瀬戸内の態度が軟化したのには「何か」があったせいなんだろうと思える。それはナミにしても同様で、ちょっと前までは微妙な色合いで曇らせていた眼差しを、いまは真っ直ぐ瀬戸内に向けることが出来ている。その変化は倉貫も同様に感じているんだろう。和やかな雰囲気の中、紡がれる二人の会話をどこか不思議そうな顔つきで眺めている。こちらからでは窺い知れない何かがそこにはあったんだろうが…それもまた俺の関知するところではない。
「それ、何?」
「桃とさくらのフルーツティー!」
「へーえ、南好きそう」
「ウン、超スキ」
 他愛ない会話ではあるけれど、浮かべられた笑顔や言葉の端々にどこか暖かい雰囲気を感じて、俺は思わず綻びかけた口元を片手で覆い隠した。よってきた店員に、件の桜のお茶とアッサムとを頼んでメニューを返す。

「あ、ねえ切敷たちはいつ発つんだっけ?」
「十八日。おまえたちが行ってから三日後だな」
「ホント? じゃ見送り、絶対来てね!」
「そりゃ、誰かの許可が下りればな」
「大丈夫だよ、だって倉貫俺のこと愛してるもん」
 まるで愛が全ての免罪符になるかのようなナミの発言に、動じた風もなく「東京駅、十五時ちょうど発だ」倉貫が平然とエスプレッソのカップを傾けるのを見て「へえ…」と少なからず驚く。数ヶ月前の倉貫に、恐らくいまみたいな穏やかな表情は望めなかっただろう。何も変わったのはナミたちばかりでなく、もしかしたら自分もすでにどこか変わっているのかもしれない。目には見えない変化をこの身に萌し、自分たちはこの先の領域へと踏み出していくのだろう。
「わあ、桜色だね」
 ややして運ばれてきたティーポットから注がれたピンク色を見て、瀬戸内の頬がほんのり華やいだ。
 甘く滴るような桃の芳香と、それに負けないくらい咲き誇る桜の鮮やかさ。

「今年も事務局前の染井吉野はキレイかな」
 ポツリと呟いた瀬戸内の言葉に、ナミがニコリと笑顔を咲かせた。
「裏庭の枝垂桜も見事だったよね!」

 記憶に蘇る桜はどれも艶やかで、その風景にはいくつもの思い出が連なっている。連鎖して思い浮かぶあれこれを語りながら、たぶん誰もがもう気づいていること。
 数日後の卒業式に学校の桜が間に合うことはないだろう。ましてやグラウンド脇の桜並木が咲き揃うのは四月も半ばになってからだ。
 今年も咲き誇るだろうどの桜も、この面々で眺めることはもう出来ないのだ。


 永遠にとは云わない。
 けれどいつ叶うとも知れない願望。


「いつかみーんなでお花見に行きたいね」
 桜色に染まった眼差しが無邪気に告げた台詞。同じ願いをそれぞれ抱きながら、俺たちは違う地で春の訪れを感じるのだろう。
「…飲んでみる?」
「サンキュ」
 気づくと言葉少なになってた瀬戸内からカップを受け取ると俺は黙ったまま早咲きの春を嚥下した。


end


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