Dの蜜事



「青春は一度きりなのにー!」


 いまのは何だろうと思う間もなく。
 自分を追い抜いて行った叫び声が廊下の角をしゃかりきに曲がって行くのを、日向は近視の眼差しをやや細めて見送った。
 辺りに漂うピーチの残り香。そういえば昼休みに食堂でハデに喧嘩してるのを目撃したっけな。五限目が始まった今もソレはまだ解消されていないらしい。あの角を曲がった先には美術室しか並んでない筈なんだけど。選択美術の課題締め切りを今週末に控えた身としてはいまさら目的地を別の場所へと定めるわけにもいかない。困ったな…。スローダウンさせた足取りを日向が完全にストップさせたのは前方から歩いてきた人物が目に留まったからだ。
「切敷?」
 鬱蒼とした前髪の隙間から上履きの爪先辺りを彷徨っていた視線が日向の声でようやく目の高さまで持ち上がる。
「よう。何、課題?」
「うん、自画像の仕上げをやろうかと思ってね。それよりいま南が美術室の方に駆け込んでかなかった?」
「あー、ガラピシャッって勢いでDの戸が閉まってた」
「やっぱり」
 しかもよりによってDなんだ。美術室は五つも並んでるのに図ったようにそこを選ぶんだ。もしくはそこを目指してたとか? …ああ、そういうことか。今日、自分がDを使うことを知っている人間は限られている。
 切敷の手には何冊ものファイルが握られてて、上履きの先は美術室Dとはまるで逆の方向を向いていた。そこへ赴く意志がないのは聞くまでもないから口には上らせない。
「実行委員?」
「そう。ったくアレを委員長に据えたのは何処の誰だ?」
「さあね」
「実際やってらんねーぜ、俺はアイツの馬車馬かっつーの」
 そう云って伏せた切敷の視線が殊のほか憔悴、さらには疲弊気味で、日向はかの委員長の横暴振りが風の噂ほど生易しいモノではないことを知った。切敷だから尚更って説もあるんだけどね。
「実力主義の選抜なんだから素直に喜んでおけばいいのに」
「なら、なんで日向が入ってないんだよ?」
「キミらほど僕は優秀じゃない」
「…よっく云うぜ」
 呆れた視線が眼鏡越し、日向の肩をサラリと撫でてから強く双眸を見返してくる。日向は口元に笑みを浮かべるとそれを正面から真っ直ぐに受け止めた。一週間前、倉貫が公開研実行委員長の座に就任するなり行われた理不尽な選抜メンバーの中に当初は日向の名前も記されていたことを切敷は恐らく知っているのだろう。日向が実行委員逆指名などという憂き目に遭わずに済んだのにはもちろん幾つかの明確な理由が潜んでいる。けれど切敷にそこまで種明かしする義理はない。笑顔の後に言葉が続かないことを察した切敷がまた目を伏せる。
「ま、いまさら俺の出る幕じゃねーからさ」
「ああ…そうだね」
 南が倉貫と付き合い始めてからはお役御免の自覚なのか、切敷が南の世話を焼くという、いままであまりにも日常と化していた光景を校内で見かけることはほとんどなくなった。そしてそのシワ寄せはいま、目に見えて倉貫に降りかかっている。毎日のように食堂で繰り返される諍いや痴話ゲンカ。ひいてはそれが多忙となって切敷にも打ち寄せていたりするのだが、そこは切敷も甘んじて引き受けざるを得ない面があるのだろう。報いとは自分の身に返ってくることを差して云うのだから。
「云って置くけど、僕も倉貫にケンカを売るのは本意じゃないよ」
「別に無理にとは云わない」
 親離れ、と称して引いたラインを一番測りかねているのは恐らく切敷自身なのだろう。何処まで突き放していいモノなのか、考えあぐねているのが日に透かしたようにこちらからはよく見える。普段表情に乏しい人間ほど、反比例するように目の内が語るものだから。
「いいよ、引き受けようか」
 ほら、その一言で。瞳に安堵の波紋が広がってくのがよく見えるよ。
「要はケンカじゃなくて何を売るかだしね」
「…あー…、ああ…」
 一度天井まで上がった視線がすぐさま床に落ちて、それからゆっくりと目の高さまで持ち上がる。
「なるほど、そういう勢力図があったってわけだ」
「そのへんはご想像にお任せするよ」
 明かす気のなかった種を匂わせてしまったけれど、別に明かせない理由が自分にあったわけじゃない。あるとすればそれは倉貫の方にだ。
「つくづく日向の敵には回りたくないと思うよ」
「お褒めに預かり光栄の至り」
 切敷の携帯が鳴ったのを潮にその場を踏み出すと日向は曲がり角を折れ、真っ直ぐに美術室Dを目指した。



「あのね、食堂のおばさんが飼ってる犬知ってる? 茶色くてムクムクしたの」
「うん、見たことあるよ」
「アレがね、テラスで食べてる時に植え込みの向こうを歩いてたのね」
「うん」
「だから俺、それのこと指差してチャウチャウちゃんうちゃう? って」
「云ったんだ?」
「なのに倉貫ったら、かもな、の一言だったんだよッ?」
 憤慨極まりない、といった表情で南が体育座りのまま抱えた両足をジタバタと暴れさせる。
 つい数分前、日向が美術室の扉を開けるなり飛び込んできた景色はいまも変わらぬまま、目前に展開している。部屋の隅でジッと体育座りをする必要性が南の脳内にはあるんだろう。
「それが南は許せなかったの?」
「だって! あんなにも解りやすい前振りしてんのにソレはないでしょ! 青春は一度きりなんだよ?」
「青春はともかく俺も南に振られてそう返せる自信はないよ」
「キリシキなら100・パー・なのにッ!」
「うん、でも倉貫は切敷じゃないからね」
「ウン」
 南の言い分は聞き始めたはいいが、 どうも子供電話相談室的なノリが色濃いような気がしてならない。南の場合、言動の裏にあるモノを見透かさなければいけないからある意味、子供相手より骨が折れるのだが。

 美術室の扉を開いた瞬間、弾かれたように振り返った南の視線。日向の姿を認めた途端、力なく逸らされた眼差しが待っていたのは…。

「南は倉貫と夫婦漫才がしたかったの?」
「ううん、ただパソコンから顔を上げてほしかっただけ…」
「カワイイね、南は」
「あ。いまのそれもっかい電話口で云って!」
 南がリダイヤルボタンを押した携帯を慌てた素振りで放り投げてくる。
「残念ながら電波届かないって云ってるよ」
「倉貫のバカ!!」
 あからさまに不貞腐れた南が床に転がろうとするのを制すると、今度はデッサン用の猫足ソファーに投げた身を小さく子供のように丸めた。要はそういうことなんだろう。ここまでの悪癖をつけさせた切敷の有罪さ加減を横に置いたとしても、南自身そんな自分を多分に持て余しているのだ。これは倉貫でも相当手を焼くな。振り向いた南の視線が求めていたのは明らかに俺でも倉貫でもなかったから。



 泣き疲れて眠っちゃうなんて、本来幼稚園児以下にしか許されない行為なのにね。南がそれをする分には誰も咎めようとはしない。それが保身であることを知ってる数人は尚更のこと。目を引く容姿が自分に招く不幸を知っているからこそ、身につけた自衛なんだろう。
 長針が文字盤を二周したところでようやく課題の仕上げが終わった。南の頬を濡らしていた涙もいまはすっかり乾いている。ヒトは傷つけられて初めて自衛を学ぶ生き物だから、南の胸にも何らかのトラウマがいまも小さく息衝いているんだろう。それはきっと南も気付かないほど昔につけられた傷なのではないか、そんな気がした。傷を癒してくれるのがどっちなのか、南自身が量りかねている部分を知っているからこそ、切敷は親離れの線を引き、倉貫もこうして突き放す機会を与えるのだろう。以前、倉貫に云われた言葉を思い出す。いまは「どっちが?」って云ってやりたい気分だよ。キミらの方がよっぽど難儀に見えるけどね。
 筆を置いてから数分と経たないうちに、美術室の扉がノックもなしに開かれた。
「終わったの?」
「まさか。合間見て抜け出してきた」
「戻る気ないくせに」
「アタリマエだろ。最高責任者は俺だぜ。どうとでも後から償ってやるよ」
 南のコートや自身の身の回り品を入ってすぐのラックに引っ掛ける。今回から規模の拡大化を図った行事の所為で実行委員の蒙った被害は想像以上に甚大だろう。さすがの倉貫といえど疲労の色は隠せていない。一区切りつけてココに向かうために、どれだけの尽力を払ったのか憂えた視線が物語っている。
「南なら泣き疲れて眠ってるよ」
「ガキじゃあるまいし…」
「そうだね」
 だからこそ、その裏を確実に読まなくちゃいけないんだけど。自分に見えてるそれが倉貫に見えてない筈はないから。
「…解ってても俺にはどうしようもねーよ。選ぶのは南だ」
「南はもう選んでるよ。その答えを尊重してあげればいいのに」


 上から見れば簡単な迷路も中に入ってしまえばどれも迷い道にしか見えない。いままで切敷に手を引かれて歩いていた迷路を南はいま一人で歩いているのだ。倉貫の待つゴールを目指して。


「Dに追い込んだ甲斐はあった?」
「…日向には借りばかりが溜まってくな」
「それはお互い様だよ。俺じゃどうしたってあの家の中までは窺い知れない」
 八重子の父親と倉貫の居候先の伯父とが血縁関係にあるのを知ったのが高二の冬。そこに繋がる線さえ知らなければ、自分が、八重子が、そしてあのコが、棘の道に足を踏み入れることはなかっただろう。因果や縁というものは個々人の力でそう断ち切れるものではないからこそ流されたんだ、というのはあくまでも自分に対する言い訳でしかなく、免罪符になるものでは到底ない。その償いを、せめてもの罪滅ぼしをするのが自分に科せられた責任なのだといまは思える。視界はクリアだった。
「悪い病気は治まってるらしいぜ」
「よかった。そう簡単に再発されちゃ困るよ、俺も、あのコもね」
 片付けを終え椅子にかけてあったコートを手に取る。帰りがけ、課題が完成したことを美術研に告げていこうと思う。これでもう放課後Dに自分が篭ることはない。切り札はそう何度も使えるものじゃないから。その程度の心得ぐらいはどちらの胸にもある。眠る南の頬に倉貫がそっと掌を寄せた。南の表情がほんの少しだけ安堵に緩む。


「青春は一度きり、だってさ」


 南からの伝言を最後に伝えると、日向は美術室Dを静かに後にした。


end


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