#2 Under session / 授業中



 1973年8月23日、PM10時15分
 ストックホルムのある銀行に強盗が押し入った。

 ごくたまにあんな風に。
 自分以外の誰かに笑顔を見せることがある。それは本当にごく稀で、天気雨にも似た確率なんだけど。
「え、まじで?」
「新しく出来たらしいぜ。事件の後にな」
 どうやら今日はめずらしく2組の水柳と話が弾んでいるらしい。
「やばい…不覚過ぎる」
「おまえが知らなくて俺が知ってるなんてナ?」
「…今日はおまえに華持たせてやらなくもないけどな」
「そいつはアリガタイね」
 水柳の心得た会心の笑みに、品のいい優等生の笑みが返される。へえ、今日はずいぶん機嫌がいいんだな。数学のノートを取りながら設楽は横目で幼馴染みの横顔を窺った。
 「難攻不落のクールビューティ」などと一部で謳われる吉永の微笑に、少なからず驚いたらしい水柳の視線がチラリとこちらに向けられる。視界の内で肩を竦めて見せると「高一・三大遊び人」の一人が苦笑で唇を歪めるのが見えた。
 始業のチャイムはとっくの昔に鳴っている。水柳のいる2組は確か体育だったはずだ。こんな寒い日のリレーなんて人数集まらないこと必至だろう。2・7組の体育担当教師、阿川に内心同情しつつ、設楽は黒板に書かれた数式をノートに写した。他クラスの生徒が混じっている分にはあまり教師も頓着しないが、受け持ちクラスの生徒が足らない分には充分ストレスになりうる。阿川さん、また昼休みに胃薬飲むハメになるんじゃねーの? お気の毒さま。
「なるほど、リマな」
「ちょうど逆のパターンだったらしいぜ」
「ああ、リマ症候群か」
 授業開始から断片的に拾ってた情報を繋ぎ合わせて辿り着いた結論。シャーペンを動かす手は止めないままに予想を確認に変換すると。
「なんだ、哲も知ってるの」
「まあね」
 幾分傾いたらしい機嫌が細面の頬に顕かな翳りを差した。そうすると途端に人間らしい温かみが失われて、美貌の人形を相手にしているような、怜悧な印象が氷のように際立つ。
「やっぱ吉永は怒ってる方がキレイだな」
 ニヤリと相好を崩した水柳がわざとらしく尻上がりな口笛を吹く。途端に吊り上がった柳眉の美人が取り返しの付かない爆弾を落とす前に。
「桂木サーン」
 設楽は挙手で引きつけた教師の注目を、あっさり横にいた水柳に転嫁した。
「問三の問題、水柳くんが解いてみたいって」
「あら、じゃ前に出てやって?」

 キレイな華には棘がある。
 それが吉永の場合、完膚なきまでの毒だったりするから要注意。

「ウーワ、設楽覚えとけー?」
 軽い台詞とは裏腹、席を立った水柳の手がポンと設楽の肩を叩いていく。謝罪の意。やり過ぎたという感は水柳の中にもあったんだろう。それは同じように吉永の内に沈んでいる罪悪感にも通じる。
「…なんで」
「前にストックホルム症候群でレポート書いたコトがあるから。反義語で辞書に載ってたぜ?」
「フウン」
 云いたいけれど云えない、謝罪の色が伏せた瞳を神経質に縁取る。高すぎるプライドを持て余して、途方に暮れる幼馴染みを助ける存在はいつでも自分でありたい。それを傲慢と呼ぶらしいことを知ったのが小学校中学年の秋。身の内に潜む穏やかならざる感情にようやくつけることの出来た名前を。設楽は一生誰にも明かすまいと決めた。
「チサト?」
「…………ごめん」
「それは俺じゃなくて水柳に云えよ」
「……なんで?」
 心底不審そうに顰められた眉に思わず笑うと「…そーいうの不愉快なんだけど」と覿面に傾いた吉永の機嫌がシャーペンの芯を立て続け折った。
「そう拗ねるなって」

 誰かを手に入れたいのなら心を奪えばいい。それが例え不当な手段であったとしても。
 人質と犯人の歪な信頼と好意に支えられていたとしても。

「今日はおまえがこっちに泊まる日だろ?」
「…忘れてるのかと思ってたよ」
「まさか」
 忘れるわけないだろ、そんな簡単な一言でふっと灯る笑顔に罪悪感を覚えるのは、自分に犯罪者の自覚があるからだろう。本当は誰に対しても向けられていたかもしれない笑顔。それを覆い隠したのは自分の広げた両腕だから。自分に寄せられる信頼が何に兆すのか気付いて欲しい気持ちとそうでない気持ちとが今日もせめぎ合う。その全てを包み隠すように。

「夕飯、何がいい?」

 設楽は凪いだ笑みを唇に乗せた。


end


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