in the DINER



「倉貫は世界でイチバン誰が好き?」


 行儀悪くも箸で串刺しにされたエビフライが真っ直ぐに俺の事を指す。それがみっともなく食べかけ状態なのは、さっき「アーン」と云われて俺が一口齧ったからだ。月一でA定食がエビフライとハンバーグになるこの日だけは南は無条件で機嫌がよかった。別名・お子様ランチと呼ばれるそれを早々にゲットした南はたぶんいま上機嫌のマックスだろう。この機嫌を損ねるのだけはどうにか避けたいところ。何かと後が面倒だからな…。

「たぶん、おまえと同じ答えだと思うけど」

 ふっくらとした頬にへばりついたフライのカスを指先で払ってやる。途端、南の可愛らしい顔立ちが曇りに曇って果ては泣きそうなまでに歪んでしまった。
 なんだ、どっちに反応してんだいまのは? つーか、まさかとは思うが違う意味で取ったんじゃねーよな…。返ってきた答えは案の定で。

「倉貫はやっぱり倉貫がイチバン好きなんだ…ッ」
「…待て待て」

 フツウそういう解釈をするか、そこで? 南が多用する定規の尺度にだいぶ慣れたつもりではあるが、まだまだ驚かされることは多い。ま、だからカワイイっちゃカワイイんだけど。慣れた風情でそんな回路を巡ってしまう思考はすでに総身の大半を南に毒されている証拠だろう。つーか、それ以前に。
「やっぱりって何だ、やっぱりってのは」
「だって倉貫、自分ダイスキじゃん! 崖っぷちに俺と倉貫がぶら下がってたら迷わず自分を助けるくせに!」
 ……どんな局面だ、それ。突っ込みたいのは山々だったが、これ以上こんな論点で無駄な時間を浪費するのは得策ではない。南を納得させるには同じ机上に立って空論を繰り広げるしかなかった。空論とはいえ本音には違いないのだが。
「つーか俺を先に助ければ、二人の俺でおまえを助けられんだぜ?」
「そういう場合、後回しにされた方は落っこちる運命にあるんだよ」
「そしたら迷わず二人で後を追ってやるさ」
「ホント?」
「目的がなくなっちまったら手段に意味はねーだろ」
「…ちょっと嬉しいかも」
 とりあえず崖っぷち論はこれで解決したらしい。後はもう一つの方か。南も相当のアイラヴマイセルフだと思うが、その南の中でも自分は比重で打ち勝つらしい。他でもない南自身が先ほど吐露した本音にともすると口元がニヤけそうになる。全く困ったもんだよな。いつ、何処で、どんなタイミングで。あの小さな唇からカワイイ台詞が飛び出してくるか解ったもんじゃない。予測不能な恋人の言動に一喜一憂する自分が我ながら笑える。ならこのいまにも泣きそうな曇り顔をサンサンと輝く太陽に変えるのも俺の一言だよな?

「おまえがいなかったら生きてく意味がない」

 パッチリと見開いた大きな両目がジッと俺を見据えたまま動かなくなる。去りゆく暗雲。真っ白い雲間から覗いた陽光が咲き誇る花々を光り輝かせるように。明るくなった瞳がはにかんだ笑みでフワリと綻んだ。


 そう、この瞬間。この瞬間のために生きてるといっても過言ではない。
 こんな笑顔が見られるんなら、どんな言葉でも云ってやるよ。どんなコトだって何だってしてやる。何度でも。


「南はそうじゃないのか」
「そうだよ?」
「そういう意味で同じだってこと」
「あ、なるほど」
 ポン。打ち合わされた掌。ようやく合点がいったらしい。やれやれ、手のかかる王子様だ…。でもそんなところが堪らなく愛しいなんて思ってしまうのだから。俺のミナミ病も大したもんだ。
「ほらよ」
「ん」
 南の皿から摘んだプチトマトを小鳥のように開いた口に放り込んでやる。
「うまいか?」
「オイシ!」
 幾分アタマの足らないコのように南が首を傾げてニコリと笑った。あーあ、食堂なんかで食うんじゃなかったな…。俺としたことが大失敗だ。こんな話の展開になるんなら小会議室かどっか占拠しとくんだった。いまさらながらにそう思う。そしたらいますぐこの堪らない南を食っちまえるのに。
「ねえ」
 さっきからあからさまに痛かった視線に仕方なく目を向けると、南に負けないぐらい満面に笑みを浮かべたハルが「クス…」っと口元を不穏に歪ませた。




「ウザいんだけど」




 そろそろ何か仕出かす頃だろう、とは思っていた。目の前で繰り広げられる桃色の世界にピリピリしてるのは解ってたから。確かにこうも間近で延々とピーチトークを披露されるのは不愉快の域だけどな。
 南が明らかに「最後のお楽しみ!」として取っておいた最後のエビフライに瀬戸内の箸が勢いよく突き立った。
「あーッ」
 南の悲痛な悲鳴をモノともせずに。
「はい切敷、アーン」
 目の前に差し出されたそれを思わず反射的、口に含んでから。
「あーーーッ」
 しまった…面倒くさいことになった…。
 事前に考えうるパターンの中でも取り分け最悪なセレクトをした瀬戸内に視線を流すと、口元に小悪魔の笑みを浮かべた美人が言外に心境を物語っていた。あー、スッキリしたと云わんばかりに。
「切敷のバカーッ」
 そこで真っ先に罵られるのは俺なのか…。咀嚼したエビフライを仕方なく嚥下した俺に指先を突きつけながら、南があらん限りの罵詈雑言をザラザラと吐き連ねる。相変わらず幼稚園児並の罵りだな、コイツの語彙は…。

「オタンコナス、スケコマシ、この色ボケ強欲ジジイ!」

「…おいおい」
 ちょっと待て。前より品位が下がってやしねえか? それが誰の影響かなんてのは、隣りでほくそえんでるヤツを見れば誰の目にも明らか。つーか、テメェも笑ってねーでいい加減止めろっつーの。おまえの管理下だろ、いまは。

「立場は同じだろ?」
「…ああ、そーゆこと」

 眇ませた目線に返る嘲笑。けど首に縄つけとけって云われてもな…。ナミよりはよっぽど常識も良識も入ってるし、たまにそれを悪用するぐらいで大した害はないだろ? けど同じ理屈が南に通じないことぐらいは解っている。伊達に五年も保護者やってねーよ。しょーがねえな…。

「ナミ、黒いネズミに会いたいか?」

 本当は瀬戸内とヒッソリ行こうと思ってたんだけどな…。
 三日前から財布に忍ばせてた貰い物のフリーパス四枚。仕方ないからその内の二枚を謙譲してやろうじゃねーの。南が夢の国の住人を熱愛していることは倉貫も知っているだろうが、それがすでに病的な域にまで達している、ということはまだ知らないだろう。

「会・い・た・い!」

 ほっそりとした顎の下で、可愛く両手を組み合わせながら南がパチパチと瞬きを繰り返す。どうよ、この目の輝き。南の幼稚園時代の夢はアソコに住むことだったらしいからな。いまでも半ば本気でそう思ってそうで怖いんだけど。…まあ、もう一つの夢に比べたらまだマシか。さすがにその夢はとっくに諦めてるとは思うんだけど。
「行かせてやろうか?」
「イキたいイキたい、イカせてイカせて!」
「…ちっ」
 倉貫の舌打ちにザマーミロと思いつつ、財布から取り出したそれをテーブルに並べる。ちょっとソレ初耳なんだけど、と目を丸くした瀬戸内に一枚、自分に一枚。残りの二枚を倉貫に渡すと俺は食べかけだった生姜焼きに箸をつけた。瀬戸内が乗せたプチトマトが皿の端に二つ、コロンと並んでいる。真っ赤な食べ物が苦手なのだという弱点を瀬戸内から聞いたのは三日前。けど云われなくてもそれぐらいは解ってたよ。普段の瀬戸内を見てればそれぐらい。同様にいつ把握したのかは知らないが瀬戸内の皿には二人分のパセリが乗せられていた。どうにもそれだけは昔から食べられないんだよな…。

「倉貫、コレ明日行こ! 朝から晩までいよ!」
「…はいはい、解ったっつーの」

 エビフライの存在などすでに忘却の彼方へ飛び去ってしまったのだろう、ドーパミン全開ではしゃぎ倒す南に苦笑しつつもそれを宥める倉貫の声は甘い。また二人の世界へと隔絶されてしまった向かいのバカップルをよそに味噌汁を啜っていると横からツンと脇腹を突かれた。
「なんで黙ってたの?」
「…興味ないかな、と思って」
 虚飾はない。南ならまだしも瀬戸内がコレを喜んでくれるのかどうか、確信はゼロに近かったから。別にこれみよがしのスポットを選択しなくても瀬戸内が隣りにいてくれさえすれば俺はそれで構わないわけだし。さすがに臆面もなくそんなコトを口に出来るほど、自分の羞恥心は擦り切れていない。
「たまには演出に乗るのも悪くないんじゃない?」
 だから言葉の裏を汲んでくれる瀬戸内の洞察力にはいつも救われていると思う。この優しく透き通った目にはどこまで見えているんだろう。たまに不安に、そして心配になる。自分のこの下らない不安で瀬戸内まで不安にはさせたくないから。
「悪ノリしても多少は許される?」
「少しなら大目に見てあげる」

 食堂の雰囲気が一瞬ざわつく。王子と帝王のあからさまな睦言にはいまやすっかり慣れ切った面々も、ジョーカーのキスにはまだ免疫がない。

 微笑みのジョーカーの口付けを頬に受けながら「…ま、たまには衆人環視ってのも悪くないか」驚きを密やかな愉悦に切り替えると、俺は傍らの細い腰を片手で抱き寄せた。そのたびザワつく周囲の反応が可笑しくてしょうがない。
「行くんならホテル取ってよね」
「高くつくなぁ」
「こないだ株で儲けたの、知ってるよ?」
「…よくご存知で」
 ホントにこの目にはどこまで映っているんだろう。閉口しつつも沸き上がる衝動を抑え切れず。
「期待してろよ」
「ウン、楽しみにしてる」
 ジョーカーの頬に軽いキスを落とすと、また食堂がにわかにザワついた。




「どーするよ、アレ」




 ハンバーグをフォークで切り刻みながら軽く顎先で示した方向、ややテラスに間近い辺りを横目に眺めながら俺は一口大になったそれをヒョイと口の中に放り込んだ。
「どーもしねーんじゃねえの?」
 予想外に冷静な台詞を返してきた後輩に思わず苦笑しつつ、続けてマッシュポテトを一口分フォークに乗せる。南チャンじゃないけど俺も割りとお子様ランチは好きな方だと思う。これでハンバーグに旗でも立ってりゃ完璧なんだけどね。今度食堂のオバちゃんに提案してみようかな?
「やれやれ、ラヴいや。参った」
 瀬戸内と切敷が出来上がってからというもの、俺の周りはいよいよピンク一色に染まりつつあった。とりあえず同じクラスに苺や桃がなってなくてまだヨカッタと思う。三組と六組ではしばし教室がストロベリーやピーチの風味でいっぱいになるっていうからな。あー恐ろしい。
「そういうアンタはどうなのよ。社会科研の教師とのラヴは?」
「古い。古過ぎる」
「じゃーアレ? カウンセラーの奥さんに手ェ出したってヤツ」
「あー香坂の奥さん? あのヒトはね、可愛かった。まじ食いたかった」
「なんだ、未遂かァ」
「香坂のガードが予想外に固くてさー」
「どうでもいいけど人妻キラーの名が廃るんじゃねーの?」
「ウワっ、痛いトコ突かれた!」
 昼時にそぐわないこのテの会話にガンガンついてこれるオマエもどうかと思うけどな。俺の周りってつくづくまともなヤツがいねーよなぁ。おかげで毎日楽しくってしょーがねえんだけど。
「まあ俺もそろそろ潮時っていうかね、その称号はもう朋章に譲ろうかな」
「いらねーし」
「なんでよ、オマエ年上好きじゃん」
「だって人のモンに手ェ出してもしょうがなくね? あ、未亡人なら話は別よ」
「未亡人ねぇ」
「憂いの未亡人の心の隙間を埋めて差し上げたい」
「体の隙間だろ?」
「キャー、観月先輩ってばドスケベー」
「何をいまさら」
 あれかね、未亡人っていうとやっぱそういうイメージがあんのかね。ごく身近に一人未亡人がいるけど、ややそのステレオタイプとはずれるような気がしてならない。心の隙間を埋めるどころか油断すると鞭なんか振るってきそうな。
 一瞬、脳裏をかすめた横顔。伏せた睫毛に纏わりつくのは拭いようのない憂いと悲嘆。
「ま、あれだな」
 そこから意識して思考を逸らすと、俺はまたハンバーグの一角をフォークで切り崩して口に運んだ。食堂の片隅で繰り広げられるストロベリーショーに終わる気配はない。いつもの喧騒に輪をかけた喧騒。
「隣りの芝生は青く見えるもんなんだよ」
「何? それでアンタ、人のモンばっか横取りしてんの?」
「や、取ってないし。俺のはただのツマミ食いだから」
 心から呆れた風情で吐かれた溜め息がテーブルの向こう側へと滑って落っこちた。おまえ、ソレやだねー。誰かにソックリよ?
「ツマミ食いで家庭崩壊させてりゃ世話ねーよ」
「何ソレ、どこン家のハナシ?」
「高梨サン家のハナシ」
「あー、タカナシさん家ねェ」
 崩壊させた覚えはねーんだけどな。ウワサではどうもそうなっているらしい。むしろ逆だと思うんだけど。
 マリッジブルーの太田から初めて相談を受けたのが学祭の二週間ぐらい前だったかな。程度の差はあれど結婚前にはやはりそういう心境に陥るもんなんだろうか。救いを求めて差し出された手。俺がそれにしてやれるコトはただ握り返してやるコトだけだった。高梨は年齢差なんか気にしちゃいねーし、アンタの恋愛遍歴にも興味ねーよ。いま目の前にいるアンタしか見えてないんだからさ。だからもっと自分に自信持てって。

 アイツにもそんな風に云って支えてくれるヤツがいたんだろうか。

 そんなコトを少し考えながら俺は太田が落ち着くまで、実際には手も握らずただ話を聞くだけの時間を何度か過ごした。ウワサってのは都合よくたってくれるもんだよな。高梨に殴られない程度にそれが流通してから、俺は数学科研究室を一人で訪ねた。惚れた女を不安にさせてても気付かないほど、アンタの頭には花が咲いちゃってんの? 別に花咲かせててもいーけどさ、それは二人で咲かせるもんなんじゃねーの? 好きな女の名前を公然と呼べる事実をもっと噛み締めろよ。最後のはもちろん口に出しては云わなかったけど。それ以来、太田に呼ばれることはなくなった。あ、結婚式には呼ばれたんだけどね。さすがに行く義理はねーよなぁ。
 又聞きの又聞きくらいで太田が如月と同じ、白無垢を選んだことを聞いた。
 誰かを羨んだところで現状が変わるわけではないし、過去が書き換えられるものでもない。それはもちろん解っているけれど。それでも眩しいモノは眩しいし、胸の中に潜む羨望を否定することは出来ない。少し背けた視線が止まった先、夏目の膨らんだ胸ポケットを見た瞬間、脳裏に浮かんだ野口英世の顔。
「そーいやオマエ、千円」
「あら、覚えてらっしゃいました?」
 おいおい、昨日の今日で誰が忘れるかっつーの。夏目が渋々といった呈で財布から抜いた千円札をひらりとテーブルの上に乗せる。
「はい、これでチャラー」
「…えーと、チャラっつーかさー」
 もっとこう態度改めるべき場面と違う? 感謝の念を籠めに籠めて恭しく差し出すとかさー。まあコイツがそんな殊勝なタマだったらそもそも、昨日の時点で俺に金なんか借りてねーよな。このツラの皮の厚い後輩は倉貫や空木にすら平気でタメ口をきくツワモノだ。
「ま、いーや」
 受け取った千円を胸ポケットから取り出したパスケースにしまう。ふいに。
「あれー?」
 夏目の頓狂な声が響いて顔を上げると、その視線は他でもない自分の手元に注がれていた。
「俺さー、昨日、如月先輩にも千円借りたんだけど」
「…へーえ」
 おまえのツラの皮はいったいどこまで厚いんだ、夏目。思わず苦笑で笑ませた口元を一瞬エンプティにしたのがそれに続いた夏目の一言。
「ソレと同じの、如月先輩の財布にも入ってたぜ?」
 促されて見たパスケースの裏、ずれた定期券の端から覗いていたのは不恰好に割れた銀貨の欠片だった。付き合い始めてすぐ、半ば冗談で買った半欠けの銀貨。
「へえー奇遇だなァ」
「なんかのジンクスなわけ、それ?」
「まあ似たようなもんだ、一時期流行ったんだよ」
 俺とアイツの間だけでな。ギリシャ神話ではハデスの治める冥府の川を渡るには渡し守のカロンに銀貨を渡さなければいけないのだという。そう云ったのはアイツの方で。割れた銀貨を見つけてきたのは俺の方だった。まさかいまもアイツが持ってるとは思わなかった。如月が持っているソレと合わせれば、丸い原型を表すであろう銀貨。
 自分にとってもそうであるように、如月にとってもそれは一人では渡ることの出来ない川。
「夏目、これでプリン買ってこい」
 一度しまった千円札をもう一度引き出して夏目の眼前にピラピラと掲げる。
「えー」
「釣りはいらねーよ?」
 笑顔の追い討ちで不平を撃ち落すと「そーいうコトならしょーがねェ…」渋々といった顔を作りながらも、軽々とした足取りがカウンターへと向かっていくのを見送る。あれでいてなかなか勘が鋭いからなアイツ。口止め料としてはまあこんなもんだろう。いらないプリンは甘党の南ちゃんに進呈するとして後はまあ情報料も込みってコトで。
「やれやれ…」
 年寄りのように一人ごちながら、俺はパスケースをそっと胸ポケットに収めた。


end


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