真冬のパラソル



 夢の終わりを意識することなく、現実の端を握り締める。


 どこからが始まりで、どこまでが終わりだったのか。
 それともココはまだ夢の途中? ぼんやり開いた視界にアイツの姿はなくて。もしくはあの夢こそが現実だったのかもしれない。馬鹿げたことだと頭では思いつつ、100パーセント信じ切れない自分が南は怖かった。いくら否定しようとしても胸の中のどす黒い海が次々と言葉を呑み込んでしまう。守りたいと、失くしたくないと心から思った全てが夢の中。だとしたら自分は、いますぐあの夢に戻らなければならない。
 隣りでアイツが笑ってくれてる、あの幸福な夢の中に…。
 手の中にある馴染んだ感触。それをいくら引っ張っても返る応えはなくて。
「クラヌキ…?」
 震える問いに返る声もない。
 溢れた涙が頬を伝った。それを両手で拭いながら、もう一度だけ名前を呼ぶ。
「トオル……?」
 ヒーターの稼動音だけが部屋を満たしていた。窓ガラスの向こうはもう夜に近い。冬の日没はあっという間だ。さっきまではあんな明るかったのに。急に何かに取り残されたような気分を味わう。そして何か取り返しのつかないコトをしてしまったような不安感。室温は窓ガラスが曇るほどに暖かい。なのに寒くてしょうがなくて。一人きりだと思うと余計、涙が止まらなくなった。


 どんなに世界が暖かくても。
 どんなに幸福に回ってようとも、アイツがいなきゃ何の意味もない。


 ある日学校に行くといつもの場所にアイツがいなくて、いくら待っても誰も来ないからたまたま見かけたヤツに声をかけてみたんだ。
「ねぇ、倉貫知らない?」
「誰そいつ?」
 誰に訊いても答えは同じで、何処に行ってもあの影はなくて。
 怖くて怖くて堪らなかった。いつもと何一つ変わらない日常がそこにあるのに、アイツの姿だけが何処にもないのだ。それだけで何もかもが異常に思えた。ただ怖くてしょうがなくて。いても立ってもいられなかった。涙が止まらなかった。
 泣きながら歩くうち辿り付いたこの部屋に。
 置き忘れてあった臙脂色のタイ。
 まるでそこだけ消去し忘れた、間違った構文か何かのように。



 意識はそこからいまに続いていた。
 止まらない涙と、掴み締めたタイと、一人きりの教室。
 知らない間に世界は終わってしまったのかもしれない。こんなにも空虚で寂寞に満ちた空間を他に知らない。これが夢なら覚めてしまいたいし、これが現実だというのなら、いますぐあの夢の中に帰りたい。返りたい。還りたい。
 神頼みなんてただの気休め、いつもそう笑ってたのに。
 無力を無力と認めてしまうのは、なんて怖くて勇気のいることなんだろう。縋れるものなら何でもいい。例えそれが神でも仏でも、悪魔の誘惑だったとしても。
「ダレカタスケテ…」
 SOSは誰にも届かない。掠れた声にコンティニューを託すと、南はタイを握り締めたままもう一度きつく目を瞑った。



 ヒーターの稼動音。どこかに繋がった意識がまた覚醒する。
 ココは何処? また夢の続き?
 手の中にはまだタイの感触がある。また一人ぼっちなんだろうか?
 けれどそれを優しく否定したのは、文庫本をめくる柔らかい紙の音。開いた視界の先、フーコーに目線を落としたまま紫煙を燻らせている倉貫の姿があった。少し曇った窓ガラスの向こう、空にはまだ夕焼けが棚引いている。南の覚醒に気付いた倉貫がローテーブルの灰皿に煙草を折った。
「どうした?」
 訊ねてきたその声があまりに優しくて、また涙が止まらなくなる。
 しゃくりあげ始めた南に眉を寄せながら倉貫が立ち上がった。その首元にタイはない。
「なんで…俺がタイ持ってんの…?」
「ああ? てめえがあんまり引っ張るから解いたんだろ」
「…倉貫のバカ…ッ」
「なんで俺がそこで罵られんだよ」
 こんなモノ握ってたから、いつまでも悪い夢が覚めないんじゃないか。
 おまえがそばにいないから。髪を撫でてくれないから。抱き締めてくれないから。
「倉貫のバカ!!」
「……あーも、解ったっつーの」
 子供のように差し出した両手を、倉貫の腕が優しく掬い上げてくれる。南は広い背中に両手を回してしがみついた。
 孤独で真っ暗だった海に、いまカラフルなビーチパラソルが立った。耳を澄ませば波間ではしゃぐ子供たちの声すら聞こえてきそうな気がする。
 まるで常夏の海。暖かくて、笑顔に満ちてて。ココでは誰も世界の終わりなんて信じてない。
 ちぇ、真冬に真夏の海を連想させられるとは全くの不覚…。
「ワイキキなんてありふれてる! せめてタヒチ!」
「だーから何の話なんだっつーの」
 呆れた声音を吹き込みながらも、抱き締めてくる腕の力が緩むことはない。
 この腕がなければ生きてる意味なんてないと思った。自分にとっての世界が回る意味、それが倉貫にとってもそうであればいいのに。
 爪先立って、近づいた頬にそっと口付ける。胸の中の願いをありったけ込めて。
「スキ…ダイスキ…」
 涙で濡れた頬を温かい頬に押し付ける。
「ねぇ、倉貫は?」
 耳元で囁くように言葉を紡ぐと、同じような囁きが耳元に返った。
「ったく、何回云わせりゃ気が済むんだよ」
「だって何万回でも聞きたいんだもん」
「…仕方ねえから死ぬまで云い続けてやる」


 始まりがあるから終わりがあって。
 終わりがあるからいまに意義が見出せるんだ。
 いつかこの繋いだ手を離す時が来たとしても…そんな日、永遠にきてほしくなんかないけど。でももしそんな日が来たとしても、いまを後悔したくないから。


 ドウカ、コノ手ヲ離サナイデ


 耳元で繰り返される甘い囁きに深い陶酔と眩暈を感じながら、南はまた新たな涙を溢れさせた。大好きって気持ちを表す最上級の言葉があればいいのに。
「南」
「…なに」
「まだ寝足りないんだろ」
 倉貫が自分を誤解している、と思うのは例えばこんな時。自分が拗ねたりグズったりするのは睡眠不足か空腹に必ず端を発していると思っているのだ。まあ、あながち間違ってもいないんだけど…。回された掌がトントンとリズミカルに背中を軽く叩く。まさか体性感覚反射で寝かしつけようとかしてないよな?
「腹減ってんならコレでも食っとけ」
 そう云って倉貫のポケットから差し出されたモノを見て、南は思わず満面に笑みを浮かべた。このタイミングでこんなモノ出してくるからホント侮れないって思う。
 真冬のパラソルもなかなか悪くない。倉貫からもらったチョコを握り締めながら、南は背伸びして今度は唇を重ねた。


「ん…ぅン、んん…ッ」
 長いキスに堪え切れず。
 南の手から、パラソルチョコが落っこちた――。


end


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