great death game



 花の降りしきる三月。
 卒業式は賑やかに執り行われた。
 晴れやかな顔をして、学校を卒業していく先輩たちの顔。その顔のどこにも後悔なんてないように見える。
 自分もいつか、こんな顔をしてここを去れるのだろうか。

 先輩には後悔なんてないんですか?

 そう訊きたかったのに。
 卒業式に日向の姿はなかった。



「聞いてないの?」
 花びらを乗せた春風が、八重子の長い髪を宙に踊らせる。
「何をですか」
「……やっぱりね」
 そう云って笑った表情がいつになく華やかで、若菜は思わず息を呑んで見つめた。
 そんな笑い方もできるんだ、先輩。
 式典を終えた学校はすっかりガランとしてしまって、どんなに耳を澄ましても風の音しか聞こえない。
 グラウンドを回る並木道を歩こう、と持ちかけてきたのは八重子の方だった。
「やっぱりって…」
「あの人からね、伝言を預かってるの」
 穏やかな笑み。
 顔にかかる髪を白い指先で払いながら八重子は並木道の間を進んだ。それを追いかけるように若菜が続く。坂の下に集まった卒業生たちが記念写真を撮っているのが遠くに見える。
 あの輪の中に先輩がいないなんて考えもしなかった。
「いままでいろいろアリガトウ。キミに会えてよかった。キミがこれを知る頃には僕はもう日本にいないけど、キミのことは忘れない、って」
「…そんなの」
 まるで別れの言葉だ。
 それもひどく一方的な。とても納得できるようなものではない。
 こんな伝言一つで姿を消すなんて。
 あの人らしくない卑怯。
「自分からは云えないからって。妙に弱気でね、泣きつかれたのよ」
 若菜の心を透かし見たように八重子が口を開く。
 フフ、と漏らされる笑み。
 そんな笑顔でさえも、今日は恐ろしくキレイに見えた。
 上機嫌という仮面の下で、先輩は何を飼い殺しにしてるの?
 サワサワとグラウンドを風が渡っていく。
「左槻ね、オーストリアに留学したの」
「え」
「美術品の鑑定に興味があるんですって。知り合いがいるからって突然、向こうの大学に行っちゃったの」
 アタシを置いてね。
 最後に付け加えられた台詞。それでも先輩の笑顔は変わらない。
 嘉納先輩はいつそれを聞いたんだろう。それともアナタには前から相談してた?
 知らなかったのは自分だけ?
「……先輩はいつそれを」
「私も旅立つ前日に聞いたのよ。ヒドイと思わない?」
 悪戯そうに輝く瞳。
 ともすると風が先輩の声を攫っていってしまいそうで、若菜は慌てて八重子のすぐ隣りに並んだ。
 八重子の腕に自身の腕が触れる。涼しげな容貌や言動から日頃あまり体温を感じさせない八重子だが、こうして触れるとその温かさがよく解る。服がない時はなおさらのこと。
「いま考えればこないだの旅行、下見を兼ねてたのね」
「あの時からもう…」


 切り捨てられた。
 なんだか無性に悲しくて、寂しくて。
 若菜の頬を涙が伝った。先輩が悩まなかったなんて思わないけど。
 でも最後までヒドイね、先輩…。
 風に侵食された、淡青い風景が涙ににじむ。
「あのね、どんな恋にも終わりはあるのよ」
 静かな八重子の声。
「でも、こんな一方的な結末なんて…」
「納得できない?」
 若菜は力強く頷いた。
 先輩はそれでいいと思ってるの?
 どうしてそんなに穏やかに笑っていられるの?
 だってそんなの、あまりに都合がよすぎるじゃないですか。
「なら自分で決めなさい。このゲームを続けるか、やめるか。それはアナタ次第なのよ」


 死に至る病。


 そういえば。
 恋は偉大なる死のゲームだって、先輩いつか云ってたね。
 いまならちょっと解る気がする。だってこんな痛い思い、いつまでも抱えてたら確実に死んじゃうわ。
 こんなやり切れない、切ない、愉悦に満ちた快楽。
 まさに致命傷。


「この恋を continueにする? それともthe end にする?」
 つむじ風が八重子の髪を巻きあげ、若菜のくせのないショートをはためかせた。
「左槻は continue を選んだの」
「え?」
「だから私に伝言を残したのよ」
 突風に一瞬、目を瞑った隙に。
 八重子の姿が視界から消えていた。
「先輩…?」
 振り向くと、八重子の背中が校舎に向かって歩きはじめていた。だんだん小さくなる背中。
「じゃあ、先輩は?」
 風の音に負けないよう、若菜は声を張り上げた。
 先輩はこの恋を終わらせる気ですか?
 このまま、リセットボタンを押してしまうの?


「ヒミツよ」
 それはたぶん、ものすごく小さな声だったと思う。
 隣りで囁いたとしても、聞こえるか聞こえないかくらいの呟き。
 でもそれは確かに若菜の耳まで届いた。
 密やかな笑い声と一緒に。
 八重子の背中が見えなくなるまで。
 ピンと伸びた背筋が校舎の角を曲がってしまうまで。
 若菜は八重子の後ろ姿を見ていた。





 ――四月。
 桜の花の散りかけた校内で、八重子の姿を見かけた。
「先輩、並木道でも散歩しません?」
 いつでも変わらず真っ直ぐ伸びた背筋に、今度は若菜の方から声をかけた。
 八重桜はいまが満開だ。
 薄桃色に彩られた並木道。その間を二人で歩く。
 ちょうどあの日みたいに。
「春になるとこの並木が八重桜だってことを思い出すわね」
「そうですね」
 中庭の桜が満開をとうに過ぎてから、ややして八重桜が花を開く。
 それまでは何の木だったかも忘れられがちな八重桜のささやかな自己主張。
 ハラハラと情緒豊かに散る染井吉野も悪くないけど、たおやかに花を連ならせる八重桜の静かな存在感も心に染み入る。
 三月の終わりに一枚のポストカードが若菜の元に届いた。
 クリムトの「接吻」。
 差し出し人の住所はなくただ一言、元気ですとだけメッセージが書き添えられていた。
 ごめん、じゃないんだね先輩。そんなところも先輩らしいけど。
 なによりも、クリムトってところがイチバンらしい気がした。
 心酔するほど優雅なのに、饒舌過ぎない装飾。ゴージャスなのに、それでいて過剰ではないクリムトのイメージ。取り澄ました態度の内側にどろどろした何かを孕んでいるような。
 日向のイメージと重なって見える。


「あたし、決めました」
 八重子の前に一歩踏み出すと、若菜は背を向けたまま言葉を続けた。真っ直ぐ前を見つめながら。
「continueします」
「熟考の末の結論?」
「いいえ、衝動的に出した答えですよ」
 フフ、と八重子の忍び笑いが聞こえた。
 桜の花を風が揺らす。
 まだ山の方で咲いているらしい小さな花びらが宙を滑っていく。
「若菜らしいわね」
 笑いを含んだ声が聞こえた。
 どこか嬉しそうに聞こえるのは自分の錯覚だろうか。


 ここで一言 the end と云ってしまえば、首元まであるこの水はすぐに排水口へと押し流されていくだろう。
 もう苦しむこともない。
 溺れまいと闇雲に手足を動かし、大量の水を飲むこともないだろう。
 焼けつくような肺の痛み。
 凍てつくような水の冷たさ。
 そんなものに苦しめられることもない。
 ……でも、もう遅い。
 水は噴き出す血のおかげで温さを増し、鉄の味がする水中はまるで羊水のように体を包み込み。
 そしてすでに、安らぎを与えてくれるまでになっていた。
 もうこれなしでは生きていけない。
 濁った水の中では順路を示す数字になんて何の意味もないでしょう?
 これが自分の血かあなたの血かなんて、そんなこと区別する必要すらないし。
 これが自分の涙かあなたの涙かなんて、誰にも解らない。
 だってもう、沈みはじめているんだから。
 だいたい「the end」なんて書かれた浮き輪に、いったい誰がつかまるというの?


「私は来年、向こうに行くわ」
 振り向くと八重子が穏やかな笑みを浮かべていた。
 北風よりも春風がふさわしい、そんな笑顔。
 なんだか変わったね、先輩。
 もっとも変わらない人間なんていないんだから、前と比べれば自分もどこか変わったのかもしれないけど。
 少なくとも一年前の自分なら、こんなゲームに参加しようなんて思いもしなかっただろう。
 それはきっと八重子の影響。
 じゃあ、日向先輩は? いったい何を及ぼしてくれたの?
「アナタも再来年いらっしゃい。…待ってるわ」
「それも伝言ですか?」
「いいえ。…これは私の希望、かな」


 それが先輩の continue の意味ですか?


「決めたんなら、自分で伝えなさいね」
 そう云いながら八重子は携帯のボタンをいくつか押すと、それを若菜へと放り投げた。
「わっ」
 あわてて耳にあてると、雑音混じりの呼び出し音が聞こえている。
 遠ざかっていく八重子の背中。
 ややしてから懐かしい声が聞こえてきた。
「もしもし…」
 聞いた途端、涙が出るかと思った。
「先輩、あたし降りませんからね」
 昂ぶるでなく、気負いのない静かな声で若菜は決心を告げた。
「……よく考えて決めたの? コドモの遊びじゃもう終われないんだよ」
 解ってる? なんてまるで子供に念を押すみたいな口調。
 八重子先輩と同じこと云ってる。
 いつもと変わらない、落ち着いた声音。
 それがどうしてこんなに嬉しいんだろう…。
「それは先輩だけでしょ? あたしはまだまだコドモですから」
 後先なんて考える余裕もない。
「卑怯な手に出るなぁ…」
「本当に卑怯なのはどっちですか?」
「…この先どうなっても知らないよ、僕は」
「ほら、先輩の方が何倍も……何倍も、卑怯じゃないですか」


 新学期がはじまって学年があがって。
 またたくさん、いろんなこと経験して少しずつ大人になる。
 何かを失いながら。
 何かに毒されながら。
 最後に「ワタシ」はどれくらい残るかしら。
 あなたにもらったのはこの強かさ。



 先輩方、溺れ死ぬ時はご一緒に。


 great death game


 恋という深い湖。

 目の前にゆらゆらと落ちてきた足枷を嵌めると若菜は静かに湖底を目指した。
 「continue」と書かれた足枷。
 繋いだ手はもう離せない。



 そして水面には波紋ひとつ顕れることはない。



end


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