#4 After school / 放課後



「アンタ、男もイケるんだって?」


 そういえば、と。
 ペーパーバックに落としてた視線を、めずらしくデスクワークに勤しむ香坂の横顔にスライドさせる。
 眼鏡の向こうからの一瞥がチラリと英嗣の頬を撫でた。キーボードの音が再開すると同時、ディスプレイに戻された眼差しが興味なさげにワード上に打ち出される文字を追い始める。
「どっから出てきた話だ、それ」
 胡散臭い白衣に身を包んだ香坂の傍ら、英嗣はソファーの肘掛に乗せた足を左右組み替えた。もうじき佳境に入ろうという紙上から上げた視線を食えない横顔に据える。
 さっきからスパスパと途切れる気配のない煙草の煙と、石油ストーブの上に乗せられたヤカンの白い蒸気とが宙で交じり合ってはゆっくりとたゆたう。

「ヤッてから数時間はスピーカー」
「ああ小泉か」

 ザッツライト。幼馴染みの高原の耳にソレが入るまでは、誰もあの小さな口に戸を立てることは出来ない。武勇伝を吹聴して回るその習性に香坂が気付いてなかったとも思えないから、誰の耳に入ろうと頓着する気もないということだろう。案の定気にした風もなく「ヤッたっつーか、フェラされただけなんだケドね」と、キーボードを叩く音に混じって煙と共に吐き出された台詞。
「カウンセラー中にさ、急にやりたいって云うから」
「やらせてんなよ」
「本人の希望なら致し方あるまい?」
 煙草を咥えた唇の端に笑みが浮かぶ。卑猥な余韻を掻き消すようにカタカタカタっと、立て続けにキーボードが鳴った。
「つーかま、俺もアイツの噂は気になってたもんでね」
「バキューム?」
「イエス」
「で?」
「ケッコウなお点前でしたよ」
 シュンシュン…というヤカンの音に混じってカタカタと硬質な雑音を叩き続ける指先。
 その左手の薬指には銀色に光る指輪が嵌められている。
「…しょーもねえオトコ」
 その一言に勲章を得たかのようにまた香坂の唇が酷薄に歪められる。云うだけ無駄ってやつか。その笑みを潮に呆れ果てた視線を紙上に戻すと英嗣はザラついたストーリーを一ページ進ませた。ストーブのヤカンで勝手に入れたコーヒーを一口含んでまたページを繰る。六限終了のチャイムが遠くで鳴っているのが聞こえた。もうじき匡平もここに現れるだろう。

「つーか、ここはハチ公前じゃねーんだけどな」
「そんなメジャー所じゃねえだろよ」

 読みかけのペーパーバックをカバンに放り込んでマグカップに残ってたコーヒーを飲み干す。室内に負けないぐらい白く煙った外の風景。風に流される靄や霞が寒々しい風景に白いフィルターをかけていた。
 重く垂れ込めた厚い雲に阻まれて届かない陽光、夏にあれだけ疎ましく思っていた太陽をいまは少しだけ懐かしく思う。ポケットの中でくぐもったメロディがメール着信を告げた。
 サブジェクト「ざけんな」、本文「テメエ、放課後面談つったろーが!」。一体どこから自分のメアドを仕入れたんだろう? そういや朝、そんなコト云ってたっけか。神奈川の憤怒に満ちた顔が目に浮かぶようだ。口元を苦笑で崩しつつ、英嗣はマフラーを手に取るとソファーを立ち上がった。
「待たないのか?」
「担任から呼び出し。誰かメアド、リークしやがった」
「ハハっ、人気者はツライな」
「春日来たらココで待たせといて」
「だーからハチ公前じゃねーつってんの」
 手元をカタカタと打ち鳴らしながら香坂が白い煙を吐き出す。神奈川を五分で黙らせるのは至難の技だろうから、帰りの足は二十分後のバスに変更しておく方が無難だろう。その旨をメールで匡平に打ちながら、英嗣はマフラーを緩く一巡させた首を竦ませた。室温で温んだドアノブを掴んだところで。
「よう」
 ニヤけた声が英嗣を呼び止める。振り返ると薄く開いたままの唇がまた酷薄な笑みをさらりと浮かべて見せた。
「俺に云っとかなくていいのか?」
「何を」
「春日に手ェ出すなってサ」
 どうせその牽制に来たんだろう、と。合わせた視線が告げる台詞に軽く肩を竦めると英嗣はドアノブを捻った。

「出さねーよ、アンタは」

 押し開いたドアの隙間、冷え切った廊下の冷気が一気に室内へと流れ込んでくる。暖かい室温に慣れた体には堪える寒さだった。日が沈んだ途端にこれだ。目には見えねども太陽の恩恵はやはりあるのだろう。
「フウン、云い切るね」
「そりゃあね」
 香坂の視線がまだ自分に寄せられているのを横目、確認してから英嗣は唇の片端を上げた。
「アンタこそ俺に云っといた方がいいんじゃねーの?」
「何を」
「俺の娘に手ェ出すなってサ」
「…ああ」
 お互い様だろ、返した視線でそれだけ告げると英嗣は極寒の廊下に踏み出した。麻雀だなんだと居室を空にしがちな主に代わって、愛娘のベビーシッターを務めるのは今月だけでもすでに三回。預けられるなら誰でもいいと香坂が思っていないように、落ち合えるなら何処でもいいとこっちも思ってるわけじゃない。
「つーことで、ヨロシク」
「こっちも来週の水曜、よろしく?」
「……ああ」
 ちゃっかりベビーシッターの予約なんか入れられつつ、英嗣は改めてマフラーを巻き直すとカウンセラー室を後にした。


end


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