嘘をつく唇



      その唇は嘘をつくから。


「おら次、移動だぞハル」
 乾いた音を立てて開いた扉が、続けて二回ノックの音を立てる。
「フツウ逆じゃない?」
「どうせどのタイミングで開けたって取り込み中なんだろ?」
「ま、そりゃそうだけどさー」
 あと一センチ、下にずれてれば成立するキス。脱がされかけた服の中ではガタイに合わせた太い指が親指と人差し指とで乳首を摘んでた。そういえば今週は愛染サンの数学だったっけ。忘れてた。出ないとあのヒト、理不尽な怒りに燃えるからなぁ。
「ゴメンね」
 吐息に軽く謝罪を入れて、覆いかぶさった体の下から抜け出す。
「…先輩。俺のチョー臨戦状態なんスけど」
「ん、倉貫が待ってくれればクチでしてあげてもいーんだけど」
「待つと思うか?」
「だってさ。だからほんと、ゴメンね」
 チラっと赤い舌を見せて僅かに首を傾げてみせる。
 我ながらすげーブってるなァと思う仕草。80年代のアイドルかっつの。なのに天草ときたら慌てて目を逸らすと少しだけ頬を赤らめて頷いて見せた。あらあら、効果発揮しちゃった。カワイイね、年下は。
「また機会があったらね」
「俺、明日もココで待ってます」
「それはムリ。明日も僕の気が向くかどうかなんて解らないでしょ? だからまた」
 台詞の意味に気付くのなんかずーっと後でいいからね。
 しばらくは僕のこの笑顔でも目に焼き付けて一人でヌイててよ。そのうち、今度はちゃんとキミに食べられてあげるから。
「またのお楽しみ」
「ちぇー」
 片手で服装を正しながら、そこらへんに脱ぎ捨ててあった上履きに足を通す。
 イスの背にかけてあったジャンパーを羽織ると、僕は倉貫が押さえてた薄い扉の隙間をくぐった。
「お待たせ」
「ホントにな」
 開いた時と同じくらい、背後で乾いた音を立てて扉が閉まる。
「いまの一年?」
「ううん、中学生だって。最近のコは発育イイよねー」
「で、ついでにあっちの発育も調べてあげようって話か?」
「そんな感じ」
「…阿呆か」
 ほんの三十秒くらい前まで、シツコイくらい首筋を這い回ってた感触がまだ肌に残ってる。んー、思い出すとまた授業サボっちゃいそうなんだけど。いけない、いけない。平常心。ジャケットの胸ポケットから取り出したメガネで広がりかけた視界を目の前のことだけに限定する。赤とオレンジの中間みたいな鮮やかな発色のプラスチックフレーム。
 観月とメガネ買いに行ったらほとんど押し売りに近くこの色のフレームを買わされたんだけど。そういえば今日でもう三ヶ月経つんだな。みんな意外に「似合うね」って云ってくれるコトを考慮すると、観月の審美眼もなかなか捨てたもんじゃないのかな。最初はテメーの趣味、押し付けやがってって思ってたけどね。
 思惑通り、ズレた先の思考をずるずる辿りながら廊下を進む。11月ともなるともうほとんど冬。寒さに弱い性質としては、真冬と呼んでも差し支えないと思うよ。だってほら、指なんかこんなに悴んでるし。
「倉貫、サムーイ」
「あー?」
「ね、すっごいサムゥーイ」
 三回ほど繰り返したところで、今日はめずらしく先に倉貫が折れた。首にかけてたマフラーをこっちの首に緩く一巡させてくれる。あ、暖かい。倉貫の体温だ。
 首筋の感触なんてもうとっくに頭から消えてた。懐かしい温度。
 倉貫と最後に寝たのっていつだっけ?
 確か、一年の終わりぐらいだったと思うけど。覚えてるのは暗いどっかの準備室ン中。終わって着替えてるところを南に見られて。それから倉貫は僕を抱かなくなった。
 あの日を境に倉貫は僕のセフレから足を洗ったんだ。イチバン気の合うセフレだったんだけどね。
「観月は?」
「早退した。知り合いのライヴに行くんだとよ」
「ちぇ、逃げたなー」
 そういえばさっき天草にも聞かれたけど、僕が観月と付き合ってるってウワサどっかで流れてんの? まず間違いなくありえない話なんだけど。だってアイツ根っからの女好きだし。あ、でもキスはしたことあるんだよ。アイツが泣いた時に一回だけね、したことあるんだ。中三ン時の話だけどね。
 不在看板の保健室を通り過ぎて、このまま真っ直ぐ行けば会議室の大扉に突き当たる。愛染の数学理論といえば専ら和室の「竹」使用だった。会議室前にある階段を下らずにもう少し奥に進むと、突如、左手に和紙を張られた引き戸が現れる。その控えめな木戸を開けると今度は幾つかの襖が慎ましやかに並んでて、それらはそれぞれ左から「松・竹・梅」の和室へと繋がっていた。確か前の時間、「竹」はどっかのクラスが毎週HRに使ってるはずだから、この時間こんなところを歩いてたりすると前の時間の和室組と擦れ違うのは必至ってわけで。
「よう」
 出会い頭に急に声をかけられて、ビクンっと面白いぐらい跳ね上がった体が慌てて切敷の背後に隠れた。僕よりほんの少し低い位置、切敷の背中からヒョコっと顔だけ出して南が倉貫の方を窺う。用心深い羊のようだと思う。つっても、ぜんぜん的外れな用心なんだけどね。
「…何だよ」
「聞いてないのか? こないだのゼミテスト、俺のが上だったらしいぞ。ご愁傷さま」
「ウソ!」
「嘘じゃねーよ。結果表、見てみろや」
 ヒラヒラと差し出された白い紙にふらふらと羊が誘き出されていく。まさにオオカミと羊の関係だよな。食う者と食われる者。あれだけ食われてまだ懲りてないところを見ると、この王子様はちょっと脳ミソが足りてないのかもしれない。もしくは。
 ま、僕の関知するコトじゃないけど。
 階段の暗がりに連れ込んだ細身を倉貫が両腕のサークルの中に閉じ込める。見た目まんま口説いてるみたいだけどね。一枚の紙を挟んでギャーギャーと色気もへったくれもない応酬に明け暮れながら、そうして密かに今日の逢引場所を決めているのだろう。
 今日は水曜日だから。
 視線に顔を上げると、表情の乏しいメガネが壁に背を預けこっちを見てた。
「微笑ましい光景だよね」
「かなり穿ったモノの見方だがな」
「なに? 何か云いたげだよ」
「首、ついてるぞキスマーク」
「ああ、天草くんのかな。ついさっきね、ちょっとだけ遊んだんだ」
「今日の心当たりは一人だけか?」
「ウン。おかげさまで」
 機を逃さすニッコリ笑ってあげると、興味なさげな視線がスイと横にスライドした。
 密約の算段はまだつかないらしい。賑やかな応酬が階段ホールの高い天井に妙に響いてる。ねえ、倉貫イイカゲンにしたら? 毎週ヤることは同じなんだからさ、最初からどっか一ヶ所に決めとけばいいんだよ。ヘンな意地、張らないでさ。
 イライラする。この視線。
「僕、先行くね」
 どうせ、こっちの声なんか聞こえちゃいないし。
「どいて」
 狭くなった通路を渡りかけたところで、切敷の右足がその先を塞いだ。
 薄いメガネの奥から真っ直ぐに見下ろしてくる怜悧な眼差し。
「何? まさか誘ってるの?」
「さあ。ご想像にお任せするよ」
「それともさ、ケンカ売ってる?」
「どうだろな。買いたければ売らないコトもないが」
 埒が明かない。腰の高さまで上がった足が作り出す壁。ただそれだけなのにイヤな威圧感、持ってる壁。
「ね、どいてよ」
 笑みを深くして首を傾げてみせる。
 ねえ、お願いだから早く。そこをどいて僕を行かせてよ。
 扉の向こう側へと僕を逃がしてよ。
「お願いだから」
 早く…。
 聞き慣れた足音。パタッ、パタッてだらしなく踵を引き摺る音。そしてその隣りで鳴ってる細いヒール。先週からはずっとこのヒールだな。
「あれ、晴季?」
 すぐ後ろまで迫ったそれが声と共に僕の頬をフワリとくすぐった。暖かい掌。寸前まで女の肩に乗せられてただろう掌。その数時間前まではきっと女の胸を撫でていただろう掌。
「エイジ」
 振り向けばたぶんあの視線がある。
 熱っぽくて、見つめられただけで妊娠しちゃいそうな、そんな錯覚まで起こす。あの強い瞳。
 逆らえない引力。でも迂闊に近づこうもんなら即座に殺される。酷薄な唇に。
 引き金は一瞬。
「よ、男殺し。ザーメン足りてる? 今度は中坊タラシこんでるってな」
「さすがに情報早いね」
「そりゃ、他でもない晴季のことだからね」
「あれ、少しは気にかけてくれてるの? 嬉しいなぁ」
「馬鹿な幼馴染みを持つと苦労するって話」
「あ。ソレそっくりそのまま、お返ししていい?」
「ウ…痛いそれ。うわ、イタイイタイそれ!」
 云いながらゲラゲラと栄治が腹を抱える。隣りで馬鹿な女が「ねえ、何の話ー?」と甲高い声をあげた。あーほんと馬鹿だね、この女。
「うるせー、黙ってろブス」
 笑いながら吐かれた台詞がその場に冷たく置き去りにされる。
 階段下の応酬を掻き消すぐらい一人で笑い狂ってから、栄治が「あーあ」と溜め息のようなものを吐いた。後ろからクシャクシャと髪の毛を掻き回される。
「カワイーな晴季。こっち振り向けもしないのか」
「あーゴメン、ついうっかりしてた」
 くるりと回っていつもの笑みを見せてあげる。意識しないでも口角が上がってた。
 ほら、笑える。ぜんぜん大丈夫。
「切敷にすっかり見惚れちゃってたよ。ゴメンね」
「また気狂いじみたメガネかけてんな。盛りのついたメス猿みてーだぜ?」
「そーゆう栄治の発情期もホント長いよね」
「俺は種の保存、繁栄のためよ」
 あ、終わった。会話これで終わりだ。
「バイバイ」
 きょとんとした顔でその場に忘れられてる女に手を振ってやる。「ウソ待ってよッ」と甲高く叫びながら細いヒールが慌てて階段を下っていく。なんかまだ栄治の匂いがそこらへんに残ってる感じ。切敷、殺してやろうかと思った。
「逃げてなんか解決するわけ?」
「少なくともキミには関係ないよ。そんなに口出ししたかった?」
「たまにね、メロドラマ見たくなんだよね。サンキュ。けっこう楽しかった」
 脚の壁が消える。ホント殺してやりたいって思うよ。
 ねえ、そんなトコでいつまでも生き恥晒してるぐらいなら、いっそのこと僕が殺してあげようか? いますぐに一突きで。一瞬で。死ぬほど苦しませて逝かせてあげる。
 でも大丈夫。こんなコトくらいじゃ僕の口角は下がらないから。
「いーよ、キミが望むならいつでも見せてあげる」
 極上の微笑みで瞳を細めるとメガネの奥で切敷が嘲笑った。
「勿体無い話だな」
「もう慣れてるからね」
 何が、なんて切敷は聞かない。僕も云わない。
 相変わらず階段下の云い合いはまだ続いてる。もういイイカゲン見捨てるよ? チャイム鳴るよ? 知らないからね? 纏わりつく視線を引き戸で断ち切る。


 勿体無い? 知った風なクチ利くね、キミも。
 だってイチバン欲しいものが、どうしたって手に入らないなら仕方ないじゃないか。もう何にも欲しくないよ。自分だって惜しくない。イラナイ。何にもイラナイ。こんなカラダなんか消えてなくなっちゃえばいい。
 キレイだねって云われる顔立ち。
 ずっと触ってたいとか云われるクセのない髪。
 一度でいいからキスしてみたかった、そう皆に評される唇。
 ねえ、どれもイラナイよ。アイツに望まれないんならまるで意味が無い。
 だから欲しいヒトがいるんならいくらでもあげる。タダでいいよ。
 欲しいだけ、望むだけ、好きなだけ切り取って貼り付ければいい。どこにでも。
 take free. ご自由にドウゾ。
 あのね。そうやってもう何もイラナイって云ったらね、神様が一つだけ僕にくれたものがあるんだよ。軽蔑という名の眼差し。
 アイツから僕に送られる唯一のモノ。
 それさえも大事に胸にしまおうとかしてる僕ってすげー可愛くない?
 栄治は頭いいから、どんなふうに使えばどの凶器がイチバン効果的か。
 誰より知ってる。
「ホモは好かないから性転換しろよ。なら、ちっとは考えてやる」
 女でなければ意味がない。栄治にとっては恋愛もセックスもそういうもんだった。
 男である僕に初めから用なんてなかった。
「ホモなんて死んじゃえって、な?」
 悪い。そこまでの勇気、僕にはなかったし。
 それに至るほどの妄執は持ってない。残念だったね、栄治。
 でもおまえがつけた傷はちゃんと生傷になっていまも新鮮だよ?
 それで満足?


 本当のことを云ってもしょうがないんなら、僕はもう二度と真実なんか云わない。
 嘘しか云わない。嘘しか云えない。


      そう、それはとても臆病な唇。


end


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