さよなら、センチメンタル



 三月九日は晴天、という天気予報はどうやら間違っていなかったらしい。
 突き抜けるように晴れた青空。薄く伸ばした綿菓子のような雲が、空の上澄み、ちょうど対流圏のあたりに広がっている。冬独特のくすんだような色の空。それをさらに滲ませるように、観月は唇の端から細く白い煙を吐き出した。

――ジジッ

 咥えたままのラキストが北風に煽られて、先端の炎を鮮やかに色づかせる。
 講堂方面から吹いてくる風が、途切れ途切れに餞の歌声をここまで運んできていた。北館なんて講堂からもっとも遠い校舎なのに、春の風はなんとも勤勉だ。それとも太っ腹?
 リハーサル通りプログラムが進んでいるのなら、じきに在校生と卒業生を合わせた全体合唱がはじまる頃だろう。耳に馴染んだ前奏をハミングしながら、屋上の冷たい手摺りに両肘をかけてもたれかかる。
 卒業式を中途で抜け出したのは、何も初めからの予定ではなかった。ただあまりに長く連なったプログラムが退屈を呼んだのと、昨夜からの寝不足に祟られて抜けざるを得なかったというだけの話で。受け取るだけ受け取った卒業証書は、いま足元のコンクリに転がっている。

 あ、云っとくけど違うから。
 自分の涙腺を心配してとかそういうことじゃないよ?

 誰にともない言い訳を胸に浮かべながら、ふいにそれを誰かに云いたくなって煙草を外す。聞いてるのは南風ぐらいのものだろう。

「だって泣いたら台無しじゃん?」

 いざ唇を開いてみれば零れ落ちたのは紛れもない本音で、ああそうだよなぁと改めて思う。いままで築いてきた「観月天」という人間は、いつだって能天気で底抜けに明るくて、涙なんか似合わない人間だからさ。卒業式ごときで泣くわけにいかねーじゃん。
 風に煽られて、カラカラカラ…と卒業証書のケースがコンクリを転がりはじめる。その乾いた囁きに耳を済ましていると、唐突にその音がパタリと止んだ。代わりに聞こえたのはハタハタと何かが風に煽られる音で。目線を投げると、見たことのない黒いブーツがほんの数メートル先で卒業証書の歩みを止めていた。

「だから、こんな所で泣いてるってわけ?」

 聞き捨てならない台詞に思わず反論しかけると、それを遮るように如月が立てた人差し指を唇にあてた。
「悪いけどあんたの考えそうなことぐらいお見通しよ」
 そう云って少しだけ微笑んだ如月の後ろ、地平線を描く山並みより僅か上で輝く太陽がやけに眩しくて、観月は思わず目を細めた。逆光を浴びてしなやかな黒髪が、風に踊りながら光の粒子を帯びる。
 黒のロングスカートから伸びた足首を支える黒いブーツ。如月にしたら初体験なんじゃないかと思うぐらい、そのヒールはぺたんこだった。首に巻いた藤色のスカーフが、乾いた音を立てて風にはためく。

「つーか、それじゃ俺、あんまりにヘタレじゃない?」

 そう云ったら、さも意外そうに眉を寄せて如月はこんなことを断言してくれた。
「あんたヘタレよ、知らなかったの?」
「え、嘘、俺ってヘタレ? やっべ初耳なんですけど」
「あんたは自分のこと知らな過ぎ」
「うーわ、説得力ありすぎじゃないソレ?」

 コンクリに落としたラキストの火先を上履きで踏み消す。煙が絶えたのを見計らって、観月の卒業証書を蹴り飛ばしながら近づいてきた黒髪が隣りに並んだ。それにしても、だ。
「よくここが解ったな」
 あちこちの空き室を私物化していたおかげで、観月の隠れ家は校内にそれこそ無数にあった。だから屋上に上がったことなんて、数えるほどしかないのに。
 観月が講堂を出たのは送辞が終わってすぐのことだ。進行が少しだけもたついた機を逃さず、するりと講堂の扉から抜け出した。時間的に云っても、如月が迷った末にここに辿りついたとは思えなかった。おそらく真っ直ぐに向かったのだろう、この場所に。
「勘できたってわけ?」
「別に。前にあんたが云ってたことを思い出しただけよ」
 そう云いながら、ブーツの爪先でチョイと卒業証書のケースを転がす。
「あー…」
 それをしゃがんで拾いながら、観月は手摺りに手をかけて笑った。
「アレか」
「実践するのかと思って見にきただけ」
 あったなぁ、そんな話。つーか、よく覚えてたな、そんな話?
 如月の記憶力に、というよりその胸の内を思って観月は「懐かしいな」と一言だけ小声で零した。

 云ったよ、確かに。卒業証書を紙ヒコーキにして屋上から飛ばすのが夢だって。
『でも中学まではいちおう義務教育だからさ、それは親父に送るとして、飛ばすならやっぱ高校のって感じ?』
 そう云って笑った自分の声とか、表情筋の動きとかまで鮮明に思い出せるような気がした。
 何気ない話の一つだった。如月に云われるまで、云った当人ですらいまの今まで忘れていたというのに。

「飛ばさなさいわけ?」
「ちょっと気が変わったかな」
 キュコッ、と回した紙筒から丸められた卒業証書を取り出す。
 すげー楽しくて、あまりにもたくさんの思い出があり過ぎて、呆れるほど笑い通しだった三年間なんだけど。同時に、これ以上苦しい三年間もなかったと思うよ。約束なんてしなきゃよかったとか、なんでこんなことになってんだろとか、思わなかったわけじゃないからさ。でもそれでも。
 待とうと決めたのは自分自身だったから。
 だからいま、こんなにも充実感を味わえてるんだと思う。油断したらマジ泣きしそうだからね、これホント。

「楽しい三年間をありがとう、ってことでこれは初恋の人に送ることにするよ」
「あら、そう」
「最近は『母さん』も板についてきたみたいだし? たまには俺も『息子』らしいことしてみようかなってね」

 父親の再婚相手に惚れたのが中三の時。落ちると同時に終わってた恋を、当時の自分は呆れるほど引き摺って結果、家族に迷惑をかけたから。せめてその罪滅ぼしになればいいと思う。って、そんなの自己満足以外の何物でもないんだけど、それが隠しようのない本心だから。
「いつかさ、告白できればって思ってるんだよね。すげー好きでしたって」
「泣ける話ね」
「いい話っしょ?」
 そう云って笑うと、つられたように如月も泣きそうな笑みを浮かべた。
 立ち上がって同じ手摺りに手をかけながら、同じ風景を眺める。こんな穏やかな日が来ることをどれだけ願ったろうか? 山あいで散りゆく花びらを含んだ風が、黒髪をなびかせてからオレンジ色の髪を撫ぜていった。



 恋なんて二度とするか、って思ってたあの頃の自分に。
 恋も捨てたもんじゃないと、今日初めて云える気がした。



「花びらついてる」
 しなやかな黒髪を一房すくって、からんだ花びらを解いて散らす。そのついでのように、ポケットから出した指輪を黒髪に結びつけると。
「さーて、そろそろ撮影会かな?」
 振り向くことなく、観月はするりと手摺りを離れた。


「……このバカ」
 風に掻き消えそうだった憎まれ口をきちんと聞き届けてから。
「だってバカですから」
 アハハーと笑いながら卒業証書を片手、観月は足取りも軽く屋上を後にした。


end


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