kiss in the
pool
カシャン、と小さく金網が鳴った。
猫のような仕草で匡平がプールサイドのコンクリへと着地する。
右手には弟のだという黒いタイメックスが握られていた。
「あっぶねー、もうちょっとで詔平に殺されるとこだったぜ」
口ではそう云いながらも悪びれた様子はない。
それどころか水際に立って夜空に放っては受け取るなどという、不穏な動作を繰り返している。いくら耐水性とはい え、プールに落とされたらさすがに無事では済まないだろう。
「いっぺん殺されといた方がよかったんじゃねーの?」」
この身勝手な兄は弟の時計を勝手に持ち出した挙句、それを昼間行ったプールに置き忘れてきたことに日付が変わるまで気付かなかったというのだから、普段の横暴ぶりも知れようというものだ。
「蓮科って何かってーと詔平の肩もつよな」
「云ったろ、弟同盟組んでるって」
「あっそ。じゃー俺も、祝嗣さんと兄貴同盟組ーもう」
匡平が聞き捨てならない提案を口にしたところで、急に吹いてきた風があたりの木々をざわざわと揺らした。水面に浮いた月が頼りなげに形を歪ませる。
昼の喧騒と熱気とが嘘みたいに静まり返ったプールサイド。
飛び込み台に置き忘れられた水色の水泳帽だけが、辛うじてこの場に昼の名残りを残していた。ザラついた太陽の粒子がそこにだけ纏わりついているようだ。だが吹いてくる風はもう夏のそれではない。
「終わりだな、夏も」
「ああ…」
夏休みも残りわずか。
去年までは休み明けにも子供たちの歓声が響いていたであろうこのプールサイドに、今年、子供たちが帰ってくることはない。
廃校になった小学校のプールがどうやら一般開放されているらしい。
それをどこからか聞きつけてきた匡平が英嗣をプールに誘ったのが今日。
八月最後の日曜日だった。
「あの頃はでっけープールだと思ってたんだけどな」
大きく「2」と書かれた飛び込み台の上に、匡平がヒョイと飛び乗る。
「小三時の記録会で、俺この2コース目で学年新記録、出したんだぜ」
「ああ、昼にも聞いたよ。その十分後に一組の原田が早くも塗り替えたんだろ?」
「そ。んで、その五分後にまた三組の山川がレコード叩き出したの」
「春日は三位に甘んじたと」
「結果的にはね。でも担任のセンセが超ー美人でサ、春日クンよく頑張ったわねって」
「ほっぺにチュー?」
「役得だろ」
「だな」
この間、匡平の家で小学校の卒業アルバムを見せてもらったことを思い出す。
確か、教員の欄に美人の女教師がいたような気がする。残念ながら定かな記憶ではないが…。
「帰ったら卒業アルバム確認しよう、とか思ってるだろ」
痛いほどの注視が英嗣の横顔に注がれる。
「敏くなったね、匡平くんも」
笑顔で返してやると、心底ムカツクとばかり匡平の眉間にシワが寄った。
「誰の所為だと思ってんだよっ」
ふてくされたような台詞と共に、腰かけた飛び込み台から両足をプールに投げ出す。水上でコンバースがぶらぶらと揺れていた。
「俺の所為?」
「どのクチで云ってやがんだ、テメエ」
拗ねたように唇を尖らせてそっぽを向く、極上美人。
こんな時、世界中の全てから匡平を奪い去ってしまいたいと思う。
初めて匡平を見た瞬間から、溢れてやまないこの気持ちをなんて名付ければいいのだろう。
「で、わざわざココに忍び込んだ理由は? 郷愁に浸りたかったから?」
「…なんだ、バレてたのか」
「当然だろ」
自惚れでもいい。他でもない匡平のことだ。いつでも誰より解っていると自負していたい。そのためには片時も目を離してたくないんだよ。
瞳の奥で揺れる水面。
その瞳に映る全てのものが憎らしくてたまらなくなる瞬間がある、…いや毎日だ。
無理やりその身を縛り付けてでも、自分だけを見てろと強要したい。俺だけのモノだとその口に云わせたい。一生、誰にも会わせずどこかに監禁してしまいたい。なあ、この狂気じみた気持ちをなんて呼べばいいんだろうな。
おまえが植えつけたこの気持ちを。
「昔からよく忍び込んでたんだ、ココ」
木立から木立へと抜けていく風が匡平の黒髪を艶やかに揺らす。
「いつも一人でさ。ガッコに持ってきちゃいけないモンとかあそこに隠したり、音楽のテストとか、委員会とかここでサボったりしてた」
「へえ」
「なんつーか、秘密基地みたいなもん?」
そう云ってはにかんだように笑う横顔。
風に煽られた波が幾度となく排水溝に打ち寄せる。静かな水音。
「なんでか、友達の誰にも教える気がしなくてさ。俺が見つけたんだから、ココは俺だけの場所だって思ってた」
匡平が投げ出してた足を片方抱える。
白いコットンの背中がいつも以上に丸くなった。
「でもココがもうすぐ取り壊されるって聞いて、もう一度ココにこなくちゃって思ったんだ」
吐息混じりの囁きを残して匡平が俯く。
後ろから見た耳元がうっすら赤く色づいていた。
「…春日」
コイツは自分の影響力を考えたことがあるんだろうか?
意識が、体が、臨戦状態に入りそうになる。
辛うじてその衝動を食い止めているのは理性だ。
「おまえ、俺に理性捨てろって云ってんの?」
「っ…なわけねーだろ」
「悪かったな。さすがの俺もプールで、ってのは思いつかなかった」
「だから違うって!」
振り向いた顔は焦りと羞恥で真っ赤に染まっていた。
「服はどうする? 脱がしてやろうか」
わざとらしく云ってやると、今度はハデに回し蹴りが飛んできた。
途端、バランスを崩した体が斜めに暗い水面へと向かう。
「…ッと」
それより早く英嗣の腕が伸びた。
「セーフ」
「ま、まじビビったいま…」
英嗣の腕に両手でつかまりながら、プールに迫り出した上半身を匡平がゆっくり元に戻す。
どこかで切ない水音が聞こえた。
二人同時に匡平の両手に視線を集めていた。
「やっちったよ…」
「だな」
いくら耐水性とはいえ、という話である。
月明かりに照らされたプールは視界に困るほどではないが、水底に落ちた腕時計を探すには相当の苦労が伴ないそうだ。パッと見、タイメックスなのか忘れ物の水中ゴーグルなのか、はたまた唯の錯覚なのか、判然としないのは水槽に塗られた色によるところも大きい。
「なんでこのプール、紺色なわけ?」
「さあな、校長にでも聞いてこいよ。母校だろ?」
紺色の水底にくっきりと浮かび上がった白いラインがゆらゆらと揺れる。
どうするよ、と視線で問いかける匡平に英嗣は「何が?」と小首を傾げてみせた。
「俺の所為だろ? 俺が捜してくるよ」
脱ぎ捨てたポールスミスを金網に引っ掛ける。スニーカーをその下に放って飛び込み台に立つ、だが飛び込む寸前に匡平の指が英嗣のベルトにかけられた。
「待てよ」
「何?」
「おまえが入んなら俺も入る」
被りのコットンを頭から抜いて、勢いよくその辺に放り投げる。
「いいって。二人で濡れてもしょうがねーだろ」
「ダメだ。元は俺の所為だ」
云い出したら聞かないのはお互い様だ。片眉を上げた英嗣に、匡平が腕組みをして胸をそらせる。白旗を上げる気配はどちらにも窺えなかった。
膠着状態に陥りかけた事態を救ったのは、空から落ちてきた一粒の雨。
辺りが心持ち薄暗くなる。月に群雲、ついでに雨まで降ってきたというわけか。水面にいくつもの波紋が広がる。
「…なあ」
交わした視線の向こうに同じ企みを見つけて、英嗣は思わず口元を綻ばせた。
水を吸った服が重く纏わりつく。
「あったか?」
「全然」
熱心に捜していたのは最初の5分だけ。
いまやすっかり泳ぎに専念している匡平を眺めながら、英嗣はプールサイドに腰かけて濡れたジーンズの両足を組んだ。
雨に晒されているからか、水中にいる方が幾分あたたかい。風はいつのまにか止んでいた。囁きのような雨音と水面に着地した水滴のたてる音とが内耳に響く。
さっきまでやたら水音を立てていた匡平は、いまは2コースのラインに沿って潜水の限界に挑戦しているようだ。紺と白の間を健康的な肌色がスライドしていく。水を得た魚のようだ。
英嗣も水中に戻ると思い切りよく壁を蹴りつけた。伸びやかな体を追って心地よい流れの中を進む。口の端から漏れた息がブクブクと耳元を撫で付けていった。
雨音は聞こえない。だが代わりに鈍い電子音が微かに響いていた。
暗い紺色をバックに魚のような肢体が踊っている。
追いついた体に腕を絡めて引き寄せると、空泡の向こうに瞠目した匡平の顔が見えた。不覚を取られた野良猫のような顔だ。思わず吹き出しそうになる。
「なんだよっ」
水面から視界を引き上げるなり不平を云いはじめた匡平の唇を、英嗣は右手に持っていたタイメックスで見事に黙らせた。
「アラームが鳴ってたぜ」
英嗣が掌で電子音を鳴らす。
きょとんと丸くした目を、パチパチと何度も瞬きが覆った。
今度は豆鉄砲食らった鳩ってところか?
どうやら耐水性は伊達じゃなかったらしい。液晶に浮かび上がった数字は午前2時を少し回っていた。夏ほど夜更かしに適した季節もない。それももう残り僅かかと思うと、急に名残惜しさが胸に湧いてきた。
「まだ泳ぐのか」
「どうせだろ。ここまで濡れると徹底したくなんねー?」
濡れた黒髪を項に貼り付けて匡平が唇の片端を上げる。
素肌を打つ雨が裸の胸を伝い落ちていく。鎖骨に溜まった水が動いた拍子に尖りのすぐ横を掠めていった。冷たい水に晒されて屹立した部分がいつもより数倍、いやらしく見える。
濡れた素肌に腕を回して、冷えた体を胸元まで引き寄せる。
「なんなら、中まで濡らしてやろうか?」
舐るように耳元に吹き込んでやると、匡平の体に小さな震えが走った。
「バカ、云ってんなよ…」
見上げてくる視線に弱々しげな台詞が被さる。
「…………」
だから一度でいいから、匡平には自分の影響力を心底考えてみてほしいと思う。
切なげに艶を増した瞳の奥に、このまま吸い込まれるんじゃないかという危機感さえ覚える。
薄い唇から漏れる吐息が、甘く蠱惑的に英嗣を誘う。逃れられない誘惑の罠。
意識ごと、どこかに持っていかれそうになる。それも時間の問題だろう。
「ハチ、す…」
言葉を紡ぐために開かれた唇を、英嗣は自身の唇で塞いだ。
英嗣の手から転がり落ちたタイメックスが再び水中にダイブする。その前に指がボタンに触れていたのか、青く発光した液晶がゆっくりゆっくり水底に沈んでいく。
その淡い光を目蓋に感じながら、英嗣は滑らかな素肌を指先で堪能した。
夏の終わりを刻まれた体が、腕の中で気を失ったのはその数時間後のことだった。
end
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