黒い雨



「随分と仲がいいんだね」

 ほんの数分前まで体の芯に火が灯っていたというのに。敢え無く吹き消されたそれが空しい煙を冬の空に散らす。冷たい手摺りに預けた体が急激に冷えていくのを如月は感じていた。
「盗み聞き? 相変わらず汚い根性してるわね」
 俯いた拍子、落ちてきた髪を手袋の指先ですくい上げる。去っていった熱を惜しむ間もなく、無造作に突きつけられた銃口。いまはライフルの照準が何処に向けられているのか、それを予測するのが何よりも優先事項だった。
「それが僕の役割だからね。もっとも最近のキミはあまりに無防備過ぎて僕としても危惧を抱かざるを得ないんだけど」
「余計なお世話よ」
 立ち去りかけた如月の肩に史季の無遠慮な制止がかけられる。自身の身を包む観月のコートに穢れた手が触れてくるのを如月は苦々しい思いで見送るしかなかった。ゆっくりと掴みしめられる肩。
 不快、憎悪、この嫌悪感を表す言葉がこの世にあるとは思わない。あるとすればそれは限りなく死に近いニュアンスを持つだろう。死臭に塗れた家で育ち、共に黒い雨を浴びてきた存在。昔はそれを誰よりも心強く思っていたのにね。いったい誰が従弟に鎌を持たせ、またそれを振るうことを彼はどうして了承したんだろう。返らない答に投げかける問ほど虚しいものもない。

「キミの都合なんて、始めから誰も聞いてないよ」
 いつだってそうだったじゃないか、それとも忘れてしまったの? キミはいつの間にそんなに弱くなってしまったんだい? 雌犬に成り下がったキミを僕は哂えばいいのかな、それとも憐れもうか? 憐憫の浮かんだ頬を平手打ちにすると、ククっと楽しげに史季が喉を震わせた。弛まない笑みを浮かべた唇。アンタこそいつのまにその笑みを会得したってわけ? 一族の中でも、最も腐臭を放っている本家だけにしか許されていない侮蔑の微笑み。同じく浮かべたそれで如月は史季の出生を鼻で嗤った。所詮は分家筋の穢れた血を身に宿した者、本家の捨て駒にしか成り得ない卑しい隷属者にその笑みが使いこなせるものか。交えた視線を断ち切るように、観月のコートから携帯の着信音が聞こえた。

「優しいね、彼」
「アンタの方がよっぽど優しいわよ」

 波紋の消えた湖のように、史季の顔から笑顔が消える。埋まらない問を埋める努力ぐらいしたし、昔の出来事を記憶からイレーズするにはまだ思い出が鮮やか過ぎるのだ。互いを繋いでいた、蜘蛛の糸よりも細く、砂の器よりも脆い絆。拙いそれを胸に秘めながら、いつかこの黒い雨から抜け出そうねって二人云ってたのにね。けっきょく同じ傘に入ることは許されなかった。長年、史季の身を打ち続けた雨がドロリと口元から吐き出される。

「いつまでもそんな小さな弱みで僕を動かせると思わないで」

 途切れないバッハに紛れて、呟かれた悪意。ヒナちゃん、僕は条件次第でどちらにも動く男なんだよ。それを忘れないで。如月の肩に自身の手の代わり、重荷を乗せると史季は無言で高三の教室を立ち去った。ややして止んだ着信音。
「…重いわね」
 携帯の入ってるらしい右のポケットが重くて仕方がなかった。人の望みに喜びがあるとして、史季の望みを、喜びを絶ったのは他でもない自分自身だったから。ポケットの上から携帯を握り締める。冷え切った指先に熱をもたらしたのは、何年かぶりで流した一粒の涙だった。


end


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