午睡にまつわるセンテンス



#2 ゆうぐれ


 夕暮れを見ると心臓が高鳴るのはたぶんトラウマの所為だろう。

 公園で一緒に遊んでた友達が一人二人と帰っていく中、自分だけが帰る家がないという焦燥、それから寂寥。正確に云えば帰る家はあったのだけれど、そこに入る術を俺は長いこと持たされていなかった。母親が男を連れ込んでいる間、俺はひたすら外で時間を潰すしかなくて、小三まではそれが当たり前なんだと思っていた。同じ境遇にあった姉はいちはやく母親に見切りをつけ、中学を出た年から家には一切戻らなくなった。それ以来、姉とは一度も会っていない。
 姉がどんな顔をしていたか、思い出せないことに気付いたのはけっこう最近のことだったりする。

「ミカド先輩?」

 いるはずの教室にその影はなくて。開け放された窓から差し込む夕日が無人の教室を赤く鈍らせていた。僅かに黄色味を帯びた陽光に塗れて、薄汚く汚れた机の上にポツンと置き忘れられた臙脂色のタイ。

     ねえ、先輩?

 耳元の血管をすごい勢いで血が流れていくのが解る。黄金色が引きずり出す懐かしい記憶。踏み切りの遮断機を潜って踏み出した一歩がもうじき線路に触れようというところで。すぐ目の前、鼻の先を通り過ぎていった電車に悲鳴を上げたのは警笛の音だけで。俺も母親も失敗に終わった試みの結末を無言で眺めながら平たい背中を冷たい夕日に侵食されていた。思えばあの日も夕暮れだった。

 帰る家なんていらないと思ってた。
 生きてることに意味なんてないと思ってた。
 あの日、あなたを見かけなければ。
 何の未練もなくこの世に別れを告げることすら、俺には容易いことだったんだ。

 欲しい、と。
 ただ欲しいと思った。
 その存在の何から何まで、全てを手に入れたい。
 たとえ何を壊しても。
 あなたさえ手に入るんなら誰を殺しても構わないと思った。
 その聡明な理性すら、むしろ俺にはジャマだったぐらい。
 いつ叩き壊してやろうかと思ってた。
 ずっと機会を窺ってた。

     まさか俺から逃げようなんて、思ってないよね?

 夕暮れが俺を狂わせるのか。
 もしくは俺が夕日を捻じ曲げるのか。
 どっちだって構わない。
 俺にとっての生きる意味はこの世にたった一つしかないから。

「センパ、イ…?」

 いまにも焼き切れかけてた神経を辛うじて繋いでおくことが出来たのは。教室の隅、椅子の足に凭れるようにして床に座り込んでる先輩の姿が見えたから。よく耳を澄まさないと聞き落としてしまいそうなほど微かな寝息。きっと待ちくたびれてしまったんだろう。だらしなく開いたシャツの隙間から緩やかに上下する小麦色の肌が覗いている。夕暮れの狂気と同じぐらい、俺を支配するこの感情を胸の奥底に沈めて厳重に鍵をかけてから。

「起きてください、ミカド先輩」

 俺は先輩の体を揺すりながら良き後輩の仮面を被った。切り札にはまだ早い。あなたを確実に手に入れるために。

「んー…」
「帰りましょう、こんなトコで寝てないで」
「んあー…つーかおまえ来んのオセーっつの…」
「お詫びに今日は何か奢りますよ」
「ならスタバ。アイスカフェモカのグランデがいい…」
「解りましたって。ほら、タイ締めて。次のバスで帰りましょう?」

 だから今日もこうして。
 俺はあなた好みの後輩を見事、演じきって見せますよ。


end


back #


title by high and dry
「ひらがな4文字5つのお題」より