花月風



 待宵月は十五夜の前日、十四夜の月を差して云うのだという。
 こうしてみる限り正円にしか見えないあの月もまだ僅かばかり欠けているのだ。
 例え、傍からは完璧な満月に見えたとしても。


 真夜中に一人で月を見ていると、必ず思い出すことがある。
 夜祭りの帰り道、兄に手を引かれながら二人で歩いた家路。色褪せることのないその風景の中で俺は兄に着せてもらった浴衣を、兄はコットン地のシャツに細身のリーバイスを長身に着せている。夏祭りの夜、出店に行きたいと騒ぎたてる俺を見かねて外に連れ出してくれたのが長兄の務だった。
 放任主義もイイトコの家族の中で、ワガママを募らせる俺の世話を焼いてくれるのは決まっていつもこの兄の役割で、そうでもなかったら俺はあの家の中でもっと早くに子供らしさを失っていただろう。月明かりに照らされた帰途、目当ての景品を手に入れて満足していた俺は兄に向かって得意げにそのオモチャについての講釈を垂れ、兄はそれにいちいち相槌を打ってくれていたっけ。
「…………」
 ビニール袋に入った金魚や林檎飴を片手に、急に無口になった俺の心情を察したのか、兄の掌がポンと一度だけ俺の頭を叩いた。何処まで行ってもついてくるように見える月が怖くて、俺は兄の手をギュッと握り締めていた。それを強く握り返してくれたあの掌の熱さはいまも鮮明だ。
「大丈夫だよ、あの月はおまえが無事に家まで帰れるかどうか、見守ってくれているんだよ」
 その台詞と兄の手の暖かさが俺にどれだけ安堵を与えてくれたか、恐らくは云った当人の兄にすらそれは解り得なかっただろう。あの日、俺は月を怖がらなくていい理由を知り、それから兄という存在の大きさと意義を知った。俺が五歳、兄が十七だった頃の話だ。
 子供の疑問に一つ一つ解りやすいヒントを出し、次第に正解へと導いていくその過程がいかに難儀で面倒なモノであるか、最近の俺になら死ぬほどよく解る。
「なんで水前寺清子はチータって呼ばれてるの?」
 ツトム兄がどれだけ辛抱強く、かつ面倒見がよかったか、骨身に沁みる思いがする。
「……水前寺清子に聞いてこい?」
「んー、じゃあ機会があったら聞いてみるー」
 そんな機会があるのかオマエには、と突っ込んでみたいがそれが徒労に終わるのは目に見えた結果。思い返せば先日はアンパンマンについて延々と食堂で講釈を垂れられ、タイヘン難儀な思いをした覚えがある。だが南の場合、幼稚じみたテーマを扱っていても中身は意外に哲学的で、学術的だったりするからなかなか侮れないのだが。おかげで俺はアンパンマンが実は妖精であるという新事実を知り、バイキンマンの内心に抱えられた深いジレンマとに思いをはせる昼休みを送った。まあ、少なくとも一つは知識の引き出しが脳内に増えたというわけだ。むろんそれが実生活になんら有益な効果をもたらすものでないのは周知の事実だったけれど。
 物差しの尺度は違えど、何かに疑問を覚え懐疑の視点を持つ、というのは根源的に大事なことなんだろう。俺にその観念を与えてくれたのは紛れもなく長兄の言動だった。子供の他愛ない疑問に一つ一つ理由をくれたツトム兄を、俺はいまでもよく思い出す。
 兄と同じ年齢に達した今年は尚更のこと。
 いざその節目を迎えてみると何とも呆気なく、あの日の兄には遠く及ばない自分の不出来さ加減に正直、失望感を禁じ得ない。十八の年になれば自分も少しは大人になってるかと思ったんだけどな。それともあの完璧に見えた兄も、角度を変えて見れば欠けた部分があったんだろうか? いまとなってはもう知りようのないことだけれど。
 兄亡き後、俺は見事にあの家の中で捻じ曲がって育ち、自身をいくらでも満月と錯覚させるだけの術を心得てしまったけれど、兄のことを考える時だけはこんなふうに少し素直な気持ちになれる。俺はこの先も満月を見るたびに、いまはもういない長兄のことを思い出すのだろう。あの完璧なフォルムの向こう側に。
 夭折した兄が思い出の中で年を取ることはなく、十八を迎える自分はこれから日に日に年老いていく。兄と同じ年になれば何か見えてくるものがあるかと思っていたが、見えるのは自分の欠けた影ばかりだ。きっと幾つになっても思い出の中の兄を超えることは出来ないんだろう。


 そう、永遠の待宵月のように。


end


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