3.pm



「つーか、なんで俺が行かなきゃなんねーんだよ…」
 いつもなら軽く無視するところなのに、弾みで取ってしまった携帯を英嗣は心の底から呪った。
「だから知らねえって。自業自得だろ?」
 電話の向こうで相手が声を潜める。案の定、兄の口からは不穏な単語がいくつか飛び出してきて、英嗣の眉間を曇らせた。溜め息を禁じ得ない。
「解ったよ、三時までに会社届けりゃいんだろ? いろよ、絶対」
 腹立ちのままに通話を断ち切ると、英嗣はそもそもの発端である携帯を思いっ切りソファーに投げつけた。当然、気なんか晴れない。
 兄貴なんて生き物はこれだから最悪だ…。もう一度大きな溜め息をつくと、英嗣は上履きを引き摺りながら第一練習室を後にした。


「春日ワルい、野暮用ができた」
「なんだよ、ヤボ用って?」
「…家族間における深ーい溝のハナシ。先行って中で待ってろよ」
「あ、ああ」
 投げたカギを春日が受け止めたのを確認してから、英嗣は駐輪場に向かった。
「おい、早くこいよなっ」
 後ろから追いかけてきた春日の声に片手を上げて見せる。
「解ってるって」

 たぶん、こないだの日曜のことを気にしてるんだろう。

「そういやあん時、隣りに兄貴いたんだった」
 嫌がらせも込めてそう云ってやったら、春日は硬直したきり真っ赤になって口も利けなくなってたっけ。その後、烈火のごとく怒りはじめたのは云うまでもない。まあ、牽制球としてはまずまずの出来じゃなかったろうか。とにかくあのオトコは油断がならない。
「ったく、冗談じゃねーっつの」
 学校から家までが50分、家で封筒見つけてそっから会社まで回って…到着は二時半ぐらいか。ヤツが大人しく会社にいればの話だが。
この借りは高くつくぜ、そう云ってやったら妙に余裕ありげな声で笑ってたっけ。それが気になると云えば、気になる。父親に似て策士の気のある祝嗣は、時として思いも付かないようなことを仕掛けてはそれをやってのける。
 あの二人を見るたびに、自分は母親似でよかったとつくづく思ってしまう。
 だが不本意なことに、容姿だけで云えば自分と祝嗣とはとてもよく似ているらしい。中身は天と地ほどの差があるというのに。
 予測タイムより十分早く自宅まで帰り着くと、英嗣は通用門の前にバイクを止めて裏口に向かった。五ケタの数字とアルファベットを打ち込んでカギを開ける。
 で、どこに何があるって?
 祝嗣の台詞を思い出しつつ廊下を進んで玄関に向かうと、途中バスルームのそばの壁に水色の封筒が立てかけてあるのが見えた。
 小学生じゃねーんだからこんな忘れ物してんなよ。いくつだよ、アンタ…。
 封筒を引っつかみズカズカときた道を戻ると、英嗣は通用門に止めてあったバイクに跨った。急げば二時過ぎには到着できるはずだ。パシリなんて早いとこ終わらせるに限る。黒い車体を勢いよく発進させると、英嗣は吉祥寺に向かった。



「蓮科さんなら、いま外出中ですけど…」
 半ば予想してた台詞を聞かされながら、英嗣は受付のお姉さんにニコリと微笑んだ。
「どこに行ったか聞いてませんか?」
「た…たぶん遅いランチをとるって仰ってたから、隣りのカフェか、リストランテに…」
「なるほど」
 あんにゃろう、人をパシらせといてどういう了見だ。
 このまま受付に預けるってのもテだったが、ここまできたら面と向かって文句の一つや二つ云ってやりたい気分だ。
「どうも」
 穏やかならざる心中とは正反対に、これ以上なく鮮やかな笑顔を浮かべると英嗣は受付嬢に礼を云って広いエントランスホールを出た。
 無駄とは思いつつも祝嗣の携帯を鳴らしてみる。「電波が入らないか、電源が入っていないため…」案の定、お決まりのアナウンスが流れる。
 仕方ない。まずは一軒目。隣りのカフェから捜索開始だ。
 落ち着いた空気とスタイリッシュな雰囲気とがいかにも祝嗣好みの店だな。適度な照明に照らされた店内には数人の客がいたが、その中に祝嗣の姿は見あたらなかった。ここじゃないとするとリストランテか?
 次の二軒目。向かいのリストランテに向かう途中、英嗣は見知った顔とすれ違った。
「英嗣くん」
 名前を呼ばれて振り返る。
 えーと確か、祝嗣の同僚の津島といっただろうか。何度か家にきたことがある。
「シュージに会いにきたの?」
「…ええ、そんなとこです」
 べつに好き好んで会いにきたわけじゃないが、もし津島が祝嗣の行方について何か知ってるのならここで聞き出しておかねばならない。
「祝嗣、どこいったか知りませんか?」
「うーん、さっきまで一緒だったんだけど、その後どこ行ったかまでは解らないな」
「いつまで一緒にいたんですか」
「四十分くらい前かな? 裏のトラットリアで一緒にメシ食ってたんだよ。野暮用があるからってアイツは先に帰ったけど」
「そうですか」
 なんだよ、野暮用って。どうもキナ臭い気がする。
 とかく兄貴というものは弟を人間だと思ってない節があるからな。元来、兄弟とはそういうものらしい。兄には兄の苦労があるのかもしれないが、だからといって弟を虐げていい理由にはならない。
「でも今日アイツ、会社に戻らないかもしれないよ」
「え」
「デザインの打ち合わせに相当かかりそうだから、終わった時点で直帰するって」
 イヤな予感がますます頭をもたげる。
 電話の向こう、余裕で笑ってた祝嗣の声。
「…俺、この封筒持ってこいって云われたんですけど」
 持っていた水色の封筒を見せると、津島は軽く「失礼」と断って中を覗いた。
「これってこないだ終わった仕事のじゃないかな。たぶん、もう必要ないと思うけど」
「そうですか」
 自分が封筒を間違えた、とは考えにくかった。「廊下あたりに落ちてる水色の封筒」なんていう代物はコレ一つきりしかなかったのだから。
だとしたらこれは祝嗣の策略だ。狙いは何だ?
「げ」
 突然思い当たったことに英嗣は思わず顔をしかめた。
 そういうことかよ…ッ。
 即座に走り出す。
「祝嗣になんか伝言あったら伝えておこうか?」
「くたばれクソ兄貴、って伝えてください!」
「了解」
 津島がにんまりと笑みを見せる。
 それを横目に、英嗣はバイクを急発進させた。



「お、おじゃまします…」
 何度もきたことがあるとはいえ、家人のいない家に勝手に上がり込むというのは緊張するものだ。むろん、英嗣の許可は得ているが他の家族からしたら侵入者以外の何者でもない。
 とは云え、いままでこの家の中で他の人間に会ったことは一度もないのだが。でも、今日みたいな日に限って誰かに会っちゃったりなんかして…。
「いらっしゃい」
 玄関口に座り込んで靴を脱いでると、背後から突然、聞き覚えのない声がかかった。
 恐る恐る後ろを振り向く。
「キミが春日匡平くん? やあ、ウワサ通りの美人だな」
 カジュアルなスーツに身を包んだ男が匡平のすぐ後ろに立っていた。
 手を差し出されて思わず反射的にその手を取ってしまう。
 ぐいっと持ち上げられて、匡平はそのまま玄関に上げられていた。反対側の手に持っていたコンバースが鈍い音を立てて玄関タイルの上に落っこちる。
「はじめまして、英嗣の兄の祝嗣です」
 つかまれたままの手に力がこもる。突然の事態に言葉を失っている匡平を楽しそうに眺めると、祝嗣はニコリと英嗣によく似た顔を綻ばせた。
 英嗣よりもさらに少し高い身長。着痩せして見えるがそういうところはよく似ているのだろう。なにより身に纏っている雰囲気が似ている。そばにいる者に包容力と安心感を与えるような…。
「うーん、カワイイな。こんなのが英嗣のモノかと思うと妬けてくるな」
「あ、あの…っ」
「何?」
 つかまれたままだった手をそっと振り解くと、匡平は慌てて口を開いた。
「先週はとんだ醜態をさらしてしまって、あの…失礼致しましたっ」
 まともに顔なんか見れねーよ…ッ。
 いまにも顔から火が噴き出そうだった。
 あんな声を一部始終聞かれてたなんて…。それでなくても先週は途中からの記憶がないのだ。何を口走ったか、気が気ではない。
 思いっ切り頭を下げたまま俯いていると、ややしてからポンポンと頭を叩かれた。
「先週って…何のことか解らないんだけど、僕と春日くんって初対面だよね?」
「え…」
 祝嗣の心底不思議そうな声を聞いて、匡平は訝しみながらも顔を上げた。
 いったい何のことだろうという風情を全身で表しながら、祝嗣が匡平の顔を見つめている。あれ、おかしいぞこの反応は…。
「先週の日曜って…家にいらっしゃいました?」
「いや、最近は金曜くらいしか家には戻れないから」
 あんのオトコ…ッ。
 英嗣に担がれたことを知って、匡平は握り締めた拳を小刻みに震わせた。
 覚えてろよ、ボケ!
「えっと…」
 重ね重ね、穴があったら入りたい気分だ。
 ああ、自分の勘違いな行動が恥ずかしい…。羞恥で目元を赤く染めると匡平は俯き加減に小声で囁いた
「あの、春日匡平です…、英嗣くんにはいつもお世話になってます…」
「いえいえ、ウチの英嗣こそいつもお世話になってます」
 匡平に倣って、祝嗣も恭しくその場で頭を下げるとニコリと笑ってみせた。
 英嗣によく似た、だがそれよりも大人の余裕に満ちた笑顔だ。アイツも大人んなったらこんな感じになるんだろうか。
「春日くんはしっかりしてるね、昔からそうなんでしょ? 英嗣なんてなかなか乳離れができなくってさー、うちの母親を困らせてたんだぜ。おねしょもなかなか治らなくて小二までやってたし」
「マ、マジですか?」
「ほんとほんと。なんならもっと色んなこと教えてあげようか」
「ぜひっ!」
 思わず詰め寄ると、祝嗣が楽しそうに声をあげて笑った。
「OK。こんな所で挨拶してるのもなんだからさ、リビングへどうぞ。いまお茶いれるよ」
 おいで、と云われるまま祝嗣について廊下を進む。
 気付いたらさっきまでの空気が払拭されていた。匡平の足取りも軽い。人見知りと羞恥とで、重苦しく感じてた空気もいまはもう跡形もなかった。その場の空気を動かすのがウマイ人なんだな。そういうところも大人の余裕というか。
 祝嗣の背中に続いてリビングに入る。
 スーツに包まれた広い背中からは、いつだったかあの部屋で嗅いだ大人のオトコの匂いがしていた。



「祝嗣ッ」
 午後三時、数分前。
 家に入るなり、英嗣は大声で兄の名を呼んだ。聞き慣れた声がリビングの方から聞こえてくる。やっぱりそういう魂胆か、コノヤロウ…。
「おいっ」
 扉を引き開けるなり、ソファーで談笑してる祝嗣と匡平の姿が見えた。
 なんだよ、その和やかな雰囲気はよ…。
「あ、おかえり。いまちょうど、おまえの話をしてたところなんだよ」
 胡散臭い笑顔を浮かべて、祝嗣が組んでた脚を解く。無造作に投げ出された手は匡平の膝のすぐそばに置いてあった。
「オカエリじゃねーだろ。俺になんか云うことあんだろ?」
「ああ、封筒のこと? あれ僕の勘違いだったよ。無駄足させて悪かったね」
 無駄足じゃなくて足止めだろ?
 だいたいなんだよ「僕」って、気色悪い。
 ズカズカとソファーまで近づいていくと、英嗣は祝嗣の胸座をつかんで持ち上げた。
「で、自分はいま何をしてるって?」
「匡平くんと仲良くお茶してる」
「仕事はどうしたよ?」
「何だ、おまえに心配してもらわなくたってこの僕がミスるわけないだろう?」
 兄思いだなぁと祝嗣が嘯く。イヤな余裕に満ちた笑い。
「誰がだよ」
 つかんでた体を思い切り突き飛ばしてやろうかと思ったところで、祝嗣の手が英嗣の手首をギュッとつかんだ。
「ほら、匡平くんがビックリしてるよ」
「挑発したのはアンタの方だろ」
「云っとくけど、元はおまえが蒔いた種なんだぜ」
「ああ?」
 急に小声になった兄弟の応酬に、匡平は肩をすくめて戦局を見守った。これでもかとミルクを入れたコーヒーを一口啜る。
「どういうことだよ」
「先週の日曜、あんなカワイイ声聞かされたら興味持ってもしょうがねーよなぁ?」
「…っぐ」
 先週は確かにこちらの落ち度だ。頭に血が上ったおかげで、すっかり隣りの部屋のことなど忘れてコトに及んでしまった。
 余裕なく責め立てて何度もイカせて、泣きながら「もうイヤ…」と云われても許さなかった。鳴かせ続けた。自分でも何度イッたのか覚えていないくらいだ。
「おまえをそこまで心酔させるなんて、興味深いじゃねーか」
「手ェ出すなよ」
「いまんところはな」
「てめェ…」
 英嗣の意識が一気に戦闘体勢に入る。だが。

「待てよ」

 殴りかかろうとした英嗣を止めたのは、いつのまにか近くに立っていた匡平だった。
 ひどく真剣な顔をしている。
 だがそこに、英嗣を責める色合いはなかった。
「俺、おまえの部屋行ってていいか。再放送はじまっちまう」
「……ああ、ドラマね」
 たかがドラマにその顔ですか? 云われて見ると確かに、匡平がいまハマりにハマっているドラマの再放送時間が差し迫っていた。急に気が削がれる。
「すぐ行くから先上がってろよ」
「ラジャ!」
 憎めない背中を見送り、英嗣は大きく息をつくと改めて兄に向き直った。
「とにかく邪魔すんなよっ」
「匡平くんって大物」
 堪えきれないようにクスクスと笑いながら、祝嗣が肩を震わせる。
「苦労すんなぁ、おまえも」
「放っとけ」
 英嗣の心底不機嫌そうな顔を、祝嗣は愉悦に満ちた思いで眺めた。



 匡平に続き、コーヒーとお茶菓子を手にリビングを出ていく弟の背を見送る。
「なるほどねぇ」
 時刻は午後三時を少し回ったところだ。
 今日の依頼人の家はここから歩いて五分の距離だ。まだ余裕がある。
 今朝方外したまま、リビングのテーブルに放置されていた腕時計を左手にはめると、祝嗣は床に落ちていた水色の封筒を拾い上げた。
 咄嗟の思いつきの割りには成功した方かな。出来ることならもう少し、匡平と話をしてみたかったが。翌日が休みの日にはほぼ百%の確率で匡平がこの家にやってくることを祝嗣はずいぶん前から把握していた。
 正直、あんなに美人だとは思わなかったな。
 間近で見た匡平のイメージを反芻しながら、祝嗣は思わず頬を緩めた。
 英嗣の傾倒ぶりがまた笑えるところだ。
 利かなそうで、気紛れで、そのくせヘンなところ純真で。人見知り激しくて心を許した飼い主にしか懐かない、血統書つきの猫みたいだ。
 加えてあの色気はなんだ。ノーマルの男でさえむしゃぶりつきたくなるような濃密な色気が、視線や仕草の端々ににじみ出ていた。それを組み伏せて鳴かせて、快楽の海に頭から浸かることができるんだとしたら。そりゃ心酔したくもなるだろうよ。
 めずらしくあの英嗣が、いまは守るので必死なようだし。
「面白れーじゃん」
 弟にチョッカイをかけるのは、祝嗣の昔からの生きがいの一つだ。
 しばらくは退屈しなくて済むだろう。


 そんな兄の傍迷惑な思惑と、手のかかるカワイイ恋人の間で。
「やれやれ…」
 英嗣はなんとも複雑な溜め息をついた。


end


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