数に溺れて



 1〜100まで貴方のことばかり。
 なのに、ひとつ順番を間違えただけでこんなにも深い海に溺れてしまうの?


 インターホンを押す。ややして中から出てきたのは八重子ではなかった。
「いま取り込み中だから。どうぞ、入って」
 日向がいるなんて聞いていない。
 その場で立ちすくんでいると、楽しそうに日向が笑った。
「帰ろうか、僕」
「……いえ。あの」
「入って。じゃないと、僕が八重子に怒られる」
 大きく開かれた扉から中へと招き入れられる。
 姉も両親もいま出かけてるの、そう云っていた八重子の言葉通り人の気配の希薄な家だった。日向について二階の八重子の部屋へと通される。ここに入るのはこれで二度目だ。白と青を基調にした室内。
 カーテンの鮮やかな青が目にしみる。こないだきた時にはなかった窓際の花瓶に、カサブランカが活けてあった。白く清楚な花びら。八重子のイメージであると同時に、日向の姿をも連想させる花。
「僕が持ってきたんだよ、昨日」
 そう云って日向が笑う。もうすぐ八重子も戻ってくるから、と勧められるままに二人がけに腰を下ろした。そう。先輩、昨日からいるんだ。嘉納先輩、知っててあたしを呼んだんですか? どうして…。
 向かいに座った日向がリモコンのスイッチを入れる。部屋の隅のテレビに、パッと外国の風景が映し出された。
 青みを帯びた画面。静かな佇まいの風景が続く。
「このあいだオーストリアに行ってきたんだ。これはその時の。これを見せる約束してたんだ、昨日」
 画面を見つめる日向の横顔。スッキリとした端整な面立ちだ。紳士的な立ち居振舞い。その裏に隠された利己的なサディストの一面。きっとそんなところも八重子にとっては魅力なんだろう。
 好きな人が好きなヒト――。
「そんなに見つめないでよ」
 視線は前に向けたまま日向が呟く。慌てて視線を逸らすと、今度は日向の視線を自分の横顔に感じた。注がれる注視に耐え切れず目を瞑る。
「前見ててください、先輩」
「キミがこっちを見てくれたらね」
 目を開けるとすぐそこに日向の端整な顔があった。
 ダメだ。このままじゃいけない。一瞬で身を固くする。その緊張を破るように、背後でコツン…とノックの音が響いた。
「陰性だったわ」
 八重子が開いた扉を背に立っている。すっと筆で書いたような眉に涼しげな目元。薄い唇。読めない表情。
「よかったね。それともちょっと残念?」
「子供が子供を生んでもしょうがないでしょ」
「それはごもっとも」
 笑いながらごく自然に日向がそばを離れた。画面では依然、青い風景が続いている。古い教会。天辺には大きな鐘がついてて、ちょうど厳かにその鐘が鳴り出すところだった。高く、重く響く正午の鐘の音。
「いらっしゃい、若菜」
 そう云って先輩はあたしの隣に腰を下ろした。


 なんでこんなことになってるんだろう。
 日向と八重子と三人で。並んで映画を観てるなんて。ヘンな感じ。もともとは八重子が前々から薦めてくれていた映画を二人で観る予定だった。ううん、もしかしたら始めから二人ではなく三人だったのかもしれない、先輩の中では。
 あたしが勝手に二人だと思い込んでただけで。
「若菜も気をつけなさいね。この人、油断がならないから」
「ひどいな。僕がまるで悪党のような云い方じゃないか」
「え、違うんですか?」
 思わずそう尋ねると、日向が楽しそうに声をたてて笑った。フフ…という八重子の忍び笑いも聞こえる。なんだか居たたまれなくなる。
「好きな子には気をつけるよ、それこそ細心の注意を払ってね」
「あら、そうでない子にこそ気を遣うべきでしょ」
 痛い会話。この二人いつもこうなの? それとも、あたしがいるから? ひどく落ちつかない。
「ねえ。帰らないでね、若菜」
 気配を察したのか、八重子に先回りされて釘を刺される。ハイ、と応えると八重子の冷たい手がそっと重ねられた。背筋をゾクリとしたものが這い下りていく。背徳の記憶とその感触。トクトクと心臓が脈打ち始める。
 この人、あたしを殺す気なんだわ。いつか絶対この人に殺される。あたし、その日を待ち侘びてるのかもしれない。ずっと、いままでずっと。この冷たい手が首にかかる日を夢に見ている。
「あたしたちも気をつけましょうね、若菜」
 含みを持たせて八重子が呟く。
 冷えた手で心臓をつかまれたような心地。たまらない。
「女の子はね、自分で自分を守らなくちゃいけないよ」
 いつも柔らかな笑みを絶やさない日向がどこか諦めたような口調で云った。妙な実感を携えて。深い傷。お互いもう逃げられないんだ。落ちれば落ちるほど、もがけばもがくほど絡みつく糸。張り巡らされた罠。
 いったい蝶は誰だったんだろう。あたしの隣りで薄く微笑むのが蝶? ううん、きっと違う――…。
 どこからが罠でどこまでが策略だったのか。どちらにしても、もう遅いんだわ。首まですでに浸かりきってるもの。

「41は?」
「セリフの中にあったよ。41番カタモール通りの橋のそばだ、って」
 映画中に散りばめられた1〜100までの数字。
 現状も忘れて、いつのまにかそれを追いかけるのに夢中になっていた。
「51もセリフですか?」
「うん、51得点…ああ、52もそう。52年の夏、脳天を強打し昏睡」
 めくるめく数字の世界。確実に繋がっているのに見えない、いくつもの数字。
 物語は1〜100へのカウントを完璧に遂げて、終焉を迎える。だが観る者には抜け落ちた未完成な感慨だけが残る。そしてそれを埋めようと再び物語をリピートしてしまう。何度も何度も。繰り返し、繰り返し……。
 そうして溺れていくのだ、膨大な数の海に。
 順番に気持ちを並べていきたいのに、どうしても欠けてる数字がある。そこを埋めようと躍起になってたらいつのまにか持ってた筈のピースさえ行方不明。途方に暮れる。ヒタヒタと次第に水位を上げる思い。
 じきに息も継げなくなるでしょう。
 1〜100まで貴方でいっぱい。

 途中、席を立って二人のそばをわざと離れた。確かめたいことがあって。
 そっと足音を忍ばせて戻ると、開いた扉の隙間から中を窺う。カーテンを引いた薄暗い部屋の中で、日向の手が八重子の髪に触れていた。重なる唇。ねぇわざとでしょう、先輩たち。
 水が音をたてて渦巻き始める。嫉妬。触らないで。その人に触れないで。
 ……で、どっちに云ってるのそれ? 自問自答。知らなければよかったのに、こんな気持ち。

「いけない、振り込みがあるんだったわ。行ってくるから待ってて」
 そう云い残すと、今度は八重子が席を立った。再び日向と二人部屋に取り残される。先輩、振り込みなんて嘘なんでしょう。この人とあたしを残していかないで。触れられたら抵抗できない。
「さっきの見てたんでしょう」
 ほら、顎をすくいとられても身動きできない。先刻、貴方に触れてた指があたしの頬をそっと包む。好きな人が好きなヒト。好きな人が好きなモノ。なんでも欲しがる貪欲な欲望。自業自得。溺れていく。
 一度目のキスは貴女との間接キス。冷たく優しい貴女を思う。二度目のキスはこの人とのキスだ。初めて、目の前のこの人を思う。柔らかくどこまでも酷薄なこの人を思う。
「つける?」
「…つけてください」
「どうしても?」
「先輩ッ」
「八重子はね、つけなくても妊娠しないカラダなんだよ」
 耳元で囁かれながら、濡れた隙間をなぞられる。悪魔のような人。泣き始めてもやめる気配はなく、しばらくして先輩があたしの中で弾けた。薄いゴムだけがあたしたちの間を阻んでくれていた。

 好きだとか嫌いだとか、もうそういう次元の話じゃないのかもしれない。
 どこで何を間違えたんだろう、あたしたち。貴女となら溺れてもいいって、思ったのは本当。でも、このままじゃあたしたち確実に。


 いつか溺れ死んでしまうわ…。


end


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