#1 Morning / 朝



 おはよう、とかけられた声に振り向くとそこには懐かしい顔がいて。
「オハヨ」
 早乙女は笑んだ口元に白い息をたゆたせた。


「最近、調子はど?」
「んー、ぼちぼちって感じかな」
 電車が来るまでの数分間、吹きっ晒しのホームに二人、肩を並べて。
 こんなふうに言葉を交わすのはどれぐらいぶりだろう? 

「ちょうど一年ぶりだよ、瀧くん」

 早乙女の浮かべてたクエスチョンに隣りで白い息がアンサーを返した。どうやら同じコトを考えていたらしい雪音が「でも本当はね」薄く色づいた唇にペロリと赤い舌を出して見せる。
「前にも何度か見かけたことがあったんだよ。でも声をかけたのは今日が初めて」
「アラ、そうなの?」
「うん。三回くらい見送ったかな、瀧くんの背中」
「なんだ、声かけてくれればヨカッタのに」
「かけたかったんだけど、彼氏連れだったから」
 雪音の視線が学校指定の黒いローファーの上に落ちる。前と変わらず、細い足首を包むのが紺色のハイソックスであることにお門違いな安堵を感じながら。早乙女は声のトーンを少し引き上げた。

「やーね、雪音の男に色目使ったりしないわよ!」
「ううん。違うよ瀧くん」

 黒目がちな瞳が真っ直ぐに早乙女の視線を捉える。
 例えれば雪の中にいるテンのようだと思う。白くないと天敵に見つかってしまうのに、なぜか黒い毛皮を纏って小首を傾げて見せるような。自分がどれだけ危うい存在なのかを顧みることも知らない。
 相対した者に庇護の義務感を抱かせるような。曇りのない眼差し。

 だから傍にいられないのよ。本当は雪音の姿なんていままでに何度も見かけたことがある。同じ路線を似たような時間帯に使っているんだから顔を合わせない方がむしろ難しいぐらい。でもけしてこちらからは声をかけまい、と思っていた。これ以上ないほどに彼女を裏切って、傷つけたのは他でもない自分だったから。

「優しそうなヒトだったね。年上?」
「そうよ、かなり年上」
「いいなァ、オトナの男の人かー」
「そーいうそっちはどうなのよ?」
「あたしは、瀧くんにフラれてからはそれっきり」
「アラま、こんなイイコを放っとくなんて! 見る目ないわね周りのオトコたち」
「でもあたしはあるよ、見る目」
 そう云って微笑んだ雪音の眼差しに、早乙女は目頭が熱くなるのを感じた。
「あたしのナンバーワンは…」
 ホームに入ってきた各停が雪音の声を攫って押し流す。先頭車両に持ってかれた言葉の切れ端が、そっと早乙女の指に触れた。
「だから瀧くんは瀧くんのままでいてね」
 手袋越しに伝わってくる体温がたまらなく愛しくて、思わず抱き締めてしまいそうになる衝動を堪える。この恋心はもう終わったの、と。自分に云い利かせて白い手袋を握り返す。
「アリガト。今度会ったらお茶でもしましょうね」
「うん、じゃあね」
 急行を待つ自分を置いて、雪音を乗せた各停がゆっくりとホームを離れていく。

 バイバイ、誰よりも幸せにしてあげたいと思ってた女の子。
 幼かった恋心が線路の向こうに消えてしまうまで、早乙女は零れ落ちそうな涙を堪えた。

『あたしのナンバーワンはもうしばらく瀧くんみたい』

 雪音の優しい声を思い出して。
「…バカね」
 早乙女は拭った涙を木枯らしに散らした。


end


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