revolver
木曜の四限って何だったっけ?
事務局前に乗りつけたタクシーから降りると、英嗣は昇降口へは回らず来賓用のガラス扉を潜った。プーマのままズカズカと上がり框を踏みしめ廊下の突き当りを左に曲がる。途端、思い出したように低く腹が鳴った。そういえばメシ食ってねーな…。正確に云えば日付が変わった辺りから胃に何も入れていない。こりゃクラスより先に食堂によるかな。この時間なら調理パンの販売はすでに始まっている。思い直して進路を百八十度変えたところで、正面の扉から出てきた茶髪が早足にコートの袖横三センチを擦りぬけて行った。
「あ」
異口同音。振り返った視線が交錯するより早く。
「よう、蓮科」
打ち込んできた拳を右手で受け止める。
「おまえ今週初めて会うんじゃね?」
「そうだっけ?」
「せめて朝くらい自分のクラスに顔出せや」
「じゃあ来週からはそうするよ」
「それ先週も聞いた」
先週の木曜とまるで同じ会話をトレースしたところで、ふいに神奈川が先週にはない動きで片足を振り上げてきた。しゃーねえ、ここは一発蹴られとくか。予測して構えてるとそれは予想外、黒いプーマの上にガスっと思い切りよく落っこちてきた。上履きの底がぎゅうぎゅうと押しつけられる。
「なあ、土禁って何の略か知ってる?」
「土足禁止?」
「だろ? 俺でさえ律儀に履き替えてるんだぜ? もうちょっとこう公平にいこうや、なあ」
バレエシューズの踏みつけにまた一段と力が篭る。ご丁寧にも油性ペンで名前まで書き込まれているところが相当笑える。「1−6神奈川」って。そりゃアンタ確かに六組だけどさ。安易な突っ込みはすでに誰かが入れてるだろうから触れはしない。逆上するの目に見えてるしな。
「先週までディオールのブーツで闊歩してたヤツがよく云うよ。一体どんなカゼの吹き回しだ?」
「しょーがねえだろ、生徒に示しがつかねえとか食堂で訓示垂れられちまったらよ」
「あー、教頭に捕まったワケね」
「ウルセー。とにかく俺はやむを得ず! このくそダッセェ上履きを履いてるんだよ! 当然てめえも履くよな?」
「ところで職員用の下駄箱ってカギかかったっけ? フェラガモとか盗まれたら笑えねーよなぁ」
「履き替えてくる」
即答で履き捨てた担任が競歩紛いの早足で玄関口に向かうのを見送ると、英嗣は事務局棟から二階へと続く階段を昇った。だったら最初から履いてこなきゃいーのにってセリフがどんだけ無駄かはクラス中が、いや恐らくは学校中の人間が知っている。三度の飯よりブランド品が好きと豪語して止まない神奈川だ。云ったところで聞くようなタマじゃねーしな。担任のクセに「服が汚れたらどうするんだ」とか云って体育祭にも出なかったぐらいだ。一切の雑事は副担に任せきり、会期中も自分の受け持ち生徒が競技に勤しんでいる間でさえも、自分は汗一つかかず教員用のテントの下で優雅にお茶を飲んでいたという天晴れなツワモノぶりである。ここまで徹底してると逆に清々しいっていうかね。人間てのはココまで自分に正直になれるもんなんだなと神奈川を見ていると心底そう思う。「嘘がない」という点では確かに神奈川は清々しいだろう。だが、嘘がないからといって全てが許されるものでは当然ない。
アレは夏前。かねてからの夢だったというパーマをかけて意気揚々と出勤してきた副担を「似っ合わねーなオイ!」の一言で出勤拒否に陥らせたのはすでに語り草だ。正直、相対した誰もがそう思っていたのも事実だが、何も正直に云うばかりが美徳ではない。だが神奈川というオトコの本領はここから発揮される。その後ヤツは嫌がる副担の家に無理やり押しかけ、半ば拉致に近く自宅から連れ出すと愛車のランボルギーニに乗せて、知人が経営する青山のサロンまで連行した末に「おまえにはこういうのが似合うんだよ」とほとんど脅迫の勢いでパーマをかけ直させたという。むろん費用は全額神奈川持ちだ。その後の副担のヘアスタイルが見違えたのは云うまでもない。このヒネくれたキャラが受けてか、神奈川の生徒人気はバカみたいに高い。受け持たれてる身としては弊害の方が大きいんだけどね…。だが英嗣も神奈川という男は嫌いではなかった。
誰かを傷つける真実と、そこから守るための嘘。どちらかを選ばねばならないとしたら恐らく自分は後者を、そして神奈川は迷わず前者を選ぶだろう。たぶんどちらも正しくて間違ってはいない、使う人間の裁量次第では。
階段を昇り切ったところでモッズコートの内側が震えた。
「ああ、いま着いた」
通話の向こうで賑やかな声が近づいては遠ざかる。ヒトのことは云えないが匡平も似たような身分らしい。どう聞いても授業を受けてる生徒の声とは思えない。
「先メシ食おうと思って。あー…今日はバイクじゃねーよ」
背後で聞こえる甲高い声は早乙女のものだろう。もう何人か複数の声がチリンチリンという鈴の音と共に聞こえた。
「買出し? イレブンか」
中庭を囲む回廊を抜けると、食堂と本校舎とに別れるY字路にぶつかる。匡平の一言で英嗣は左の通路を選ぶと右手に持ってた携帯を左に持ち替えた。
「解った。先行って待ってるワ」
誰かが閉め忘れたらしい窓から外の冷気が滑り込んでくる。十一月ともなれば吹いてくる風はもう冬のそれだ。通話を終えた耳元に冷たく凍った息を吹きかける。
今日は昨日に比べて冷え込みが深い。あの寒がりがどんな格好をしてるか、これはちょっとした見物だな。そう思うと自然口元が緩んだ。十月初めからニット帽とマフラーを必需品だと云い、下旬にはカイロを常備していたほどだ。買出し隊に加わっているところを見るとこれはかなりの重装備なんだろう。
音楽科に寄って顔なじみの教師から鍵を受け取ると英嗣は大音楽ホールに向かった。引き開けた扉の向こうからアコースティックギターのフレーズが聞こえてくる。入り口に脱ぎ捨てられた靴は一つ。見覚えのある古びたソレが中にいる人物の素性を教えてくれた。コーズのハイカットモデルの横にプーマを脱ぎ捨てて二重扉を開く。
そういやオンリーライヴやるとか云ってたな。今回は高一主体だというから陣営を仕切っているのは設楽なんだろう。声をかける前に流れてきた視線が英嗣を認めて柔らかく笑んだ。階段状になったホールの最上段に腰かけたナイロンライダーズが笑って首を傾げる。
「重役出勤か?いいご身分だな」
軽く肩をすくめて見せると、クツクツと笑いながら目深に被ったハンチングが手元へと俯いた。途切れない旋律は昔よく聴いたことのあるメロディ。懐古趣味はないがノスタルジーもたまには悪くない。
「水曜はここんトコ、深夜勤でね。おかげで神奈川の目の仇にされてるよ」
「また何のバイト始めたんだよ?」
「そうだな…声を大にしては云えないお仕事」
「オイオイ、春日が泣くぞー」
「断れない筋からきた話なもんでね」
窓を閉め切っただけで空調の働いてないホールは冷え込んだままだ。寒々しい空気にイエローサブマリンが緩やかに溶けていく。
「泣かせやしないさ」
その一言で覚ったのか、設楽が呆れた視線を部屋の隅に逃した。機微に敏い人間は声だけでも真意を図れるらしい。便利なようで因果な習性だよな。見なくていいことを聞かなくていいことを知ってしまったら、あとは胸に秘めておく他ない。設楽はヒトより多くのものを墓場まで持っていかなくてはならないんだろう。
「云わないつもりか」
続けて発された言葉は案の定、核心を突いた台詞。云われるだろうとは思っていたがいざ云われると思ったよりも胸が痛んだ。けれど知らなくていいことなら知らない方がいい。云わなくていいコトを云って傷つけるくらいなら。
「傷つけるだけなら云わない方がマシ。違うか?」
「そーいうの詭弁って云うんだぜ」
「ああ、偽善とも云うな」
設楽ならきっと神奈川と同じ選択肢を選ぶことだろう。設楽ならきっとどんな真実を打ち明けたとしても巧く立ち回れる才があるから。ただ自分には逆の才があるのだ。残念ながら。欺くことでしか巧く立ち回れない。それはひどく悲しい性。
「守りたい、と思うのはおまえのエゴだろ? 春日はそれほど弱い人間じゃねーよ」
「知ってる」
「おまえが逆の立場ならどう思う?」
「…それでも俺はあいつを失いたくないんだ」
ノスタルジーが引きずり出すのは過去の記憶。自分に恋愛のイロハを教え、火がついたところで身を翻し嘲笑うように去っていったヒト。彼女がいなくなってから父親の事務所にイエローサブマリンがかかることはなくなった。
いま思えばあんなのは恋でも何でもなかった。でもその違いを知らなかった自分は長いことそれを恋愛事なんだと思っていた。そうではないと教えてくれたのがアイツだから。誰かを失くすのがこんなに怖いと思ったことはない。だから、いまでもそのヒトに繋がる線があることを、断てない線があることを云えない。本気で好きなのはオマエだけだと、いくら云ったところでそれこそアイツには詭弁にしか聞こえないだろうから。
「どっちが正しいなんて誰にも云えねーけどな」
「…悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」
「解ってる、気にすんな」
云えない秘密は抜けない棘。謀らずも自分の突き刺したソレを設楽は笑って胸の内に隠した。
「それより蓮科も一曲乗らねえ? まだ余裕あんだぜ」
隠した棘の代わりに設楽がジャケットから取り出したのは、小さく折り畳まれた紙片だった。流線を描いたソレが英嗣の足元にパサリと転がる。
「ビートルズ?」
「そ。今回はリボルバーで統一すんでヨロシク」
「設楽の趣味だろそれ」
「主犯の特権だよ。春日もやるぜ、今回」
「あー聞いてる」
「チェック入ってないのがまだ手付かずの曲だから。ま、考えといてくれよ」
「設楽は何やるって?」
「Eleanor Rigby」
「…救われねーなぁ」
「そこがいいんじゃねーか。あ、アレ空いてるぜ。Here, There and Everywhere」
「へえ、有名どころなのに?」
再開された旋律がまたホールの中を漂い始める。借りてきた鍵で練習室の施錠を解いた時点でそれに慌しい足音が被さった。ポケットに鍵を滑り込ませるのと同時、開け放してあった出入り口からヒョイと匡平の黒髪が覗いた。
「何、ミーティング?」
「いや自手練という名のヒマ潰し? サボリとも云うな」
「あっそ。どこも似たようなモンだな」
「あ、俺に構わず好きにイチャついてろよ。遠慮すんな?」
ケラケラと笑った設楽に匡平が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「バカ云ってろ」
「そうだな、防音だから心置きなく楽しめるしな」
「…おまえも調子ン乗ってんじゃねーよ」
先週ここでヤッたことを思い出したのか、匡平の耳元がカッと赤くなる。シャイな性質はいつまで経っても変わらないな。英嗣の予測に反して匡平はひどくラフな格好でホールに足を踏み入れてきた。予想よりも着ている枚数が一枚少ない。猫を思わせる身のこなしの一番上に重なっていただろうボアブルゾンは、いまは匡平の左手に抱えられていた。走ってここまで来たのだろう。心なしか息も上がっている。上気した頬は鮮やかな桜色に染まっていた。
「とりあえず適当に買ってきたけど、オマエ好き嫌いな…」
練習室の扉が閉まるのを待たず、英嗣は匡平を抱き寄せるとその背を壁に押し付けて唇を重ねた。そんな衝動がどこから来るのかと問われれば自分でも解らない。ただ匡平の上がった息を身近に感じた瞬間、頭の中の配線がショートしたような気がした。
最初は戸惑うばかりだった唇が、やがて少しずつ開いて英嗣を受け入れる。匡平の手からコンビニの袋が滑り落ちた。耳を澄ましてもノスタルジーはもう聞こえない。床に転がったフィルム包装を英嗣の爪先が軽く引っ掛ける。ピアノの下に転がったソレが乾いた音を立てた。
「な……っんだよ、急に…ッ」
息継ぎの合間、呟かれた台詞を再び中へと舌で押し込む。んん…っとくぐもった声が細く滑らかな喉を震わせた。それを這わせた掌に感じる。
この温もりを。この存在を。失わないためなら何でも出来る。どんな嘘でもつく。
傷つけたくないと云いながら、のちに確実に傷つける方法を選ぼうとしているのは知っている。でも傷を傷と感じさせないだけの嘘ならいくらでもつけるから。誰かを守るための銃もけっきょくは人を傷つけるための道具でしかない。それでも持たずにはいられないこの脆弱さを、いつかは笑い飛ばせる日が来るんだろうか。
「…………」
長いキスを終え、唇を外す。背中に回っていた腕がトンと英嗣の体を突き放した。床に散らばったパンを無言で全て拾い終えた猫背が顔を上げる。
「食おうぜ」
「ああ」
力なく笑ったテノールに促されて英嗣は綻びたソファーに腰を下ろした。「ほらよ」投げ渡された缶コーヒーの銘柄。いつもと違うそれに苦笑すると「寝不足で発情するクセ、いい加減治せ」と不機嫌に云い捨てられた。カフェオレのプルタブを爪で引き起こす。小気味いい音が室内に響いた。
「おまえレタスサンド食え。催眠作用あるから」
「俺はベンジャミンバニーか?」
「おまえなんか『こわいわるいうさぎ』で充分だッつの」
「…それもひでー話だな」
カフェオレのミルクが胃に沁みる。普段ブラックしか飲まねーからな。甘さを然程感じないのはそれだけ疲れている証拠かもしれない。徹夜明けのいま、胃にとってはこれが最善の選択だろう。ただこれで確実に午後の授業は受けられないコトになる。早速現れた睡魔が意識の裾をしきりに撫で始めていた。これじゃ何のためにここまで来たんだか…。神奈川に足踏まれに来たようなもんだよな。
食事の間に体が冷えてきたのか、匡平がヒーターのスイッチをオンにした。僅かな稼動音が鼓膜をくすぐる。設楽にもらった紙片を広げてると、クロックムッシュの最後の一口を放り込んだ春日が興味ありげに手元を覗き込んできた。
「蓮科もやんの?」
「ソラで歌えるのが一曲あるからな」
「へえ、どれ?」
指差した歌詞をそのままメロディに置き換えていく。
父親がプロポーズ代わりに母親に歌ったという曲だ。何かにつけキザったらしい父親がいかにもやりそうなコト。けれどそれをこうして歌っている自分も、確実にその血を引いているということだろう。she をheに置き換えたことに気付いたのか、隣りで訳詞を追っていた視線が縫いつけたように紙面から上がらなくなった。最後まで歌い終えると少しだけ目元を赤くした匡平が「おまえはオンリーに出るな…」と小さく呟いた。
また頭の中で小さなショート。だが伸ばしかけた指先から逃れるように、匡平の細身がソファーから立ち上がった。やれやれシャイな王子様だ…。手持ち無沙汰になった掌でとりあえず温くなった缶コーヒーをつかむと、英嗣は苦笑で口元を緩めた。
「春日は何歌うんだって?」
「えーと…And Your Bird Can Sing」
ピアノの前に立ったブレザーが、鍵盤を指一本で叩きながら最初のフレーズを小さく口ずさむ。
「一番歌詞少なくね? 英語なんてそう覚えらんねーよ」
「それが理由?」
「何だよ」
「いや別に。For No Oneとか歌われたらどうしようかと」
「何だそりゃ?」
カタチのいい眉を派手に顰めた美人めがけてコピー用紙を投げつけてやる。こんなウタ歌われた日にはもうヤケ酒するしかないって話。訳詞を追っていたのか、しばし止んでいた片指の伴奏が思い出したようにまた再開された。メロディラインだけの心もとないAnd Your Bird Can Sing。
フツリと言葉の消えた空間をピアノとヒーターの稼動音だけがたどたどしく埋める。
「オマエさ、俺に云えないこととかない?」
「何を急に」
「あるかないかだけ正直に答えろよ」
背中を向けられたままの問。
そう問われれば返せる答えは一つしかない。
「あるよ」
どちらかと訊かれればそうとしか云えない。英嗣はリボルバーの照準を匡平の背中に合わせた。単音が形作る途切れ途切れの旋律。カチリと撃鉄を上げたところで急に匡平がコピー用紙を投げ返してきた。何度も繰り返されるサビ。たぶんそれが匡平の答えなんだろう。
ショートどころの話じゃなくて、これは確実にオーバーヒート。気付いたら俯き加減の猫背を後ろから思い切り抱き竦めていた。匡平の指が英嗣のコートをつかみ締める。
「しょーがねえから待っててやるよ」
いまは云えなくても、いつかは云える日がきっとくる。だからその日まで。言葉にならない思いが指先を通して確かに伝わってくる。ああ、そうか…。自分の中にあるどうしても拭い去れない不安と逡巡。だが匡平の中にもそれは常に在るんだろう。自分はどうもそこを失念しがちだ。恋は一人でするものじゃないというのに。
「だから嘘はいらない」
「解った」
四限終了のチャイムがスピーカーを鳴らす。
「サンキュ」
それに紛れるほどの小さな囁きを耳元に落として、英嗣はブレザーから覗いた首筋に顔を埋めた。匡平の体温が身に沁みる。手にしてた銃の撃鉄を戻すと英嗣はそれを胸中に収めた。込めた弾を撃たなかったのはこれが初めてだ。用意していた嘘を匡平が不要にしてしまったから。
なぜこうも惹かれてしまうのか。理由ならいくらでも挙げられるけど、日々こうして重ねていく事実こそが真実なんだろう。やっぱどうしても手放せそうにねーなこりゃ。
「暑苦しいんだけど…」
「寒がりが贅沢云ってんな」
腕の中で身じろぐ首筋に唇を落とすと、うっすら耳元が赤く染まった。
「さ…っ、さっき神奈川がおまえのこと探してたぞっ」
「んなのシカトに決まってんだろ?」
「でも俺…っ」
「逃げんなよ、キョーヘイ」
シャイな恋人に駄目押しとばかり、もう一度あの曲を耳元に吹き込んでやる。
「Here, There and Everywhere」
「…バーカ」
すっかり真っ赤になった耳元に唇を触れさせる。声にならない祈りを込めて英嗣はそっと目を瞑った。瞼の裏に見えてる真実が、どうかいつまでも消えないようにと。
end
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