風月



 あの日から僕は百舌になったんだ。
 自分の体を、手足を贄にして、それが風化していくのをただ横から眺めているだけ。いつ朽ち果てるか、いつ腐り落ちるか。それをじっと待っていたいんだ。
 それが僕のただ一つの望み。


 廊下ですれ違う時とか、校内でふいに顔を合わせてしまった時とか。同じアンテナが瞬時に働いているのが解る。向こうにツレはいないか、周囲にヒトはどれだけいるか、またそのメンツは? 全てをクリアした時点で栄治の口から吐かれる弾丸は驚くほど正確に僕のプライドを貶めてくれる。
「やっぱ晴季か。ザーメンくせーと思ったんだよな」
 すれ違いざま撃ち落された自尊心を「これでもシャワーは浴びたんだけどな」僕はもう一度拾い上げると埃をはたいて胸元に収めた。栄治が振り向かないのは知ってるから、僕も振り向かない。ニコリと口元に浮かべた笑みは誰のためでもない。自分のため。
「でも僕のために五日も溜めてくれてたんだって。ヤリたい盛りなのに、ムリさせちゃったかな」
「へえ、オマエのためってんなら心臓にナイフでも突き刺してくれた方がよっぽど人助けになったのにな」
「僕が死んだらエイジ泣くくせに」
「そりゃ感涙に噎ぶサ」
「でしょ? でも感動のフィナーレにはまだ早いんだ」
 あはははッ、と栄治が底抜けに明るい笑い声を張り上げる。可笑しくてしょうがないって感じのハイトーン。爽やかでいっそ清々しいほどの笑みが、いまあの銃口を彩っているんだろう。振り向かなくたってそれぐらい解るよ。いったい何年幼馴染みやってるんだと思う? 十八年間、生まれてからいままでずっと、誰よりも近くで同じ景色を眺めてきたんだ。
「勿体ぶってねーでサッサと死んでくれよ」
「なら、エイジが僕を殺してくれる?」
 秋風に嬲られた廊下の窓ガラスがカタカタと心許ない声ですすり泣く。ああ、終止符だね。僕らの会話を断ち切るのはいつだってこんなふうに落ちてくる沈黙。
「甘えてんじゃねーよ」
 栄治の笑顔が消えた瞬間、同時に剥がれ落ちた僕の仮面が床の上で砕けて粉々になった。それをザラリと踏み躙って栄治が哂う。侮蔑に満ちた笑顔が目に浮かぶようだよ。
「俺と同じ空気吸ってんなよ、ヘンタイ」
「じゃあ息止めれば?」
「なんで俺が? オマエが止めろよ」
「…じゃあいまから止める」
「オマエと同じ空気を吸ってたのかと思うと吐気がするよ」
 噤んだ口元に指先を当てて息を我慢する。
 パサパサに干乾びたその指先を撫でていく秋風。日に照らされて変質した手の甲、雨に晒されて一度ふやけた傷口が膨張したまま凝り固まった血を辛うじて湛えている様。それがキミにも見えてるんでしょう? いま突き刺したばかりの前腕から生温かい血が噴き出してるのも こないだ傷つけられたふくらはぎの切り口が膿んで醜く変色しているのも、折れた鎖骨が皮を突き破って天を向いているのも、全部フルカラーで見えてるんでしょ?
 二分も保たずに荒い呼吸を始めた僕を、栄治が待っていたように蔑んでくれる。言葉で態度で、全身全霊で。
「価値もないのにいつまで生きてる気だ?」
 立ち並ぶ杭に突き立てられた四肢。張り巡らされた鉄条網に吊るされた内蔵。僕の乾いた眼球が捉えてる景色をキミはいつだって一緒に眺めていてくれるから、僕はそこに幸福を見出すことが出来るんだよ。
「命汚い性分なもんでね」
「じゃあ死ぬ気になったらすぐ云えよ」
 祝杯の準備しなきゃいけないから。カツカツと遠退いてく足音が角を曲がってやがて聞こえなくなる。何度も踏みつけられてズタボロになったプライドをまた拾い上げて。
 埃を、誇りを払ってまた胸に戻す。その繰り返し。荒野に吹く風が止むことはない。
 あと何度、見限られて見捨てられて見殺しにされれば気が済むんだろう。僕も栄治も。たぶん、この先ずっと気が済むなんてコトはないんだろう。未来永劫。
「あーあ、涙なんてとっくに枯れたと思ってたのにな…」
 零れ落ちた涙を拭う指先が震えてた。本当の願いなんてもうとっくに解らなくなってるんだよ。ただキミが見てくれるから。僕を見てくれるから。だからこうして僕は削いだ肉を、剥いだ心を、風に晒して贄にするんだ。


 本当にただそれだけなんだよ。


end


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