first impression
アイツをはじめて意識した瞬間、それはたぶん「あの時」だろう。
誰もいないと思ってた音楽室。
開け放された扉から緩やかに吹いてくる風が、廊下に張り出された何枚もの「2days」をひらめかせてた。そのうちの一枚が剥がれて足元へと滑り込んでくる。
「懲りねーよなアイツらも…」
拾い上げたソレに視線を落としながら、俺は壁に凭れてポケットに手を突っ込んだ。薄いジャケット越しに壁の冷たさが伝わってくる。吹いてくる風もまだあまりに冷たい。
二月の終わり。教科棟へと続く薄暗い渡り廊下。
なんでそんなトコにいたのかなんてもう覚えてないけど。冷え切った壁を背に小松原の殴り書きを眺めてると、ふいに聴いたことのあるフレーズが耳元をかすめていった。
曲名は知らない。たぶん、何かのCMか映画で使われた曲だろう。
どこか悲しげで、触れたらいまにも崩れてしまいそうな、儚い主旋律。風に乗って途切れがちなソレを追って、気がついたら俺は上履きの踵を廊下に引き摺ってた。
入り口に転がってるバカでかいオールスター。少なくともコレを弾いてるのは女じゃないだろう。
二重扉の手前からそっと中を窺う。
揺れるカーテン。鼻をくすぐる沈丁花の香り。
グランドピアノの前に人影はない。薄く開かれた第一練習室の扉の向こう、さっきより明瞭に聴こえてくる音色が奏者の居所を静かに物語っていた。
いったい、誰が弾いてるんだろう?
何でかなんて自分でも解らない。けど、無性に気になって仕方なかった。入り口に上履きを脱ぎ捨てて、古びた絨毯に足音を忍ばせる。午後の日差しが階段状のホールを明るく照らし出していた。途切れることなく続くメロディ。次第に大きくなるそれがジリジリと鼓膜に哀切の情景を刻みつけていく。
これが春や夏、秋の午後ならばきっと似つかわしくない風景に思えただろう。演奏者に興味なんて持たなかったかもしれない。冬の終わり、間近に迫った別れと出会いの季節。その予感がこの曲の感傷をよけいに増幅させているような気がした。
近づいた隙間から差し入れた視線。
するとその先で見たことのある横顔がアップライトピアノを掻き鳴らしてた。
あの指先からよくと思うほど、鍵盤の上を滑る指先は無骨でゴツイ。甘く整った顔立ちから浮き立つ色気。だが結ばれた口元には意外な真剣さがあった。伏せられた視線の驚くほどの真摯さ。長めの前髪が窓からの自然光を受けて艶やかに揺れている。
これがあの蓮科?
流した浮名は数知れず。言葉を交わしたことは一度もないけれど、噂だけならイヤというほど耳にしてきた。
クチがうまくてソツがなくて。何をやらせても人並み以上にこなし、立ち回りと要領のよさでは教師にも定評があるとかないとか。来る者拒まずで去る者追わず。引く手数多のご大層な身分にも関わらず、オトコ連中の間でもその評判は悪くない。
校内のニュースメーカーとしてはとっくの昔に有名人だ。
山ほどあるその噂だけでも俺とは一生涯、接点のねーヤツだと思ってた。ただ一つあるとすれば、俺と別れた後に若菜が数ヶ月付き合ってたオトコ。それだけ。
その若菜と別れたいま、珍しくあの蓮科がフリーのままでいると早乙女だかが云ってたような気がする。そんなの知ったこっちゃねーけど。
これがあの蓮科?
いつでも自信に満ち溢れてて、余裕の笑みを絶やさない不敗のオトコ。
けどいま目の前にある横顔は、どの噂や風聞の中の「蓮科」ともうまく重ならなかった。レッテルなんてのは所詮「見る側」のためだけにあるもので、それを一枚一枚剥がしていくところから本来の人間関係は始まるんだろう。
エンドレスで続くメロディ。
時折目を閉じ、祈るような面持ちで紡がれる旋律。
ほんの数瞬、息をするのも忘れて見入ってた。そのひたむきな横顔に。
ピアノの音がこんなにも奇麗だということを、俺はこの日初めて知った。いつか機会があったら、蓮科にこの曲のタイトルを訊ねてみよう。そう思いながら後にした音楽室。思えばあの日、心の半分はすでに奪われていたのかもしれない。
二月の終わり、廊下を渡る風、入り口に脱ぎ捨てられた真っ黒いオールスター。
デジャヴのように薄く開いた扉の向こう側で軽やかにアップライトピアノが鳴ってた。白と黒の鍵盤から生み出される恍惚と陶酔。それを俺に植え付けたのは間違いなくあのゴツイ指先だから。
扉を押すと途端にパステルカラーの音符が室内から零れ落ちてきた。潜り抜けた隙間を後ろ手に閉ざす。耳元を首筋を指と指の間を、ゆったりとすり抜けていくショパンの響き。これぐらいなら俺でも知ってるぜ?
「子犬のワルツ、だよな」
「へー、春日でも知ってるとはな」
「おっまえ、バカにすんなよ」
「じゃあコレは?」
唇を象った微笑みそのままに、いきなり途切れたメロディが今度は揶揄いの色を含んで再開された。何やら不穏な旋律が腹の底をザワザワとくすぐる。う、何だっけコレ…。
「ついこないだ観たばっかだろ?」
「あ、サイコか!」
「正解。意外にメロディラインが奇麗だよな、コレ」
あの不安を掻き立てるBGMを一通りさらったところで、蓮科の手がすうっと鍵盤から離れた。辺りを漂ってた音符の残骸が静かに冷たい床へと沈んでいく。
「寒くねーのかよ」
二月だというのに真っ黒いTシャツ一枚っきりで、朝は着てたはずのボンディングカバーオールはいまは無造作に木の床に放ってあった。ガラスに遮断された風がガタガタと負け惜しみのように窓枠を鳴らす。
「あー、さっきまで中庭でサッカーやってたんだよ。設楽たちと」
「無駄な体力お持ちですこと」
「何、誘って欲しかった?」
「ヤだよ、どうせ何か賭けてたんだろ」
「当然」
勝ち誇ったような笑顔にゲンナリしながら、傍らのソファーにどさりと身を投げる。たかが一年やそこらで劇的に人間が変わるはずもなく。こーゆうトコは相変わらずだよな。悪ガキ体質っていうか。
「カスガ。背中のクリアファイル投げて」
何だよ、痛てェと思ったらハードケースじゃねえかよ。引き摺り出したソレを待機してた手に放り投げる。その代わりといってはなんだが、俺はすぐそばに落っこちてたカバーオールを引き寄せるとグルグルに丸めて背中の下に宛がった。あ、結構イイ感じ。
去年に引き続きまたしても学習発表会のピアノ伴奏を引き受けたらしい蓮科は、ここ最近ヒマさえあればこの第一練習室によくこもっていた。広げた楽譜をパラパラとめくる。
沈丁花の香りがうっすらと室内を漂っていた。脳裏に浮かび上がる真摯な横顔。
俺はあの日から、一体いくつのレッテルをコイツから剥がせたんだろう。少なくともいま目の前にいる蓮科は噂の中にいる「蓮科」じゃない。憶測と虚像のイロオトコじゃなくて。
「なあ…」
「ん?」
俺だけが知ってる蓮科のハズ。
「去年の今頃にさ、ココで弾いてた曲って覚えてる?」
丹念に楽譜を追ってた視線がふいに俺を捉えて、それからゆっくり和らいでいった。
「楽しみを希う心」
静かに響きはじめたピアノの音色に、俺は目を閉じて旋律の海に浸った。
★ ★ ★
後期の授業もまとめに入り、あとは課題さえ出してしまえばこっちのモノ。
いつになく段取りよく片付いた課題のおかげで、残る数学さえ提出してしまえば「晴れて自由の身」という素晴らしい確約を得ていた俺はあの日、時間数合わせの五限に出るのが面倒で勝手ながら他クラスのソファーに寝転がって午後の惰眠を貪っていた。
どうせ数学の小島が戻ってくるのは夕方過ぎだ。あのパチンコ狂いめ。
二月も半ば。吹いてくる風は思った以上に冷たい。だがわざわざ窓を閉めに行くのも気が乗らず、俺は手近にあった設楽のジャンパーを頭から被るとしばし午睡にたゆたう快感を味わった。
そういえばここ何日か、まともに睡眠を取った覚えがない。なるほど、だからあんなに課題の進みがよかったのか? あまりに卒製の上がりが早いので、担任なんか目を剥いてたくらいだ。そんなことを記憶の片隅に引っ掛けながらゆらゆらとレム睡眠の縁をクロールする。
どれくらい経った頃だろうか。
意外に近い場所から聞こえはじめたハナウタが、俺の意識を教室に引き戻した。
歌詞が聴き取れるほど鮮明ではないが、メロディからタイトルが思い浮かぶ。やけに懐かしい歌だ。
薄目を開けてジャンパーの隙間から外を窺うと、ベランダの手摺りに教室イスを引っ掛けて座ってる後ろ姿が見えた。真っ白いパーカーに包まれた細身。首には灰色のマフラーが巻きつけられている。
ああ、春日か。
そういえばココ三組だったっけか。付随してそんなことを思い出す。
メタルグレーのヘッドホンに合わせて揺れるバックプリントの黒いロゴ。ハナウタに混じって聞こえてくる音漏れはけっこうな音量だった。俺がいることには気付いてないのだろう。ジャンパーから顔を出して、細い背中を見るともなしに眺める。曲はエンドレスで流れているのだろうか。さっきからハナウタのレパートリーが変わることはなかった。青空をバックに歌われる青空。
春日のシルエット越しに薄水色の冬空が広がっていた。
「青空」よりも「空」の方が雄弁だという誰かの言葉を思い出す。でもこの青さこそが、俺らには何よりも似合ってるんじゃないかと思う。青くもない空に誰が青春を想像するだろう。
青さゆえの青春。青さゆえの過ち。青さゆえの焦燥、それから潔癖。
春日ってどことなく青空に似てるよな。面と向かって話したことはないが、なんとなくそんなイメージを抱いてた。いや、むしろ清廉な白というべきか。
美人、という言葉があれほど似合うオトコを俺は他に知らない。
浮ついた話もなく、取り立てて騒がれるニュースに絡むでもなく、だがけして日々の話題から消えることのない春日の名前。そこにいる、ただそれだけで関心を惹きつけて止まない美貌。
クラスも違うし、部活も選択授業でも被ったことはない。何の接点もないまま過ぎた三年間。間に介在する友人も多数いるし、なぜか弟の方とは顔見知りだったりもする。だがコイツ自身とは一度も話したことないんだよな。別に特別話したいとか思ってたわけじゃないけど。
時々かすれる高音。カタカタと手摺りを打ち鳴らす指先。
そして潔癖なまでに白いその背中。
なんで俺、あの背中から目が逸らせないんだろう? エンドレスに繰り返されるサビが脳裏に刷り込まれるのと同時、薄水色をバックに揺れるロゴマークが瞼から離れなかった。
考えてみれば、俺はあの日から春日の引力に惹かれ続けているのかもしれない。
時折、思い出したように春日はあの曲を口ずさむ。
あの日けっきょく春日は最後まで俺に気付くことなく、俺も声をかけることなくその場を立ち去った。
けれど瞼から白い背中が消えることはなかった。目を閉じればいつでも浮かび上がるあの鮮烈な白さ。そしていまは目を開けてもそれが消えることはない。
「春日」
あの時と違うのは、呼べばその背中を振り返らすことができること。
それから、抱きすくめて細い首筋に顔をうずめられること。
残像ではない、確かな実像。
「な、なんだよっ」
「いーから、じっとしてろって」
ちょうどあの日と同じように、ベランダの手摺りに引っ掛けられてた教室イス。
後ろから灰色のパーカーを抱きしめると、腕の中でジタバタと痩身が身じろいだ。こうして抱くと見た目より細いことがよく解る。だが体のバランス自体はかなりイイ。
筋肉の撓り具合、柔軟な腰のバネ、素肌の弾力、どれを取っても驚くほどスバラシイ。両腕の拘束をきつくしながら、マフラーと首筋の隙間に唇を触れさせる。腕の中でピクンっと細い首が揺れた。
「ちょっ、バカ離せって」
「しょうがねえだろ、こんなイイ天気なんだからさ」
五感を痺れさせる陶酔。この体の甘さを知ったのはあの日から一ヶ月ほど後だったろうか。いまではもうヤミツキだ。目に見えて溺れてる。この俺ともあろう者が。
「は? 天気とコレとどう関係あるんだよっ」
「超密接なカンケイ」
耳元に唇を寄せると効果覿面、春日の声が一気に上ずった。
「ワ、ワケ解んねーよっ、だいたいオマエ…ッ」
なおも文句を云い募るべく、こちらに向けられた顎先を素早く捕えて。
「ぅ…ん…ッ」
絡めた指先と塞いだ唇で無駄な抵抗の制圧に勤しむ。
数秒後、ようやく諦めたのか強張ってた体から力が抜けていった。 何度か唇を入れ替えるうち、けして積極的ではないが意思を持って動き始めた舌先が俺の口内をくすぐりはじめる。そうこなくっちゃな。
一瞬のフェイントの後。
「んン、ン…ッ」
耳裏を撫でていた掌を滑らせてパーカーの上から尖りに爪を立てる。咄嗟に逃げた唇の隙間から続けざまに甘い声が漏れた。そろそろココがどこだか忘れかけてるかもしれねーな。
慣れた舌先、心得た指先、そしてそのどちらにも翻弄されやすい美人。
わりと間近で「キャっ」て声が聞こえて、ベランダから二組の教室へと逃げていく人影があった。そろそろ潮時か。唇を外すと息の上がった春日が腕の中にいた。
「おまえの辞書に…」
「ねーよ。節操なんて大層な文字は」
「…だよな」
濡れた唇を拭いながら、やや乱暴に俺の腕を振り解く。
名前を呼んでも振り返らない背中。風に揺れる黒髪に無言で顎を乗せると、だいぶ経ってから春日の片腕が俺の首に回された。
ゴーっという音が頭上で響く。
振り仰いだ空に飛行機雲が白い線を引いた。
end
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