イチゴシロップ



「春日」


 水槽の中でユラユラと揺れる赤と黒。店先に吊るしてある風鈴の涼しげな音色。
 くるくると回る色とりどりの風車。サヤサヤと流れる心地よいざわめき。
 香ばしく焼けるソースの匂い。子供の持ってるりんご飴の赤が、流れるように目の前を横切っていった。
 瞼に映る淡い残像。道なりにどこまでも、どこまでも続いている提灯の明かり…。
 その小さな灯が、薄暗闇の中ではにわかに膨張して見えるようだ。
 それともこれは、ただの錯覚?

「こっちだ春日。はぐれんなよ」
 ――パシャン。
 背中に水風船のあたる感触。
 その一部分だけに水の冷たさが一瞬で浸透した。
「な…」
 振り向くよりも早く、匡平は後ろから片腕をつかまれていた。
 ぐっと引き寄せられて英嗣の匂いが近くなる。
 浴槽の底に沈んでいるかのように遠かったざわめきが、ようやく現実の音として耳まで届くようになった。
「人酔いしそうな勢いだな」
 間近で聞こえては遠のいてく囃子の音。
 極彩色が闇ににじんで、懐かしい風景を作り出している。
 涙ぐんだ時にしか見えない、子供の時によく見た景色。
 ひどく懐かしい心象風景…。
「ボゥーっとしてんなよ」
 ややしてから英嗣がこちらを覗き込んでいることに気が付いた。
 これは相当、トンでいるようだ。
「悪い…。もう人酔いしてるみたいだ」
 体に綿が詰まってるようだ。
 フワフワとした心地。地に脚がついているかも覚束ないような。
「人にじゃなくて、夜に酔ったんだろ」
「…おまえはどうなんだよ」
「俺は毎年きてっからな。それでも高揚感は毎年、変わんねーよ」


 夜祭りに行こう、と英嗣から連絡があったのは昨日の夜のことだった。
 いつも通りの普段着で出かけた匡平は、半ば強引に蓮科家で浴衣に着替えさせられるはめになった。
「俺の去年のヤツ貸してやっから」
 慣れた手つきで着付けされながら、慣れない浴衣の感触になんだか胸がザワザワした。思えばあの時から、もう酔いはじめていたのかもしれない。この雰囲気に。
 浴衣なんて着るの小学校以来だ…。
 英嗣はといえば、浴衣は毎年新調するのだという。
「母方のばーちゃんが呉服問屋なんだよ」
 あっさりと浴衣を着こなしているのも、裾を端折った姿が堂にいっているのも、なるほど道理ということらしい。
 こうして見ると、和服の似合う顔立ちをしているのかもしれない。
 それに比べて自分は、…まんま借りてきた衣装だ。


 心地よい夜風が髪をすり抜けていく。 
 夜になって空気はずいぶん涼しくなっていた。
 けれどそこらじゅうを占めている熱気のせいで、浴衣の中はすでに汗だくだ。
「あー、かき氷食いたい気分」
「買ってきてやろうか、何がいい?」
「イチゴ」
「また、ベタなもん選ぶなぁ」
「放っとけよ」
 英嗣の調達してきたかき氷を手に、メインの大通りをそぞろ歩く。
 あれから数時間。ようやく浴衣が体に馴染んできたような気がする。
 雪駄で踏みしめる地面の感触にもだいぶ慣れてきた。けれど慣れない鼻緒のせいで、気づいた時には指の間がかなり赤く腫れあがっていた。
「…痛ェ」
「どっかで少し休むか」
 英嗣の手に引かれ、緩やかな人の流れから抜け出す。
 池の辺までくるとさすがに人影もまばらだった。広い水面に映る月の影。
 さらに奥のベンチまできたところでようやく英嗣の脚が止まった。
「脚、見せろよ」
 慣れた手際で英嗣が匡平の脚に、どこから取り出したものか絆創膏で応急手当を施す。
 そういうとこも慣れてるってか。
「…………」
 サヤサヤサヤ…という葉擦れの音が、右から左へと流れていく。
 風に乗って聞こえてくる、囃子の音。
 提灯の影が地面に揺れていた。
 瞼の裏にはまだ、あの鮮やかなハレーションの名残りがある。
 カラダが宙に浮いてるみたいだ。
 熱がどんどん、体の内側へと篭っていくような感じ。
 この気持ち、なんて云うんだろう…。

「俺以外のヤツにそんな顔させられてんなよ」
 薄く開いていた唇に指先でなぞられる。
「…何云ってんだ、バカ」
 なんだか急に羞恥がこみあげてきて、匡平はその手を振り払うと顔を俯けた。

「なあ、舌見してみ? 真っ赤んなってるだろ」
 英嗣が自分の舌を示しながら、カラカラとかき氷の容器を軽く振って見せた。
 確かにイチゴシロップの威力は凄まじい。
 云われるまま素直に出した舌を、覆い被さってきた唇に食まれた。
 転がるスチロール容器。
 絡められて、引き摺り出されて。
「…っン」
 英嗣の浴衣をつかんでいた匡平の手から徐々に力が抜けていった。
 懐かしい心象風景ともあいまり、まるでユメでも見ているようだ。
 溶けるようなキスの温度。
 それだけがユメでないことを証明してくれる、唯一の術のようにも思えた。


 イチゴとレモンの混じったキスは、なにより夏の味がしていた。


end


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