花月



 たぶん、いまこの手で掴んだのが「初嵐」
 その名を冠した花が咲くにはまだ早く、誰もその花の色を知らないけれど。
 俺は知っている。
 その花が潔癖なまでの純白をその身に秘めていることを。


 眠っていた意識を呼び覚ましたのはカタカタと打ち鳴る窓ガラスの音。やけに物悲しいそれに釣られるように寝起きの意識が幾分ロウに入るのが解った。
 和室での授業があったのは二限目だ。どうやらそれから二時間近くも眠り込んでしまっていたらしいことを携帯のデジタル表示が告げてくれる。それから液晶に浮かんだ黄色いメールアイコンの点滅。着信メールの送り主は南だった。水曜の選択授業だけは被ってないから、いつまで経っても教室に帰らない俺を心配してのメールなんだろう。サブジェクトは案の定「どこにいるの?」 
「…やっぱりか」
 未開封のメールをフォルダに収めたまま。俺は携帯の電源を落とすとそれをまた畳の上に転がした。
 親離れさせるには遅すぎたくらいだ。最も俺はアイツの親だったつもりは毛頭ないんだけど。ただ甘やかした覚えだけはやたらあったから、コレはせめてもの罪滅ぼしだろう。何かというと真っ先に俺を頼るのは悪癖なのだと早く南自身に気付いて欲しい。でなければあの帝王も気の休まる暇がないだろう。それは転じてこちらの身にも降りかかり兼ねない低気圧になる。それは御免被りたいところ。
「…………」
 気分がロウなのは、初秋の物悲しさによるものだとばかり思っていたが。
 引き戸の向こうからうっすらと聞こえてくる口論の片鱗に俺は思わず耳を澄ましていた。口論、というよりはどちらの声も明るく楽しげで雰囲気だけでいえば冗談を叩き合っているだけのようにも聞こえる。けれど、内容は恐ろしいぐらいに反比例。
「勿体ぶってねーでサッサと死んでくれよ」
「なら、エイジが僕を殺してくれる?」
 出るに出られない不穏な空気に、俺はジッとその場の風になることにした。ややして一人がその場を立ち去る音。けれどもう一人が動く気配はなかった。この場が無人になるまでは下手に動かない方がいいだろう。そう思って扉口に佇んでいるうちいつのまにか五分ほどが経過していた。もしや気付かぬうちにもう一方の人物も退散していたのかもしれない。薄く開いた引き戸の向こう、窺った先。そこにはまだ先客が佇んでいた。白い頬を一筋、涙に濡らしながら。
 伏せられた長い睫毛、落とされた視線はぼんやり廊下の線を彷徨っていた。軽く引き結ばれた唇。そこに笑みは浮かんでなくて。
「あーあ、涙なんてとっくに枯れたと思ってたのにな…」
 あの瀬戸内に笑顔以外の表情があるとは、不覚にも俺はこの時まで思ってもみなかった。
 柔和に弛ませた天使の微笑み。絶やさないその笑みの向こう側で、いつでも策略をめぐらしてる計算づくの小悪魔。たぶん演技での涙ならいくらでも簡単に、零コンマ何秒かで流せるだろう。そしてソレを切り札だと充分に心得ているはずだから。だから瀬戸内にあんな涙が存在するなんて。誰も、ユメにも思ってないだろう。あんな無防備な涙見せられて、正常でいられるはずがない。
「…あーあ」
 悪癖持ってるのはもしかしたら南じゃなくて俺の方なのかもしれない。なんでこーゆう厄介なヤツにばっか目ェいっちゃうかな。染み付いた習性ってヤツ? いい加減、世話焼き係は卒業だと思ってたのに。手荷物預けてようやく身軽になったと思った途端、またこーゆう代わりみたいの見つけちゃうし。たぶん、あーゆうタイプじゃないともう嵌まらないんだろう。厄介で、手に負えなくて、どっから手ェつけていいのか解んないぐらい屈折してて。そーゆうの解きほぐして、イチから手懐けて、依存心植えつけて。
 それが俺の性分なんだろう。
 薄く開いた戸の隙間から俺の唇を掠めていく秋風。初嵐が咲くのは来月に入ってからだ。霜月の綻びをいまから心待ちに俺はそっと扉を閉じた。


 真っ白い椿を、いずれ手折る決意を胸に。


end


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