Candy kiss



 凍るような冬の朝――。

「さっみー」
 真っ白い息で指先を暖めながら、匡平はいつもの猫背をさらに丸めてスクールバスに乗り込んだ。
 二バスが行ったあとにくる三バスの先行隊は、三バス組を乗せた電車が着くよりも先に、ロータリーに入ってくる。朝食の調達などで二バスを逃した生徒たちが、どこからともなくワラワラと集まってきては、それぞれのバスに分乗していく。
 匡平は先行隊に乗る時はいつも、前から二番目のバスに乗ることにしていた。
 火曜は、英嗣も朝から登校してくる。
 三バス組が到着すると朝のラッシュ時にも匹敵するほどの混雑具合を見せるバス内だったが、いまはポツンポツンといくつかの席が埋まっているだけだ。
 後ろから三番目の窓際の席。ヘッドホンから流れるリズムを指先で刻みながら、匡平はいつもの席に深く背を沈めるとすぐに目を瞑った。ほどよく効いた空調の暖かさが眠気を誘う。――とはいえ、指先はまだひどく悴んだままだ。
 もう一度それを吐く息で暖める。
 十二月ともなれば朝の冷え込みも厳しい。いまからこの駅前よりもさらに寒い場所に向かうのかと思うと、ゲンナリした気分にもなってくる。けれど、それもあと数日の我慢だ。まあ、冬期休暇の前にビッグイベントがひとつ控えているのだが。
「ちぃースっ」
「うーす。……元気だな、山代は」
「だってもうすぐ音楽祭じゃん? 俺、行事ン中じゃ音楽祭がイチバン好きよ。この緊張感がたまらないね」
「マゾだな、おまえ」
 マイペースに乗り込んできた一組の山代が、匡平の前席に腰を下ろす。手にはコンビニの袋が握られていた。と、ニュッと前から手だけが伸びて、鶏五目といくら鮭のパックを掲げる。
「食う?」
「もらう! 山代、金持ちーィ」
「スロットで思ったより稼いじゃってさ。ここ数日、超リッチ」
「よくやんなぁ…」
 有り難く山代の施しを頂戴しながら、匡平は今日初めて食べる食べ物のうまさを噛み締めた。
 もう少し早く起きれば朝食にありつけることくらい頭ではわかっているのだが、体はそうはいかない。ついギリギリまで惰眠を貪ってしまうのがクセになっていた。
「で、一組は何を歌うって?」
「ちょーアリガチだけどアレ。ハッピークリスマス」
「へえ、いいじゃん。war is over ね」
「春日ンとこは?」
「one。コーラスラインのやつ」
「何をゥ? ったく、歌唱力あるクラスはいいよなぁ」
「そのぶん練習もキビしいぜ」
「ふうん……って、もしかして朝のHRまで練習に費やしてるってアレ、三組か?」
「そ。全員、一バスでこいとか云われてるし」
「熱血ーゥ。俺、一組でヨカッタわ」
「だろ?」
 おかげで連日歌いどおしで、喉の休まる暇がない。ここ数週間、ノドアメの携帯は欠かせなかった。
 山代がハナ歌で「Happy christmas」を歌いはじめる。匡平は再びヘッドホンに耳を傾けると、目を瞑った。
(六組は何歌うって云ってたっけか)
 ややして車内に、賑やかしい空気が流れ込んでくる。どうやら電車が着いたようだ。
「よう」
 目を開けると重そうなコートを着た英嗣が、棚に手をかけて覗き込むようにこちらを見ていた。隣席の荷物をどかしてやると、空いた場所にドカリと長身が収まる。いままでずっと空虚だった空間に突然リアルな質感が迫って、少しだけ匡平の鼓動が早まる。
「ねみィ…」
 セリフと同時に英嗣の頭が傾き、匡平の肩に載せられた。嗅ぎ慣れたシャンプーの匂い。大概の月曜は、自分もこの匂いをさせているのだろうな、と思う。
 コート越しに、少しずつ伝わってくる体温。
 ふいに匡平の冷たい手に、英嗣の温かい掌が重ねられた。コートとジャンパーの間に埋もれ、通路からその様子は見えない。掌にじんわりと英嗣の体温がしみていく。
 英嗣の重みを感じながら匡平も目を瞑った。隣りの健やかな寝息につられるように、すぐに匡平の意識も睡魔の縁へと落ちていった。


 音楽祭前の二週間は、それぞれのクラスにローテーションで放課後の練習場所が決められている。
 大中小の音楽ホールに、練習室からアップライトピアノを運び込んだH2―4からH2―6までの三教室、これらを一時間ごとのローテーションで回るのだ。強制ではなく自由参加ということもあり、当たり前だが音楽ホール以外での練習参加率は恐ろしく低かったりする。
 口うるさいオネエにつかまったばかりに律儀にローテーションを回らされていた匡平は、早乙女のちょっとの隙をついて、H2―5の教室を抜け出した。
 本番にダーリンがくるとかで妙に張り切ってる早乙女はどういう風の吹き回しか、実行委員にまで顔を出しているらしい。なんて傍迷惑な、と思わざるを得ない。
「勘弁してくれよな…」
 またいつ早乙女が探しにくるとも限らないので、匡平は教室には戻らず、第一練習室に向かった。
 大音ホールの扉を開けると、ちょうど交代時間らしく慌しく人員の入れ替えが行われているところだった。その流れに乗じて、練習室の扉にするりと身を滑り込ませる。
 だが――予想通りというか、英嗣の姿はそこにはなかった。さすがに本番三日前とあって、若菜にでも練習に引き摺られていったのだろう。
 ピアノの消えた室内は、やけにガランとして見えた。ソファーの上に蓮科のコートが放ってある。だが人のいた気配はあまり感じられなかった。冷えきった部屋。
「さむ…」
 ヒーターのスイッチを入れると、静かな稼動音とともに温風が室内を満たしはじめる。乾燥した空気を感じて匡平はポケットに手をやり、はたと動きを止めた。
「しまった」
 つい先ほど、最後のノドアメを早乙女に奪われたことを思い出したのだ。ないとわかると急激に喉の痛みを覚えた。
 匡平はカバンをソファーに放ると、そっと防音扉を開けた。大音ホールではH三のクラスが練習している。やはり最後の音楽祭とあってか、かなりの参加率だ。その中に見知った姿を見つけて匡平は軽く会釈した。それを受けて、日向が柔らかい微笑を浮かべる。
 いつ見ても清廉なイメージの人だ。汚い感情などすべて凌駕してしまっているような。稀有な人だと思う。
 匡平はもう一度会釈すると大音ホールをあとにした。


「げっ」
 だが扉を出たところで廊下の向こうに早乙女の姿を見つけて、匡平は慌ててすぐ向かいの小音ホールに飛び込んだ。ちょうど中で練習していたのは設楽のクラスだった。
「春日?」
「悪い、ちょっと匿ってッ」
 設楽に勢いよくそう頼み込むと、匡平はすぐさま出窓の枠に飛び乗った。匡平がカーテンで身を隠すと同時に、ガチャリと小音ホールの扉が開かれる。
「練習中悪いわね、こっちに春日こなかった?」
 早乙女の声にそらっトボケた設楽の声が返る。
「春日ァ? アイツなら、体育館で蓮科といるの見たけど」
「まじで?」
「まったく、傍迷惑なくらいイチャついてたよ。今頃お楽しみ中だろうから、ジャマしない方がいいんじゃない?」
(これは吉永の声だな、あんにゃろう…)
 パタンと扉が閉まったのを確認してから、匡平は窓枠から飛び降りると冷ややかな美貌の同級生に視線を投げた。
「吉永、おまえな…」
「信憑性のあるウソだろ? 感謝してほしいくらいだね」
 ピアノの前に座っている吉永が、にっこりと詐欺的な笑顔を浮かべる。そうするとなまじ元が奇麗なだけに、背筋がゾクっとくるくらいの笑顔になる。匡平はすぐに反撃を諦めると、設楽の方に向き直った。
「サンキュ、助かった」
「今度、A定でも奢れよ」
「おう、蓮科にでも請求してくれ」
「まじ請求するぞー?」
 長居は無用とばかり、匡平はすぐに小音ホールをあとにした。
 二階の水飲み場でひとまず喉を潤す。ふいに鏡に人影が映り、顔を上げるとちょうど日向が後ろを通りかかったところだった。
「こんにちは、春日くん」
「あ…、コンニチハ」
 返事を返してから、そういえばこうして日向と話すのは初めてかもしれないと思った。
 ピンと伸びた背筋と、柔らかな物腰。
 なんとなくこの人には「白いイメージ」というものがある。もちろんそれは匡平が勝手に抱いているイメージなのだが、例えればそれは白い花のような……いや、どちらかといえば雪や氷のイメージの方がしっくりくるかもしれない。冷たい何かを内に孕んでいそうな、そんな予感をどこかに感じさせる雰囲気をたまに感じるのだ。特に若菜といる時や、弓道部の彼女と一緒にいる時などは。
「練習はいいの?」
「いんですよ、連日もうイヤってほどしてますから。少しは喉も休めなくちゃ」
「なるほど。本末転倒じゃ意味ないもんね」
「そうなんですよ、云ってやってくださいクラスの連中に!」
「ハハ、それもまたいい思い出になるんじゃない?」
 そう云って微笑んだ日向の表情を見て、急に感慨深い思いが湧き起こった。
(ああそっか、来年はこの人ココにいないんだ…)
 空調のない廊下はひどく冷える。猫背気味の匡平の背がさらに丸くなるのに反し、日向の背はいつでもまっすぐ伸びている。
(この人には迷いなんてないんだろうな)
 そんな気がした。どこまでもまっすぐに、自分の道を進んでいくのだろう。そのためには大切なものでも断ち切る勇気と強さを持ち合わせているだろうから――。
 卒業後の進路を訊いてみたい気がしたが、どうも突っ込んだ質問になりそうで匡平は口を噤んだ。
「春日くんは…」
「ハイ?」
 伏せ目がちだった日向の視線が窓の外へと向けられる。
「もしも蓮科くんが留学するなんて云い出したら、君はどうする?」
「え…」
 思ってもいなかったことを突然云われて、匡平は一瞬思考に詰まった。
(蓮科が留学?)
 そんなこと、考えたこともなかったけれど。
 仮に、もしアイツが来年から留学すると云い出したとしたら、自分はいったいどうするだろう?
 いまはあんなに近くにいる蓮科が、遠くへ行ってしまう。手も、脚も、思いも届かないようなどこか遠くへ行ってしまうとしたら。
 ――それはすげーツライと思う。
 でもそれが蓮科の意志だというのなら、匡平が口をはさむ隙間はないように思われた。
「俺は…」
 自分の思いを一つずつ言葉にしていく。気持ちを的確に表す言葉を探すというのは、ひどく困難な作業だ。
 匡平がたどたどしく紡ぐ言葉を待つように、日向は窓ガラスにゆっくりと背を預けた。
「俺は……そうか頑張れよって、笑って送り出せるように努力、したいです」
「そう、いい子だね」
「別に、キレイ事とか云ってるわけじゃなくて……アイツの負担にはなりたくないと思うだけです」
「……わかるよ、その気持ち。でも」
 日向は背筋を正すと、前に大きく一歩踏み出した。
「丹精してきた花を置いていく方の気持ち、ってのはどうなんだろうね」
「え…?」
「ゴメン、気にしないで。時間取らせて悪かったね。ありがとう」
「あ、先輩…」
 最後に果敢無い笑みを浮かべて日向は廊下の角を折れていった。靴音が次第に遠退いていく。
 あちこちの教室から漏れ聞こえてくる歌声や楽器の音。
 それだけが寒々しい廊下に静かに響いていた。


 蓮科が自分の前からいなくなってしまう――。
 思ってもみなかった可能性だった。何となく、いまの日常が永続的に続くような気がしてたから。でも考えてみればそんなことは、恐ろしく勝手な思い込みでしかない。
 英嗣が一生、自分の隣にいる保証なんてどこにもないのだ。永久に変わらない気持ちなど、人は誰も持ち得ないだろうから。変わらないと信じてるものだって気づけばカタチを変えていたりする。いままで変わらなかったからって、この先も変容しないなんて誰にも云い切れやしない。
 未来なんて目に見えないものだから。
「アイツ、いつまで俺の隣にいるんだろ…」
 下らない質問だと思う。だが口にした途端、胸中に不安の雲がむくむくと広がっていく。
 本当はいつだって不安なのだ。蓮科はただでさえモテる男だ。恐ろしいまでの色気があって、立ち回りもうまく、そつがなくて。たまにムカツクくらい意地悪しやがるけど、包容力があって死ぬほど優しくて。
(そんなヤツが、なんで俺なんかを選んだんだろう…)
 冷えてきた手先を吐息で暖める。と、いつからいたのか、ふいに廊下の角から早乙女がひょこりと顔を出した。
「バっカみたいね」
「……何だよ」
「アンタね、いつくるともしれない終わりを先取りして、いま不安になるなんて不毛よ」
(何ですと?)
 早乙女という男はたまに妙に達観してる節がある。
 コイツほんとに同い年か? と疑いたくなるようなこともしばしばだった。
「だーかーらー、手にしてる物を失くす不安で大事な時間を費やすなんて、ただの冒涜だってこと」
「何に対しての?」
「もちろん自分によっ」
 力いっぱい云いきられて、匡平は思わず吹き出していた。
「ぶはっ」
「何笑ってんのよ、失礼ね!」
 早乙女はどこでこんな人生観を身につけてきたんだか。
 確かに「イツカ」の心配でせっかくの「イマ」を費やしてしまうなんて、不毛なことに思える。
 未来が前提で今があるんじゃない。
 今が前提で未来があるのだ。
 未来なんてのは今の積み重ねの結果としてあるものだから。自分次第で楽しくも明るくもできるものなのだ。いつでも、その意志さえあれば。
「早乙女って、ホントは三十路なんじゃねーの?」
「何ですって!」
「人生の師匠と呼びたいね、俺は」
「はーぁ?」
(サンキュ、早乙女)
 匡平は人生の師匠に心から感謝を捧げつつ、いきなり廊下をダッシュしはじめた。
「あッ、カスガ練習!」
「俺もうグロッキー、他のやつらと励んでろよっ」
「っもう!」


 そのままの勢いで外階段を下る。
 すっかり暗くなった空にいくつもの星が瞬いていた。
「うわ…」
 ただそれだけなのに、なんだかすごくドキドキした。
 あちこちの教室でまだついてる明かり。慌しく走りまわる教師に生徒。皆で何か一つのことを作り上げていくというこの雰囲気。この空気はすごく好きだ。
 行事前の雰囲気は、夏祭りの前の晩に似ていると思う。
 ドキドキとわくわくがない混ぜになって、心地よい緊張感で眠れない夜。
(わかるぜ山代、おまえの気持ちも)
 大きく深呼吸する。キンと冷えた空気が肺に満たされていくのが心地よかった。妙に清々しい気持ちになる。
 高揚した気分のおかげか、冷えきった外気に晒されても特に寒さは感じなかった。
 満点の星空を堪能してから、大音ホールまでゆっくり戻る。中にはもう誰もいなかった。そろそろ最終バスの時間が近いのかもしれない。練習室を開ける。そこにも誰の姿もなかった。ただ蓮科のデカいコートの上に、匡平のカバンが放ってある。
 つけっぱなしだったヒーターのおかげで室内はかなり暖められていた。このまま終バスで帰ろうかどうしようか、悩んでいると急に後ろから抱きすくめられた。
 力強い腕にギュッと抱き締められる。シャンプーの匂い。
「春日すげー冷えてる。外にいた?」
「空、眺めてた」
「どうりで」
 首筋に寄せられた唇にいきなり耳朶を食まれる。
 冷えきった耳朶をねっとりとした熱い感触で舐られて、匡平は思わず目眩を感じた。
「ばか、ヤメロよ…っ」
「どうして? 暖めてやってんだろ」
「帰んなきゃ、俺…」
「終バスならイッちゃったよ」
 反則技低音を耳元に吹き込まれて、思わずガクリと腰が抜けた。蓮科の腕にしがみつくような形になる。
 行事前は終バスが行ってしまっても、まだそのあとに出る闇バスというものが残されている。この闇バスを逃すと正真正銘、すべてのスクールバスが終了ということになるのだが…。
 コートの下に忍び込みはじめた指を感じて、匡平はグッと目を瞑った。暖かい掌が胸に押しあてられる。
 カチリ、と鍵の音が響いた。後ろ手に扉を施錠した英嗣がいよいよ匡平の体をまさぐりはじめる。
「ば、バカッこんな時に…っ」
「闇バスまで四十分ある。それまでに終わらせるから」
 意識が蕩けそうに甘い声。
 匡平の服の中で指が遊びはじめる。熱い掌に直に素肌を撫ぜられて、匡平は後ろから与えられる刺激を壁に手をつき必死に堪えた。抵抗しようにも、手を放すといまにも体がくず折れそうになってしまう。熱くなりはじめた昂ぶりを捕らえられて、鼻にかかった甘声が漏れる。
「あ…、ダメっ…んんンッ」
 意地悪く性急に扱かれて、トロトロと自制心が蕩けていくのを感じた。
「もっと悶えろよ」
「誰が…っ、ハッ……くっ」
 ローションでぬるんだ用意のいい指が、中にズルズルと呑み込まされていく。
「な、ナマは…なしっ」
「了解。それはあとの楽しみに取っとく」
 言葉と同時に、用意の整ったそこにゴムを被った英嗣を突き入れられて。
「バっカ…、ぁ…ッ」
 きつく瞑った匡平の眦から溢れた涙が床に散った。


 ぐったりとした体をバスの後部座席に沈めながら、匡平は窓ガラスに頬を押しつけた。火照った体に冷たい刺激が心地いい。
 闇バスは全部で二台。思ったよりも利用者は少なく、匡平たちが乗ったバスはがらがらだった。せっかく練習を逃げてまで喉を休めたつもりだったのに――。
 けっきょくは英嗣に散々喘がされて、匡平の喉はカラカラになっていた。
(喉、イテェ…)
 わざとらしくゲホゲホと咳き込んでやると、ふいに隣からポーンと何かが飛んできた。
 透明なセロファンに包まれた水色の飴。無言でそれを口に放り入れる。しかし。
「……ゥぐ」
 途端に広がったミントの味に匡平は思いっきり顔をしかめた。強制的に咥内に広がっていく、圧倒的なミントの味と香り。ピリピリとしみて神経質に痛む舌。
(まじ、吐きそうなんですケド…)
 一気に半泣きになっていると、横で英嗣が思い出したように声をあげた。
「ああ、春日メンソール系、だめだったっけ」
「〜〜ッ」
(知っててやったろ、てめェ!)
 吐き出すわけにもいかず、仕方なく噛み潰そうかと覚悟を決めかけた瞬間――。横から伸びてきた手に顎を取られた。英嗣の匂いが近くなる。
 視界が暗くなって、忍び込んできた舌に歯列をなぞられる。思わず開いた隙間から舌を絡め取られ、引き出される。
「ん…っ」
 二つ前の席には人がいる。音がしないように息を詰めながら、匡平は次第に英嗣のキスに溺れていった。
 ミントの味も何もすでにわからない。
(まさか、これも計算に入れてたとか…?)
 しばらくしてようやく唇を外された時、匡平の口の中からホールズは消え失せていた。
「こんなにウマイのに」
「うまくねーよ、ンなの…」
 脱力してシートに沈んだ匡平を見て、英嗣がふっと顔を綻ばせた。
「春日の手って、いつも冷たいのな」
 暖かい掌に右手を包まれる。
「……そりゃあ、心があったけーからだよ」
 ボソリと呟いて。
 外を眺めたまま、匡平はその手を握り返した。
 駅も近くなってきたようだ。街の明かりがバスの中に入ってくる。
「そういや六組って、何歌うんだっけ?」
「so much in love」
 英嗣がメロディを小さくハミングする。
(うわ、懐かしい曲)
 中学の時に英語の授業で歌詞を勉強したのを覚えている。
「俺はこれ聴くと、春日のこと思い出すぜ?」
「……バーカ」
 駅のロータリーをゆっくりとバスが回る。英嗣の手につかまり身を起こすと、匡平は通路に一歩踏み出した。 明日は、目覚ましがなくても起こしてくれるヤツがいる。


明日は、目覚ましがなくても起こしてくれるヤツがいる。


end


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