カゴの中の傾向と対策



 いつも、目で追いかけてた後ろ姿――。
 誰もいないはずの教室に彼を見つけたのは偶然だった。


 ひとり空を見上げる背中に近づいていくと、気配に気付いてか設楽が振り返った。
 よう、と片手をあげる。冬休み中。ガランとした学校はまるで空っぽの鳥カゴみたいでなんだか物悲しい。そう云うと設楽は「詩的だな」と笑って目を細めた。紫煙を燻らせながら、机に乗せてた脚を窓枠に向けて伸ばした。
 最終バスは先ほど行ったばかりだ。
 休み中、最後のバスを逃してまで校内に残る者が自分以外にいるとは思わなかった。
「雨、降るな」
 そう云われて見上げた空には、どんよりと重い雲が立ち込めていた。
 開け放した窓から腕を伸ばして長い灰を下に弾き落とす。吹きつけてくる冷たい風が微かな煙草の匂いを鼻元まで運んできた。真似して同じ銘柄の煙草を吸ってたこともある。橘には似合わないよ、と云われてあっさりその日の内にやめた。あれから煙草は吸ってない。
 窓際の机に腰掛けて、設楽はぼんやり外を眺めていた。
 照明の落ちた教室。灰色に塗り潰された室内に、やがてサーっという雨の音が響き始めた。風に煽られた雨粒が窓ガラスにあたってパシンと砕ける。冷たい風にヒタヒタとカーテンが揺れた。
 こんな時間まで何やってたの? 喉元まで出かかっている言葉を声にできない。
 めずらしいな、設楽がひとりでいるなんて。
 アイツ、待ってたの?

 雨音だけが室内を支配する。見慣れてるはずの黒板や机、立ち並ぶロッカーがなぜかよそよそしく見えた。
 カチカチと秒針を進ませる時計。あれは五月の学年球技大会の時、バスケで設楽が手に入れたものだ。よくそんなに、と思うほどの3ポイントを決め決勝で二組を下した。吉永のパスがよかったおかげだよ、と設楽は笑った。
 同じクラスになれたらいいって、ずっと思ってた。
 でもクライメイトがこんなにツライものだとは思ってなかった。
 そばによって、同じように空を眺めてみる。彼が見てる景色を、目に焼き付ける。
 呼吸音がすぐ近くで聞こえて、左胸から溢れ出した切なさが指先にまで浸透してくのが解った。
 激しい雨風に白く煙った空気がうっそりと目の前を流れていく。
「こんなんじゃ外、出れねーなァ」
「……うん」
 昇降口でポンと咲いたいくつかのカサが、そのまま中央階段を下っていく。
 白に滲む赤と青。その後ろを追いかける水色のストライプ。だがそれも水煙に紛れて、すぐに視界からドロップアウトしてしまう。静かな校内。静寂が耳奥でエコーしている。まるで誰もいないかのような。
 世界中で二人きりになってしまったかのような、幸せで残酷な妄想。
 設楽が吸い終えた煙草をベランダの据え付け灰皿に向けて弾いた。縁にあたった吸殻がそのままベランダのコンクリへと着地する。水溜りがジュッと音を立てた。
「ああ、また吉永に怒られちまうな」
 拾おうとした僕を制して、設楽が立ちあがった。ベランダに出てひょいと吸殻を拾い灰皿に捨てる。
 そういえば設楽が煙草を吸うのは久しぶりに見た気がした。嫌煙家の親友のおかげだろうか。胸の一点にどす黒い染みが一つできる。それはじわじわと広がって、僕の幸福な世界を侵食していく。息苦しくて、顔を伏せる。汚い感情がどこからか沸いてくる。自身を傷つけるだけの棘だらけのエゴ。血だらけの感情。剥き出しの心。

 雨に濡れるのも構わず、設楽は手摺から身を乗り出して外を見ていた。
 そこから何が見えるの? 何を見ているの?
 隣りに行きたい。そこがすでに誰か他の人の場所であったとしても。同じものを見て、同じものを聞いて、同じことを感じていたい。
 それは願ってはいけないコトなのかもしれない。
 許されない感情。身勝手な欲望。誰かを不幸にして得られる幸福になんて価値があるんだろうか。
 偽善だと云われても、キレイ事だとハナで笑われても。自分が納得できないんだから仕方ないじゃないか。
 いつまで自分を蔑ろにしてれば気が済むんだ? 自分を台無しにしてて楽しいか? 
 そう訊かれても何も云えなかった。マゾだな、おまえ。そう云って嘲笑った友人の顔が忘れられない。それから妙に納得していた自分を、自分で嘲笑った。

「帰ろうか、橘」
 設楽に呼びかけられて、いつのまにか暗くなっていた周囲に気付く。ベランダから戻ってきた設楽の髪は雨ですっかり濡れそぼっていた。
 滴る水がタイルに水溜りをつくる。
「びしょ濡れだよ、設楽」
「ああ。雨に打たれたい気分だったからいいんだ」
 体育用のタオルをロッカーから出して設楽に渡す。悪いな、と云いながら設楽はタオルを受け取ってくれた。ガシガシと髪を拭きながら。
「橘の匂いがする」
 設楽が云った。設楽がタオルに視界を塞がれてるのをいいことに、僕はそっと涙を拭った。

 

 ひとつのカサで並んで歩く。
 路バスの停留所までの坂道を下りながら、すぐそこに在る夕暮れを感じていた。いつもはあんなに長いと思うのに今日はすごく短い道程。設楽の声がすごく近くて前ばかりを見て歩いてた。
 沈黙を雨音が埋めていく。触れ合う肩。吐き出された白い息が空中に融けていくのをじっと眺めてた。時折、重なる指と指。白い溜め息が顔のすぐ横を流れていった。
 らしくないね――。そう云うと設楽は、ただ黙って笑った。
 その果敢無い、淡い笑みを胸に閉じ込めて鍵をかける。対向車のライトが眩く辺りを照らし出した。
 いま、何を考えてるの?
 一瞬の感慨を残して車はすぐに走り去っていく。記憶のフラッシュバック。再び始まる感情の汚染。
 いったい誰を思うの?
 緩やかに下降線をたどり始めた心をなぞるように、サーっという雨音が強くなった。
 立ち止まりカサから外れる。頭から降り注ぐ雨が体を伝って地面に滴った。
 乾いた箇所がなくなる前に、設楽がカサを差し向けてくれた。代わりに設楽がまた頭から濡れる。
「橘は雨スキ?」
「……ウン好き。設楽は」
「俺も結構スキだな。なんか無条件で懺悔してるような気分になる」
 差し向けられ傾いていたカサを掴み元に戻す。頭上を覆うカサは僕らを雨から守ってくれる。けれど、雨に打たれなければ解らないことも世の中にはたくさんあるよね。また並んで歩きながら僕はさっきよりも設楽を近くに感じていた。寒くないと云えば嘘。寒いしツライ。正直、泣きたい気分。でも設楽を好きでよかったといま思ってる。
 同じことを思ってたんだね。


 バカげた懸想は記憶の底に沈めようと思う。このまま思い続けても設楽の中に僕は映らないから。
 アリガトウが六割で、サヨナラが三割。
 でもどうか、あとの一割には目を瞑って――。


 この道、このままどこまでも終わらなければいい…。


 声にはできない祈り、どうか誰も聞き届けないでほしい。
 いつか時に紛れて、切なさが失せるまで。
 キミに触れたがる手を切り落とし、その傷がすっかり癒えてしまうその日までは。


end


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