Cold Cold Ground



 ココも寒いけど、アッチはもっと寒いんだろうなぁ。


 マスクでこもった熱い息をリサイクルしながら、働かない頭で黒板を眺める。赤いチョークで書かれた「教室変更」、の右に白で書かれた「多目的ホール」の文字。
 ああ。そうか、それで教室には人がいないのか。
 いまさらのように現状について納得しながら、そういえばつい五分前にも同じような思考を辿った気がする…。いや気のせいでなく。
 その既視感のような紛れもない事実に舌打ちすると、俺はマスクを少しだけズラして冷たい空気を肺に送り込んだ。
 ヒーターでさっきまでガンガンに乾かされてた空気が腫れた喉をザクザクに切り裂く。
 痛い。いや、痛いなんてもんじゃなくて。
 焼けたナイフを喉奥にピッタリ突きつけられてるような感じだ。それが嚥下のたびに、たかが呼吸のか細い息でさえ、確実に食い込んでじわじわと赤い血を噴き出させる。
 ウワ、想像だけでも痛そうじゃないコレ?
 でもホントそんな感じなんだよね。比喩でなく。まさにそうとしか。うー痛い。とりあえず痛い。めちゃめちゃ痛てェ。死ぬほど痛てェ!
 知れず浮かんだ苦痛の涙を指先で拭う。
 つーか全然効かねーじゃんかよ、あのヤブ医者…。なーにがカプセル一つで治っちゃいますよ、だ。勝訴するぞコノヤロウ。
 市販の噴射式ノド薬を一噴き。これがまた死ぬほど痛くて、遠慮のエの字もなく顔を顰めてみる。つーかさ、一噴きごとに死を覚悟するなんて正気の沙汰じゃなくない? なんか、武士の心得みたいでカッコイイーとか云われちゃうとさ、その気にならなくもないんだけど。あーもちろん解ってますよ、明らかに俺の気のせいなんでしょ? 知ってますとも。
 わー、俺一人で漫才ヤッてるー。
「ケホ…」
 しかしこの時期に風邪なんか引き込んじまうとはなァ。受験組じゃなかっただけまだマシか。
『しばらく俺らに近づくなよ』
 人差し指まで突きつけて命令しやがって、アンニャロウ。
 何ですか? 所詮友情なんてなー、そんなもんですか?
 アッサリ受験に負けちまうってわけ。うーわ何、そんな果敢無い絆だったの? 俺たちが六年もかけて温めた友情よ?
「ケホッ」
 ま、当然の話。むしろ俺が逆の立場なら、迷うことなく学校から叩き出してるところだね。こんな風邪っぴき。百害あってまた百害ってなもんだよ。コレは。
「ぅ、ゲホゲホ…ッ」
 蛙が潰れたみたいな咳が出て我ながら滅入る。


「呆れた。ホントに重病人なのね」
 振り返る気力もなく冷たい机の上にダラリと項垂れる。関節が痛い。
 おうおう、ヤべーな。また熱上がってきてんじゃねーの? やだなー性懲りもなく。もう俺の体ってばオチャメさん。
「んなトコで見てっと拝観料取るぞ」
「イイわよ払ってやろうか。いくら欲しいわけ?」
「…ムカつく女」
 コツコツと近づいてきたヒールが机を回り、黒板の前でくるりと反転する。ちょうど机三個分離れた距離。この期に及んでまだヒールを履くかね、この女は。
「家で大人しく寝てりゃいいじゃない」
「おまえな」
 一人暮らしの自宅療養がどれだけ空しいか知らねーな?
 云いかけた台詞をブツリと断ち切って。その後どう続けるべきか、ほんの一瞬だけ迷ってから。
「飽きるんだよ、ただ寝てるなんてな」
「あっそ」
「それにだぜ? 考えてもみろよ、卒業前の貴重なスクールライフなのよ? 少しも無駄にはできんでしょう、やっぱり」
「あらそう。そんなに通いたきゃ留年すればよかったのに」
「さすがにそこまでは親不孝になれない」
 しごく当然のように続けられた会話に、如月が「バカらしい」の一言で終止符を打つ。
 照明の消えた室内で真っ黒い如月の髪が重い空気のようにうねってた。そうやって無闇に髪を弄るのは何か云いたいことがあって云えない時、だ。

「貰えるもんならウィルスでも有り難いってわけね。甲斐性もなけりゃ節操もないもんねアンタって」

 核心に一気に踏み込んだ、と見せかけたフェイント。
 それに俺が引っ掛からないのも重々承知。
「ちなみにそれどっちだった? 人妻説、それとも女教師説?」
「重役秘書説よ」
「ウワ、新説だソレ。つっても誤報ばっか飛んでんだけどさ」
「誰もウワサに正確性なんて求めてやしないわ」
「そりゃごもっとも」
 願わくば俺の馬鹿な逡巡を悟られてやいませんように。
 上げた視線の先、如月の表情にこれといった変化はなかった。
 危うく失言に繋がるところだったな。熱に浮かされてたなんて理由じゃすまない。
 自分で自分に心底ハラが立つ。しかもこっちが気ィ遣ったのなんかバレやがると、さらに大激怒するしな。この女。ホント始末に負えねー。


 その事実を、俺は如月の口から直接聞いたわけではない。
 共通の知り合い筋からたまたま、本当に偶然耳にした話だった。そのまま誰にも云わず胸にしまってカギを閉めたから、学校でそれを知る者はほかにいないだろう。如月妃名子が七月の二十日に未亡人になったという事実を。
 先が短いだろうってことは知ってた。でも正直、こんなに早いとは思ってなかった。
 突然の婚約、性急な入籍、けれどそれらは全て周到に用意されてた婚姻。
 生き急ぐかのような蜜月はたった七ヶ月。雪中花が咲き誇る頃始まったそれは、百日紅が咲くよりも前に呆気なく終わってしまった。せめて藪椿まではもつだろうなどと口々に囁かれてた明け透けな予測・頭の軽い楽観視をよそに。
 周囲の物見高い視線はただでさえ他人を拒んで止まなかった小石川の門扉を堅く閉ざした。そしてその門が次に開いたのは通夜の夜だった。
 真っ黒い着物に身を包んだ如月は終始、棺の横で白百合の束を抱えていた。結い上げた長い髪と同じように、きりりとした視線は絶えず前に向けられていた。
 あの目は彼岸を見ていたのだろうか。
 通夜も葬式も終わり、ポッカリ開いた俺の心象とまるで同じように空虚だったアパートのポストに、夏休み初日、一通の葉書が届けられた。「ひなこを頼む」 たった一行。字間に悔しいだとか、和紙の隙間にこの盗人めとか。絶対書いてあんじゃないかと思って、死ぬほど目を凝らしたけど見つかんなくて。表書きも何もかも、あまりに達筆でそれだけで泣けてきた。


 如月は知っていたんだろうか。
 夏彦さんがこんなにおまえを思っていたこと。
 身を焦がし溢れて已まない思いのあまり、憎い俺にこんな葉書送って寄越すぐらいあの人おまえに惚れてたんだよ。なーに大丈夫だって、夏彦さん。俺だって墓場に持ってくべき秘密の色ぐらい、上手に見分けるさ。そのへんはさすがに信用してるでしょ?


「侘助って知ってる?」
「椿の一種だっけ。太郎冠者とか」
「今日起きたらね、庭中であれが咲いてたのよ。ポカンと途方に暮れて、親に捨てられた子供みたいに口あけててさ」
 ひどく無邪気に。そして嘲笑うように。
「あれが咲いたらもういいからって云われたわ。君が僕を捨てていい目印にしようって。あの人がそんなこと云ってたの思い出したから全部切ってきてやったわ。一つ残らず」
 如月がそうすることぐらい夏彦さんも解っていただろう。
 ……そうか、あの一行はそういう意味なんだ?
 それともまた別の意味を孕んでるの?
 推し量ることは叶わない。あの人がどれだけの未来を先に見透かしていたかなんて。凡人の俺にはきっと一生解らないだろうよ。
 如月の髪が揺れる。凛とした眼差し。化粧でことさら強調しなくたって、余裕でマッチの二、三本ぐらい乗っちまうような長い睫毛。あそこに涙が絡んだらユメのように奇麗なんだろうなーとか俗な俺はたまに考えるんだけど、でも如月は泣かない。もしかしたらコイツの辞書にはそんな文字すら載ってないのかもしんないけど。
 そこがまたコイツらしいわけで。
 如月を「妃名子」って呼んだのは中三のほんの一ヶ月くらいの間。
 アイツはいまでもたまに俺を「天」って呼ぶけどな。


 好きな男と添い遂げるまでの間。
 齢十八の身空がたった一人で死に水を取るまで。
 俺は何の手出しも許されなかった。惚れた女が俺じゃない男と結婚して周囲にも国にもオメデトウなんて祝福されながら仲睦まじく暮らしてる様をただ横で指咥えて見てるだけ。それが俺と妃名子の約束だったから。したらコイツ、子供まで宿しやがってさ。
 八月に入って如月からそれを聞いた時、俺はハラワタが煮えくり返るよりも前にボロボロと大粒の涙を零していた。人前だったけど、公衆の面前だったけどそんなことぜんぜん気にもならなかった。ヨカッタなって、心から思った途端もう止まらなかった。真夏のスタバでアイツはしばらく途方に暮れてたけど、ぜんぜん泣き止まない俺にさすがに同情したのか、最後には「はい」と云って白いハンカチを差し出してくれた。
 つーか、オマエに同情してる俺が何でオマエに同情されなきゃなんねーんだよ…。話違くない? ま、いーけどサ。
 夏彦さんが死んだから次は俺の番、とはとても思えなかった。忘れ形見でもいい。あの人がこの世に生きた証を、如月は誰の目にも解るように残したかったのだから。心からオメデトウって云えた。俺がそう云うと如月はちょっとだけ泣きそうな顔をして、でもやっぱり泣くことはなくて、それから小声で「アリガトウ」って云った。「アリガトウ、天」って。その薬指にはまだあの銀の環っかが嵌まってた。俺は如月を妃名子とは呼ばなかった。


「花も咲かないような土地に行きたいのよ」
 寒くて寒くて、空気も土も何もかも凍りついてて、緑が根を張る余地なんてどこにもないくらい冷え切った土壌がいい。
「アンタまさか、カナダがそうだとか云ってんじゃないでしょーね? 咲き乱れてますよ花ぐらい」
「藪椿さえいなければいいのよ、侘助さえね」
 台詞につられて視線を上げると、この世のものとは思えないぐらい美しい女がそこに立っていた。纏う幽玄は小野小町か、楊貴妃か。って、とんでもねー。…イヤとんでもねーのは俺の色眼鏡か。熱出てきたのかもしんない。
 膨らんだ腹部に沿って組まれた細い指。そこに銀の制約は嵌まってなかった。

 危ねー。風邪とか引いててまじよかった、俺。
 机三個分の距離は俺と如月のセーフティスペースだ。理性と狂気とを隔てるライン。けして縮めてはならないディスタンス。踏み越えてはならない最終ライン。たぶんさっきまでは。
「まあ、いいや。身軽んなって落ち着いたらこっちきてもいっスよ」
「解った。ヒナコと二人で行く」
「ヒナコ?」
「娘の名前よ。ヒナコにしようねって二人で決めたの」
「…あー、そっちね」
「何が?」
「なんでもない」
 そっちなんでしょ、夏彦さん? へーえそうか、そーゆわけね…。イヤいーんだけどさ、別に。フゥン。あーそう。あんなインテリ顔して子煩悩……あ云っちゃった! ヤっベ、いまの聞かれたかな? あの人、そういう冗談受け付けないヒトだからなー。あの世でめちゃめちゃ怒ってそう。それとももしかして笑った?

「ホントはあたしだって解ってんのよ」
 八ヶ月目に入ったヒナコを右手で摩りながら妃名子が唇の端をキュッて上げる。
 なんか久しぶりに見るかもその笑顔。中学以来。会心の笑顔って感じ。
 履いてたヒールを脱ぐと勢いよく黒板にぶつける。両ヒールとも見事にぶち折ると、如月はヒョイと二つとも放り投げてしまった。開けっ放しだった窓から外に。
「妃名子さん?」
「当然、クツぐらい貸してくれるわよね? 妊婦を裸足で歩かせやしないわよね?」
 脅しじゃんソレ。とりあえず俺の古びたアディダスを提供すると、ほっそりとした白い足が馬鹿でかいスニーカーの中に埋もれた。シンデレラはかなりご不満の様子だ。
 でもどっちかってとアンタ、白雪姫に出てくる魔法使いの方でしょ? あの悪知恵の働く悪の女王。わ、ピッタリ。
「…いまなんか下らないコト考えてたでしょ?」
「あれ、電波出てた?」
 そう云って見上げた先。
 ほんの一瞬、少女のような恥じらいが整った白い面をかすめていった。
 ちょっとそれは反則でしょう、妃名子サン…。
 胸の底で眠らせてた気持ちをがんじがらめにしてた錨が巻き上がりはじめる。
「えーと、妃名子さん。いままで云えませんでしたが…」
「ストップ。こんな所で云ったりしたら散弾銃ぶちかますわよ」
 散弾銃ぶっ放す妊婦。ファンキーでかなりクレイジーな図式だ。
 いや素敵。ステキ過ぎです。きっと貴方のヒナコさんもそんな娘に育っちゃうんでしょうね。ああ、末恐ろしい。
「ヤだね、云っちゃうもんねー」
「ちょっと!」
「ね、俺と暮らそう? 俺とアンタと三人でさ。仲良く楽しく一生やんない?」
 たぶん云うの早過ぎ。時期尚早にも程があるって感じ。でもいま云わなきゃもう二度と云えないと思ったから。先手必勝とかよく云うじゃん?
 俺さ、コレ云うまで何があっても死ねないって思ってた。
 でなきゃ死んでも死に切れねーーーって。でもむしろ逆だね。
 コレ云ったらもう死ねないんだね。いま初めて気付いた。
「ね、そうしよ?」
 右手を差し出して、その中に白い手が収まるのを辛抱強く待つ。もしかしたら今日中には…いやそれどころか卒業ぐらいまでアイツは俺の手を取らないかもしれないけど。
 呼吸の度に切り裂かれるような痛みが喉の奥に走る。でも大丈夫。俺は死なないからさ。キミを独りぼっちにはしない。約束するからさ。…ナンテ云ったら夏彦さんに呪い殺されちゃいそうだけど。

「とりあえずあんたの風邪が治ったら考えるわ」

 ブカブカのアディダスが教室を出て行くのを見送る。指先にくるくると前髪を巻きつける仕草。すごい久しぶりに見たその仕草に俺は思わず心の底からイエス!! と叫びそうになった。
 直後に思い切り噎せて、危うく三途の川を渡るところだったんだけどね…。
 彼氏彼女だった一ヶ月間、妃名子がたまに見せるその照れ隠しは三年経ったいまも変わらず、俺の胸に柔らかな火を点してくれた。


end


back #