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 図書館から借りてきた『金閣寺』を捲りながら歩いてたところで。
「よ、早乙女」
 上から降ってきた声に顔を上げる。
 見ると、六組の夏目と蓮科が連れ立って第二階段を下りてくるところだった。

「なーにおまえ、最近メガネなんかかけちゃってんの?」
「乱視なのよ。授業中と読書時は必須アイテムなの」
「ふぅん、なんか似非インテリって感じ」
「えーえ、何とでも仰いよ」
 口の減らない夏目の後ろで、蓮科が降りてきたばかりの階段を振り仰いでいる。
 嬌声と水音。いまのザバーンという飛沫音は、恐らく廊下にバケツで水をぶちまけた音だろう。
 あーあ、あとで掃除すんの大変なのよ? 知らないからね?
「めずらしく不参加なんだな」
 蓮科が意外だと云わんばかりに口元を笑わせる。
 失礼ね。全ての騒動のタネが、まるで自分にあるかのような物云いはちょっと聞き捨てならない。まあ往々にしてそういう傾向にあるのは否定しないけれど。
「三組主体って聞いたぜ?」
「あたし今日は、静かに読書の気分なの」
 夏が近づくと思い出したように流行るアソビ。
 内容は単純明快、ただの水かけっこなんだけど、ルールがちょっと性質悪いのよね。
 ルールは唯一つ――ノールール。時と場所を選ばずにが信条、そして極意。
「もう高校に上がったんだから、イイカゲン卒業すればいいのにね」
「とか云って先週、先陣切ってたのはドコのどいつだよ」
「あらヤダ、そーゆー細かいコト気にしてるとハゲるわよ!」
 ザバーンという威勢のいい水音が台詞に被る。今日はいつになく、派手に繰り広げているらしい。
 巻き込まれる前に…と三人は連れ立って移動を始めた。四組の角を折れてちょうど五組の教室前に差し掛かったところ、そこでまたしても上から降ってきた声が三人の歩をその場に足止めした。

「あーら、てっきり早乙女が首謀かと思ってたのに」
「人聞き悪いわねぇ」
 第三階段の踊り場でヒールを止めた太田が、化粧品のCMみたいに真っ赤な唇をキュッと上げてぞんざいに笑う。そうするとただでさえ性格悪そうな顔がいつもの三割増しに見えるわよ? 親切にそう教えてあげたら今度はニッコリとモデル張りの笑みを唇に載せて礼を云われた。いい性格よね。そーゆうトコ、嫌いじゃないんだけど。教師陣の中ではわりと好きな方よ?
 淡い色のスーツが包む体はわりに肉感的で、それをそこはかとなく強調する服装を本人も心掛けているんだろう。これみよがしではない分ちょっとした時の仕草がクルんだよな…とは、他ならぬこの場にいる夏目の弁である。
 べつにその辺には興味ないんだけど。きちんとメンテナンスの施された美人というのは、目の保養たりえるモノだから。
「戦域は拡大する一方みたいね」
 云いながら太田が髪をかきあげる。開け放された非常階段から吹いてくる風が、絶え間なく長い髪をなびかせていた。
 ゆらゆらと揺れるスカートの裾に夏目が調子付いた口笛を吹く。見上げるアングルなだけにそれはなかなか際どい光景だ。
「青少年には目の毒なんですけどー」
「じゃあ見ないでくれる?」
「ムリムリ。目の前に人参さげられたらウマは走るのみでしょ?」
「悲しいわね、馬車馬って」
 直後、吹いてきた突風が、派手に太田のスカートを巻き上げた。黒のTバックとはまた念の入ったこと。
 夏目がにわかに前屈みになる。あらあら視床下部直撃ってところ?
「太田まじ反則…ソレ…」
「まったく即物的ねぇ」
「つーか、早乙女はアレ見て何ともないわけ?」
 にわかな前屈みから本格的に前屈みになった夏目がこっちを振り仰いでくる。まったく見当違いもいいとこだわね。
「なーんであたしが太田のTバックで勃つのよ。蓮科ならともかく」
 言いながら思わず、夏目と顔を見合わせる。ほとんど同時に振り返った先、涼しい顔で口元に手を添えている蓮科と目が合った。
「なに?」
「なんでてめえ、無傷なんだよ…」
 呻きに近い夏目の低音に、余裕で笑みなんか返してる色男――。
「や、イイモン見たとは思ってるけど?」
「…あーっそ、あんなん見慣れてるってわけね。ムカツクんですけどコノヒト?」
「あんたアレ? もはや春日以外じゃ勃たないってワケ?」
「どうだかな」
「ハイハイ鳴ったわよ、早く教室に帰りなさい」
 チャイムを潮に階段を下りてきた太田がそのまま何事もなかったように傍らを通り過ぎる。その背に夏目の声が恨みがましく追い縋った。「太田、勃たせ逃げー」
「早乙女にでも処理してもらったらァ?」
「あー…………、萎えた」
「ちょっと、アタシにも選ぶ権利くらいあるわよー」
 失礼なコトにも完全復帰した夏目がこれみよがしに背筋を伸ばす。さっきまであんなに前屈みだったくせに、ホント失礼しちゃう。今度襲ってやろうかしら。夏目みたいなお調子者をヒイヒイ云わせるってのも悪くないわよね。不穏な想像が脳裏を掠める。

「早乙女、そろそろ撤収かけた方がよくねー?」
 太田の背中が見えなくなってすぐに、今度はひょこりと春日の姿が階上に現れた。
「だーから、今日の首謀はあたしじゃないってば」
 溜め息交じりにメガネのブリッジを押し上げながら、踊り場の手すりに背もたれてる春日に視線を移す。あらあら、今日はまたずいぶん派手に濡れたのね。バケツの水を頭から浴びせられたかのように、その全身はずぶ濡れになっている。
「ひどい濡れねずみだこと」
「皐月のやつ、限界って言葉を知らないんだよな。ったく…」
 口ではそう嘆きながらも、春日がこの水遊びを楽しんでいるのは明白だ。まあね、教室にクーラーを入れてもらえない身としては、どう工夫して涼を取るかは死活問題ってわけで。
「あっちはまだまだやる気みてーだけど、そろそろ教頭あたりが怒鳴り込んでくるんじゃねえかと思ってさ」
「そうね、引き際は肝心。とりあえずその格好じゃあんた、仲間なの一目瞭然よ?」
「だよな。さっさと着替えて、掃除すっかなぁ」
 一時凌ぎといえど、水に濡れて暑さから解放された春日が、やけに爽快そうな顔をしながら階段を降りてくる。濡れてさらに色濃くなった髪の先からポタポタと各段に水滴を落としながら、よっと蓮科と夏目に片手を挙げてみせる。
「おまえらも掃除、参加してかねー?」
「するわけねーだろ、なんで俺がおまえらの後始末なん、か…」
 そう言いかけた夏目の台詞を遮るように、濡れて重くなったシャツをもひらめかすほどの突風が吹いた。途端、何も身につけていない春日の素肌が露になって、男にしては愛らしい色をした乳首までが露出する。
 そういえば前に春日が言ってたわよね。蓮科が乳首弄るのが好きなおかげで性感帯にされた気がするって。あのエロガッパに毎日のように無体な愛撫を施されているせいか、春日のソレは普通の男のモノよりも少しだけ膨らんでいるように見える。
「あ? 何?」
 ふっくりと色づいて屹立したソレに思わず視線が集中する中、一人だけ取り残されたようにキョトン顔になる春日。
「何だよおまえら、変な顔して……え、ちょ、蓮科…っ?」
 無言で動いた蓮科が、春日のはだけたシャツを即座に正しにいく。丸見えになっていた乳首にさっとシャツのカーテンを引くも――でもそれ、残念ながら逆効果みたいね。濡れたシャツに透けて見えるピンク色のいやらしさたるや、相当なものだ。
「やべえ、うっかり前屈み……なーんて」
 場の空気をわざと無視したのか、明るく冗談を言った夏目の頭に強烈な張り手を見舞うと、蓮科は無言で春日の手を取るなり、強引に体育館の方へと引っ張っていった。一連の何もかもが意味不明といったハテナ顔の春日が、ずるずると廊下を引き摺られていく。
「ちょっ、何だよ蓮科…っ! イテエって」
「いーからこいよ。さっさと着替えろ」
「や、わかった。わかったから離せって…!」

 二人の声が廊下を曲がって完全に聞こえなくなってから。
「――前屈み以前に警報が鳴っちゃったみたいね」
 そう冷静に分析すると、夏目が「まーねえ…」とどこか呆れたように鼻から息を抜いた。
「さすがの俺も、いまのはちょっとヤバイと思ったワ」
「それ、蓮科に言わない方がいいわよ?」
「んーなのアタリマエじゃん」
 言うわけねーよ…と零しながら、夏目がポリポリと頭を掻く。
「でもま、ちょっとだけわかったかな」
「何が?」
「蓮科と関の気持ちが、さ」
「……そうねぇ」
 だからこそ蓮科の警報が鳴って、いつでも余裕ですみたいなあの色男をかくも動揺させたのだろうと思う。
 春日が通ったせいで濡れた廊下のタイルに、ぽつんと落ちている生徒手帳。こんなものを落として気づかないとは、何とも蓮科らしくない。いや、この場合「らしい」というのが正しいのだろうか?
 春日に近い位置にいるせいで、蓮科がいかに女に甘くて八方美人で節操がないか、さんざんいつも聞かされてるけど。
 どっちの方がより苦労してるかっていったら、蓮科の方なんじゃないかと思わないでもないのよね。
「そりゃ、パンチラに浮かれるどころじゃないわよね」
「え?」
「何でもない、こっちの話ー」
 ひょいと屈んで拾い上げた生徒手帳の水気を切ると、早乙女は苦笑しながらそれを懐にしまい込んだ。



end


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