cloudy
「春日」
イヤホンの向こう側。名前を呼ばれたような気がして振り向くと、三組の教室から千鳥格子に顔を埋めた設楽が顔を覗かせたところだった。片耳のイヤホンを落とす。今度はクリアな音声が白い息交じり、自分の名前を呼んだ。
「コレ。こっからやりたい曲選んでくれよ」
「お、サンキュ」
「ただ曲順バラバラになっちまってるから、よかったらいま聞きながら説明しちゃいたいんだけど」
「あーオッケ」
アシッドマンを抜いた隙間に渡されたMDを呑み込ませてプレイボタンを押す。落としたままだったイヤホンを設楽に渡したところで気だるいイントロが右耳に響いた。
「えーとね、これは俺がやるヤツ。つっても、春日がやりたきゃ別に譲るけど」
「うーん、俺はもう少しパンチ効いたのがいい」
「パンチねェ」
遠い山並みが白く煙る。教室を一歩踏み出るだけで視界を白く切り替える吐息。まだ十一月だというのに今日の冷え込みはやけにキツかった。ボア付きで来たのは正解だったな。でなければこんな吹きっ曝しのベランダで呑気に音楽なんか聞いている場合ではない。手摺りに引っ掛けたイスに腰掛けながら宙に浮いた足で白い息を蹴散らす。途中三曲ほど飛ばしたところで「これは?」と設楽が白い声を吐いた。
「あ、いーかも」
「だろ? これなら覚える歌詞も長くねーしな」
「俺コレ。これにする」
「云うと思った」
右耳のビートルズに対抗するように、左耳からは二組の数学の授業が聞こえてくる。三組の連中は今頃、理科室Cで橋元のミヤゲ話に付き合わされている頃だろう。齢三十にして初めて海外旅行に行ったという化学教師の授業時間が、今週はめっきり思い出話に費やされているという噂はガセじゃないらしい。理科室に向かったはずのメンツが続々と戻ってきては教室に溜まっていた。
「カースガ」
左耳にありがたくない声を聞いたような気がして匡平は慌てて両耳を塞いだ。だが同時に後ろから思いっ切りフードを引っ張られて、仕方なくそちらの方角に胡乱な眼差しを振り分ける。すると窓から身を乗り出した早乙女がニッコリ笑顔でこちらに手を振っていた。脱色してる割には傷みの少ないサラリとした茶髪。アーモンド形の瞳に憂いを滲ませて薄い唇に笑みでも浮かべれば充分オンナには苦労しない顔立ちだろう。あのクチさえ開かなければね。
「なーによ、ずいぶんな態度なんじゃなーい?」
最近買い替えたばかりだという携帯を、ストラップでぐるぐると回しながら早乙女がツンと唇を尖らせた。
「…何の用だよ」
「人がせっかく! 親切に教えてあげようと思ったのにィ!」
この世の中に早乙女の親切ほど傍迷惑なものもない。どうせロクなこと云わないだろうという予測の通り、早乙女が続けた台詞はロクでもなくて。匡平はゲッソリ肩を落とすと冷え切った背もたれに背中を預けた。
「アンタの彼氏、カウンセラー室でセーラー服のオンナノコ膝に乗っけてたわよ」
「へーえ」
「いいのォー、そんなコト許しちゃってェ?」
許すも何もやっちまってるモンはもうしょうがないだろう。だが許した覚えは当然ない。あのクソオトコ…。
「悪い、シタラ。急用が出来た」
「のようだな」
「コレ預かっといてくれよ」
右耳から引き抜いたイヤホンとウォークマンとを設楽に押し付けて上体を起こす。手摺りの隙間からヒョイっと足を抜くと、匡平は猫のような仕草でコンクリに着地した。
「なんだアイツ発情期か? こないだもオマエら、揉めてなかったっけ?」
「アイツは万年発情期なの」
「あーなるほどネ」
「キャ、発情! あたしも発情したーい!」
騒がしいオネエは全面シカトの方向で踵を返すと「あ、春日」設楽の白い息が匡平を呼び止めた。
「蓮科にリンキンパーク返すよう云っといてよ」
「リョーカイ」
「バカ犬はリードで繋いどくに限るぜ?」
伸びてきた設楽の手がクシャリと匡平の黒髪を掻き回した。
「もしくはハムラビ法典な」
顔も器量も設楽は恐らく学年一だ。そんなヤツが相手ともなれば少しはアイツも危機感を覚えるだろうか。こんなふうに焦ったりとか、チキショーって思ったりとか。少しはアイツも知ればいいんだ、この不安と遣る瀬無い気持ちとを。
「いーねソレ。そん時は設楽、相手してくれる?」
「いつでも云えよ」
「サンキュ」
約束を果たす気なんて全然ないけど。それでも少しだけ心が軽くなった気がした。教室の後ろを抜けて廊下に出る。室内だというのに真っ白い息。ボアのフードを頭からすっぽり被ると、匡平は身を縮めながら小走りに廊下を進んだ。第一校舎から第二校舎へと続く連絡路を渡る。図書館の前を通り過ぎて六組の教室に差し掛かったところで。
「春日ーっ!」
またしても自分を呼び止める声があった。どちらかというとアルト寄りのソプラノ。この声は振り向かなくても知っている。小柄な体にめいっぱい素直さと元気を詰め込んだような性格。声の調子からすると今日も変わらず元気なんだろう。授業中だというのにこのバカ声だからな。
「若菜、声デカ」
「デカくもなるわよッ」
匡平と同じように寒さで小さく身を縮めながらも、文句を云う口は驚くほどデカイ。そんなコト思ってもクチには絶対しないけどね。云えば弓道で鍛えられたあの筋肉で、どんな技を仕掛けられるか解ったもんじゃない。いまでも一個下の弟とプロレス技でケンカしてギブを取るというのだから、これは相当の実力者だ。
「うちのクラスのヒーター壊れちゃったのよ! このクソ寒い日に限って!」
「そら、ご愁傷サマ」
「もうホントやってらんない…」
そう云って両肩を抱き締める小柄なシルエット。見ると六組の教室はモノの見事に空っぽだった。すでに教室であることを放棄したのか、電気すらついていない。恐らくは三々五々、それぞれ暖を取れる場所へと散っていったのだろう。教室備え付けのヒーターはドコもそろそろガタがきていることを考えると明日は我が身だ。匡平の胸中でクルクルと木枯らしが渦を巻いた。そんなコトになったら絶対、登校拒否してやる…。
「で、若菜もこれから避難?」
見れば鞄からコートから手袋マフラーに至るまで全て身に着けたフル装備状態だ。童顔で小柄だからか、まるで田舎に疎開してく子供のようにも見える。もちろんそんなコト、口に出してはとても云えないけれど。
「そのつもりだったんだけどさー、顧問に呼ばれて道場行かなくちゃなんなくなって」
「暖房あんのか、あそこ」
「ないない」
「つーか、それ以前にそれ着て来たワケ?」
「うん。だって起きたら遅刻スレスレだったんだもん。慌てて引っつかんで出て来たらコレよ」
それはどこからどう見ても春モノのステンカラーコート。こんな薄っぺらいモノ、何枚着てたところで防寒の役目は果たしそうになかった。これでネタだったら相当捨て身のネタだよな。思わずポロリとそう零したら「んなワケないでしょッ!」と背中を一発グーで殴られた。若菜ならボクシング部に入っても充分やってけると思うよ…。
「しょーがねえな」
手早く脱いだボアジャケットを華奢な肩にバサリと被せる。ここで見捨てたらオトコじゃねーもんな。この際、自分は二の次だ。ただでさえ丸い目を真ん丸にして、若菜がぽかんと口を開いた。
「んなデケー口開けてっと虫が入ンぞ」
黒地のチェックマフラーを口元まで引き上げてやる。もう一発ぐらい殴られるかと思って内心覚悟してたら。
「…イイオトコんなったじゃん、春日」
ニッと鼻先にシワを寄せて若菜が満面の笑みを浮かべた。
「あのままフラなきゃよかったかな」
「惜しいことしたろ?」
「あたし昼休みになったら帰るから、それまで借りてるね」
「おう、カゼひくなよ」
身軽になった体を一層縮めて廊下を走る。
「あ、春日ッ」
声と同時、こちらに向かって投げられたマフラーを空中で受け止める。見覚えのあるチェックのマフラー。
「それ蓮科の。忘れてったみたいだから届けてやってよ!」
「あいよ」
「ヨロシク伝えて」
「アイツは今頃、別件でヨロシク中だぜ」
「やー懲りないヤツー」
角を曲がって、手を振る若菜が見えなくなったところで。
「でも蓮科、春日いなかったら絶対生きてけないよ!」
あのバカ声が廊下中に響いて背中を追ってきた。思わず吹き出す。だーから授業中なんだっつーの。おかげで上着を脱いで寒いはずなのに胸の辺りだけはポカポカとやけに暖かかった。中央階段で二階まで下りて大音楽ホールの前を通り過ぎる。この先、音楽科の研究室を超えたところにカウンセラー室がある。ノックもなく扉を開けたところで匡平は早乙女の策略をようやく悟った。そーゆうことかよ…。
「よう、どうした?」
確かに蓮科の膝の上にセーラー服のオンナノコが乗っている。一歳ぐらいの。セーラーカラーのベビー服がなんとも愛らしくて微笑ましかった。
「おまえの彼女?」
「そう。可愛いだろ?」
カウンセラー室の主・香坂にそういえばそのぐらいの子供がいたような気がする。少し暖房が効き過ぎてるのか、プックリとした丸い頬はピンク色に染まっていた。蓮科のタイに横顔を預けて、ウトウトといまにも眠り込みそうに揺れる体をゴツイ掌がしっかりと支えている。ほんのり室内に漂っているこの甘さはミルクの匂いだろうか。
「オネエに何か吹き込まれてきたな?」
察しのいい相手を前にこの場を取り繕ろえるほど匡平は器用ではなかった。アッサリ白状すると英嗣はやれやれといった呈で首を傾げた。早乙女は嘘だけはつかない。それを知ってるからこそ匡平はココまでやってきたのだ。確かに嘘はついてねーけどな…。早乙女という人間は嘘はつかないが人を欺くのが何より好きなのだ。これがあのオネエの本当に性質の悪いところ。過去にも何度騙されたか知れない。なのに、ついつい引っ掛かっちまうんだよな。
「三限までベビーシッターやってんだよ。それが難民受け入れの条件だって云いやがるからさ」
「難民?」
「暖房難民。高二と高三でもイカれたらしいぜ、ヒーター」
「…まじで明日は我が身だな」
三限終了のチャイムが鳴ってもしばらく香坂は帰ってこなかった。眠る子供を間に橋元のミヤゲ話を又聞きする。初海外のくせにヒッチハイクしてヒドイ目に遭った話とか、これはもうかなり抱腹絶倒だった。すっかり寝入ったコのために笑い転げたいのを必死に堪えた所為で明日は確実に筋肉痛だろう。こんな話が聞けるんだったら理科室行っときゃヨカッタな。明日五組の二限が橋元だから潜り込むか?
「で、太腿に運命感じた橋元はそのストリッパーに一目会おうと裏口で夜通し待ってたらしいぜ」
「まじで?」
「で警官にしょっ引かれて、こっからは拘置所篇よ」
「アハハッ、橋元チャレンジャー過ぎ!」
言葉の合間、合間。シュンシュン…と耳に残るヤカンの音。石油ストーブに乗せられたソレが白い息を吐くたび、部屋の中央をその名残りがゆっくりと横切っていった。曇り切った窓ガラスの向こう、その曇りに溶けてしまいそうなほど白い雲が棚引いている。まるで同じように見えるのに片方は触れる指を灼き、そして片方は芯まで凍てつかせる。
さっきまで凍えて痛んでた指を、匡平は目の前のゴツイそれに重ねた。
「…アツ」
「春日の手も熱いよ」
もういまは同じ体温。それがなんだか無性に嬉しかった。ともすればココから融け合って一つにだってなれそうな気がする。もしもそうなれたらどんなに楽だろう。そしたらもう悩むことも苦しむことも、泣くこともきっとないだろう。
「なあ、知ってる?」
「ん?」
「今年、最初の雪を手にすると願い事が叶うらしいぜ」
絶え間ない湯気の向こうで白く霞んでる空を見上げる。それはいまにも雪の一片を振り落しそうに見えた。
「春日にしてはロマンチックだな」
「男はロマンチストであるべきなんじゃねーの?」
「誰の受け売りだ、それ?」
「ハチスカ」
「俺かよ」
四限が始まってからようやく現れた香坂に子供を委ねて、匡平は英嗣と共にカウンセラー室を後にした。非常階段を昇って三階まで戻る。あれだけ暖かい部屋にいた所為か、刺すような外気もいまは逆に心地よかった。手摺りに凭れて深呼吸する。凍りそうなほど冷たい空気が肺を満たした。それが堪らなく気持ちいい。
「雪、ホントに降ればいいのにな」
思ったよりはしゃいだ声が出て思わず頬が熱くなる。隣りでクスっと英嗣が口元を緩ませた。ちぇ、雪を心待ちにするなんて子供みたいだと思われたかな? でもしょうがない。大人になんてまだなれないし、それに自分たちがいる領域はひどく危ういものだから。大人でもない。子供でもない。たぶん自分たちは大きい子供で、そして小さい大人なんだろう。
「もし降ったら俺が最初の一片をつかんでやるよ」
急に近くなった声が匡平の耳元に低音を吹き込んだ。背中に英嗣の体温がそっと押し当てられる。
「俺が春日の願いを叶えてやる」
英嗣の開いたモッズコートが匡平の体を後ろから包み込んだ。同じ体温が、同じ熱を持つ体がすぐそこにある。白い溜め息が耳元を掠めていった。英嗣の両手が匡平の腰を柔らかく抱き寄せる。
「そしたらおまえの願いは俺が叶えてやるよ」
その腕の中、猫のようなしなやかさで体を反転させると匡平はコートの内側に両手を回した。この鼓動は一体どっちのモノなんだろう? この僅かな震えは、耐え難い衝動は、抗い切れないこの感情は一体どこからやって来るんだろう?
重ねた吐息。与え合う熱。
「んっ…ぅんン…ッ」
触れ合う箇所全てから融けていくような気がして、匡平は英嗣の体にキツク縋った。時間の感覚がなくなるくらい互いの熱を貪り、求め合う。
ふいに誰かに呼ばれたような気がして匡平は目を開いた。真っ白い風景の中、そこにいるのは英嗣一人だった。目に映るのも。声をかけるのも。頬に触れるのも。他の誰かじゃなくて、ただ一人。
「春日…」
濡れた頬を雪風が撫でていく。その冷たさがまるで雪の破片を集めたようで匡平はもう一度目を瞑った。英嗣の熱い指と自分の頬との間で雪のカケラがいくつも潰れる。
その冷たい感触。
たぶんいま同じ願いをこの同じ胸に抱いているだろう。
開いた瞳に映る景色もきっと同じ。
「あ…」
どれだけの間、抱き合っていたのか。ココが学校であること、第一校舎からは丸見えであることを思い出して匡平は大慌てて英嗣の腕の中を逃れた。
「なんだ、夢から目覚めちまったか」
「バカ、おまえ…こんな…!」
「これ、俺のマフラー?」
ブレザーの内側に突っ込んであったバーバリーを英嗣の手がズルズルと外に引き出す。あーそうだよな、オマエの辞書に節操だとかTPOって文字はねーんだっけ…。
「…若菜から預かってきた」
「ふうん」
太い首筋を北風に晒したまま、だが英嗣はなぜかそれを首に巻こうとはしなかった。
「ふーん、じゃなくてサッサと巻けよ?」
さっきまで体を密着させてた所為だろう、モッズコートの擁護を離れたいま、匡平は雪山で遭難したような心地を疑似体験していた。サムイ、サムイ、うーわ寒過ぎる…。ああ、そうか。こうすりゃいいんじゃね?
英嗣の手からバーバリーを奪い取ると匡平はその端を自分に巻きつけ、もう一方の端を英嗣の首に巻きつけた。また近くなる体温。けれどさすがに気恥ずかしいから向き合ったりはしない。隣り合ったまま視線を合わせる。
「設楽に云われたんだよ、盛りの付いた犬はリードで繋いでおくに限るってね」
これならもうあちこちフラフラされることもない。リードの片端はきっちり自分が持ってることだしね。
「なるほど。春日は設楽とずいぶん仲がいいんだな」
耳元で発された低音の裾が、なぜかゾクリと匡平の背を撫でた。同時にブレザーに回った腕で匡平の体をグッと抱き寄せる。
「へ?」
「春日が来る少し前に早乙女から電話が来てね」
不吉な名前がもたらした悪寒。それは心無い悪魔の戦慄に満ちた予告に他ならなかった。
「おまえ、設楽と浮気の約束したんだって?」
「し、してない! 全然してない!」
「しかも自分から誘ったらしいじゃねーか」
「まさかっ、そんな!」
「万年発情オトコで悪かったな?」
「滅相もないッ!」
そそくさと離れようとする匡平の体を英嗣の腕が力強く何度も引き戻す。ヤバイ。ここは白を切り通すしかない。
「つーか、早乙女の云うことだろ? アテになんねーって!」
「残念。実況中継だったんだよね」
その一言で。
匡平は体中の血の気が引いていくのが解った。
そういえばあのオネエ、携帯ぐるぐる回しながら笑ってたよな…。もしかしてそういう意味で笑ってたのか? いやたぶん…そうなんだろう。気に恐ろしきは早乙女というオトコ。
「でも、何の証拠もな…」
「あの会話、シッカリ録音済みらしいぜ。さすがは早乙女っていうか。な?」
その穏やかな物云いが怖い。そのにこやかな微笑みが怖い。これはどうも弁解の余地がないらしい。
英嗣を繋いでおくためにつけたリードが逆に自分をも繋ぐそれに変わるとは…浅はかであった。ようやくそれに気付いた匡平がマフラーを振り解こうとした時にはすでに遅し。
「今晩、ウチに泊まってくよな?」
白い白い溜め息交じり。
「……解った」
匡平は長い夜を覚悟すると、観念してモッズコートに顔を埋めた。その顔が真っ赤に染まっていたのは。
むろん寒さの所為だけではない。
end
back #