smokin' talk



 モクモクともやもやのちょうど中間
 不透明で見えない雲の向こう
 伸ばした指先は明日を掴むだろうか


 今日の体育は六〜七組合同だっけか?
 とりあえずリレーはもう捨てたので、当分グラウンドに顔を出す気はない。
 廊下を歩きながらポケットに手を突っ込むと、ぐしゃりと潰れたマルメンライトが掌の中に収まった。うっかりライターを家に忘れてきたので今日はまだ一本も吸っていない。
 三限までのヒマを潰すため、俺は迷わず喫煙所に向かった。移動教室で空になった教室を抜けてベランダに出る。だが、そこにはすでに先客がいた。
「三年のシマに勝手に入ってくんじゃねーよ、夏目」
「ま、そう堅いこと云わずに。カワイイ後輩に火ィ貸してやってよ、先輩」
 五組と六組の間に放置された教室イスに、怠惰な格好で足を投げ出した倉貫が紫煙を燻らしていた。手近にあったイスを手前に引き寄せる。コンクリがガガガッ、と耳障りな音を立てた。
 抜き出した一本を咥えたところで向こうからジッポが飛んでくる。左手を翳し、葉の芯に火をつけると俺は深く吸った息を曇り空に吐き出した。
 どこからが煙でどこからが雲か。一瞬、判断に血迷うような重く立ち込めた灰色の暗幕。
 隣りで同じく雲を作っていた倉貫が伸びた灰をトン、と灰皿の縁で振り落とした。中三の頃から変わらない堂に入った仕草。それを知ってる俺も結構なスモーカーキャリアってわけだけど。でも中1から吸ってる割には背ェ伸びたよなぁ、とか我ながら思う。肺はもう致命的に真っ黒だと思うけどね。別に俺の体をどうしようと俺の勝手だろ?
 ただ喫煙の権利は隣人の鼻先で終わるって云うからな。いちおうマナーにだけは気を遣ってるつもり。こうして人気のない時間帯を選んできちんと喫煙所を利用してるあたり、なかなかの常識人だと自分では思ってるんだけど。
「あ、忘れてた」
「…おまえってどうにも可愛げがないよな、夏目」
「何をいまさら」
 うっかりポケットにしまいかけてたジッポをヒョイと宙に投げる。それを片手で受け止めて、倉貫が細く煙を吐き出した。
 山並みの天辺にかかった雲がまるで煙のそれに見える。吐く息と煙と白い雲。
「あれ、灰皿変わった?」
「さあな。今日きたらもうコレになってた」
「ふうん、つーか思っきし店名入ってるんだけどコレ」
 誰がどこから持ち込んだかは表向き不明だが、校内には数箇所にコンビニ前にあるような灰皿が設置されている。嫌煙でうるさい教師らが撤去するたびに、またどこからか持ち込まれるこれらの灰皿を俺たち喫煙者は割合きちんと活用している。このイタチごっこがはじまってからは校内外に落ちてる吸殻の数もだいぶ減ったしな。休み時間にヘビースモーカーの教師と生徒が並んで喫煙している姿もいまでは珍しくない。むろん、それを良しとしない教師も生徒も中にはたくさんいるが。
 クラスとして「禁煙」を掲げている所も最近では少なくない。かくいう俺のいる六組も半年前にそのテのルールを改正した。納得しているルールには従うよ俺も。昔に比べればだいぶ大人になったもんだ。返せばそれだけ痛い思いもしてきたってことだけど。
 吐くそばから曇天に溶けていく煙。
 そういえば喫煙所で倉貫に会うのも久しぶりだな。四月からはここでこうして時間を共有することもなくなるのだ。十二月にはほとんど実感の沸かなかった事実も二月のいまは違う。
「合格発表っていつ?」
「正式に解るのは卒業式の後」
「つーか、もう受かった気でいんだろ?」
「この俺が落ちるとでも」
 倉貫が唇の片端を上げる。これがただの自信過剰なら笑い飛ばせもするんだけどな。
 今期の三年は頭だけで云えば近年稀にみる秀才揃いだ。こぞって進学率をあげてくれるだろうことは想像に難くない。
「で、どっちに行くわけ?」
「気分次第」
 世の受験生が聞いたら散弾銃ぶっ放してきそうなこの台詞も、倉貫が云うと厭味にもならず世間話の延長に聞こえてくるから恐ろしい。
「アノヒトはどうするって?」
「さあな」
 学年主席と次席の進路は教師のみならず生徒の間でも関心が高い。
 何もそれは進路に限った話ではないが。
「きてんの、王子?」
「通常運転。伴人フタリ引き連れてるよ」
 ああ、そういえばさっき、食堂で切敷の後姿を見たっけか。でもその隣りにいたのは長身の清でも、あの可愛らしい南でもなかったけれど。
 細身の背中。耳のすぐ下で切り揃えられた髪が笑うたびにサラサラと揺れていた。流れるような優美な仕草。それがごく自然に、でも当然のように切敷の手を取り細い指を絡めてた。あの人のあんな穏やかな雰囲気、もしかしたら初めて見たかもしんない。
「瀬戸先輩、北海道行くってあれマジ話?」
「受かればな」
「つーか受かってんでしょ?」
 そんな手抜かりをあの人がするとは思えない。切敷にしても、瀬戸内にしても。二人とも晴れて合格していれば、仲良く一緒に本州を離れるんだろうか。手に手を取り合って?
「しかし俺、瀬戸先輩はアンタか、観月先輩と付き合ってるんだと思ってたなー。ずっと」
「俺があんな計算ギツネと?」
 意外そうに眉を上げ、倉貫が可笑しそうに目を細める。
「でも寝てたことは否定しないだろ」
「ずいぶん昔の話だぜ」
「やれやれ。アンタの天然趣味がもっと早くに露見してればよかったのにな」
「なんだ夏目、ハルに惚れてたのか」
「んー、淡い憧憬くらいは抱いてたかな?」
 ウワサをすれば陰、プレハブ棟舎から中庭へ続く小道を切敷と瀬戸内が並んで歩いている。
「やめとけよ。あんなのに本気になったら、痛い目見るだけだぜ」
「うわー、経験者は語るって感じ?」
「いや俺の場合はもっと厄介だ」
 倉貫の口元に心底楽しそうな笑みが浮かぶ。
「あ。俺、ノロケには付き合わないんで」
「まあそう遠慮すんなって」
 酷薄な唇にニヤニヤ笑いを浮かべながら、倉貫が伸びた灰をトレーの中に落とす。
「なんだこんな所にいたのかよ、倉貫」
 聞き慣れた声に後ろを振り向くと、能天気なオレンジ頭が教室の入り口に顔を覗かせたところだった。
「あれ、観月先輩?」
「なんだ朋章か。サボってんじゃねーぞ、一年坊主」
「それ、アンタにだけは云われたくないね」
「うーわ、お言葉」
 履き潰したスニーカーを素足で引き摺りながら、観月がベランダの入り口に手をかける。
 クセっ毛なのかいつもあらぬ方向にハネているオレンジ色の毛先が、今日はまた一段と激しく自己主張していた。
「先輩は留学組だよね」
「そ。つってもカナダ行くのは俺だけだケドね」
観月が動くたびにフワフワと揺れる柔らかそうな髪。日に透けると鮮やかな発色を見せるオレンジ色だが、曇りの今日は心なしか落ち着いて見えた。
「今年は国立組がやけに多いからな。海外流出は例年に比べるとガタ落ちなのよ」
 な、国立組。と倉貫の肩を叩きながら、そのついでとばかり胸ポケットから倉貫のセッタを一本拝借する。
「バーカ、おまえのはただの里帰りだろ」
「有体に云えばそうなるかね。そういうおまえは? 帰んのか、京都に」
 倉貫が差し出した火に観月が顔を近づける。
 明るい炎が一瞬、太陽のようにオレンジ色の髪を燃え立たせた。
「だからまだ決めてねーって」
「いいワねェ、三男坊はお気楽なご身分で。羨ましいワー」
「俺としちゃカナダのお坊ちゃまの方が、はるかにオキラクに見えるけどね」
「うわ、云ったな? オマエ、ことあるごとにメイプルシロップ送りつけるぞ嫌がらせに」
 アホなことを云いながら観月が手近の椅子をガガガガっと引く。
「つーか、そんなアホ話しにきてんのアンタら」
「朋章、おまえな。仮にも先輩にアホはないだろ?」
「じゃ漫談?」
「あーあーなんとでも云え。つーか、おまえいつからセッタ派?」
「さっき如月に会ったんだよ。ついクセで買っちまったんだとよ。臨月のクセにな」
「何、喫ってんのアイツ?」
「いや。どっかのフェミニストに窘められてからはヤってねーらしいぜ」
 へえ、と観月が興味なさげに煙を吐き出す。
 あまり公にはなっていないが、観月と如月はいわゆる犬猿の仲というやつだ。水と油というか。どこまでいってもトコトン合わないのだという。つっても、中三の頃に少しだけ付き合ってたことがあるのを俺は知ってるけどね。
 ま、その時に何かあったんだろうな。深くは突っ込まないけど。
「アイツ、あのなりで出るんだ。卒業式」
「振袖着るとかホザいてたけど、ぜってー無理だろアレ」
「アホだな」
 年末に見た時もけっこう腹デカいなと思ってたけど、休み明けに見た如月のボディラインは驚くほどの変化を遂げていた。一度だけオナカ触らせてもらったことがあるけど、この中に人間が一人入ってるのかと思ったらなんだかすごく不思議な感じがした。
「予定日、早まんなきゃいーけどな」
 サラリと云った観月の台詞に俺は思わず目を丸くした。
 何でもないことのように他愛ない話はまだ続いてたけど、ほんの一瞬、観月の本心に触れたような気がして俺は静かに口を噤んだ。
 吐き出した煙がゆっくり時間をかけて雲に溶けていく。
 このヒトらは六年間、このマッチ箱のような学校の中で「日常」という生活を過ごしてきたんだ。一言じゃとても云えないくらい、誰もがツライ思いを、悲しい思いを、そして楽しい気持ちと、喜ばしい心地とを、この箱の中で味わってきたのだろう。
 怖い目にも遭って、数え切れぬほどの痛い思いをして、惰性を覚えて逃げ道を知って、でもそれでも譲れない何かが自分の中にあることを見つけて。ヒトは学んでいくのだろう。
 自分の通ってきた道に自信があるから、このヒトらはこんなにも誇らしげに笑うことができるんだろうか。ちぇ、なんか羨ましいぜ。俺は二年後、どんな顔をしてココを去るんだろうな。願わくばあんな風に、晴れやかな顔で肩を叩き合ってたいもんだけど。
「夏目」
 タイミングよく叩かれた肩にそのまま暖かい感触が残る。
「あー?」
 振り返ると開けっ放しだった教室の窓枠に、寄りかかるようにして蓮科の長身が立っていた。
 どういう風の吹き回しか、今日はまともに体育に出ているらしい。黒地のTシャツに白抜きのプーマのロゴが躍っている。
「探したぞ、アチコチ」
「なに、急用?」
「松峰がな、リレー出なきゃ体育の単位やんねーってサ」
「うそ、マジ?」
 いきなりの展開に頭がついていかない。
 だって俺、マット運動とかちゃんとやってたじゃん? 前期に比べたら後期のがちゃんと授業出てたし、出席日数だって余裕で足りてるはず。何も最後の単元サボったからって、そんな目くじらたてることねーじゃん。
「俺も途中でつかまったクチ。夏目連れてこねーと俺の単位もヤバいんだとよ」
「は? なに横暴コいてんだ、あのババア」
 俺の手から奪ったマルメンを蓮科がポイと灰皿に放り投げる。
 受け皿の底で吸殻がジュッ…と切ない音を立てた。あー、俺のマルメンライト。
「つーか、二クラス合同で生徒が五人しかいねーってのは有り得ねえ話だろ?」
「あー……」
 なるほどね。皆、同じ魂胆ってワケね。…そりゃ松峰もキレるわな。
 渋々立ち上がった俺にポコンと観月の拳が振り下ろされる。
「オマエら、もう少し教師にも気配りしてやれよ」
「俺らはそんなヘマしなかったよな?」
「なー?」
「はいはい」
 シタリ顔で笑う先輩らを尻目に、擦り切れた上履きをコンクリに引き摺る。
 けっ、そういう確信犯のが性質ワルイっつの。前を行く蓮科の背中を見ながら、俺はふと重要なことを思い出した。
「あ、俺ジャージ持ってきてねーや」
 そうだよ、こないだ持って帰ったきりだしな。決定打を見つけた気分で掌を打ち合わせると、すかさずベランダからロッカーキィが飛んできた。
「俺の貸してやる。あんま年寄り泣かせんな?」
 ちぇ、自分のがよっぽど教師泣かせだったくせに。俺は仕方なく観月のロッカーキィを手に喫煙所を後にした。
「昼休み、食堂にいっからカギ返しこいよー」
「はいはい」
「朋章の奢りなー」
「ムリムリ」
 こんな日常もあと少しかと思うと、柄にもなくセンチな気分になったりもするけど、でも涙の別れなんか俺らには似合わないから。
最後の日まで、俺はこうして笑っていたいと思う。
 ま、何も今生の別れってワケでもねーしな。

 今日の天気のように俺の未来はまだ雲の向こうにあって、見ただけではそれが何か輪郭さえも解らないけれど。でもいつかアンタらのようにそういう真っ直ぐな眼差しで、雲間の向こうを見通せたらなって思うよ。
 俺には見えない向こうの景色があのヒトらの目には確実に映っているだろうから。



end


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