アスピリン



 
 人の痛みは電気信号みたいなもの。
 敏感な人もいれば、鈍感な人もいて。
 きっとそれを感じ取れる人は、そう多くはないのだろう――。

 声をかけようと思ったのは、強烈なデジャヴを感じたから。
 八月の初め。あの日も全てはまるで、海の底に沈んでいるかのようだった。
 溢れた蝉時雨が洪水になって、この辺り一帯を飲み込んでしまったように。強烈な騒音も、限度を超えるとBGMのように意識の端から滑り落ちてしまうのだろう。廃墟のように静まり切った海の底では、殺人的な真夏の日差しも気づけば罪のない陽だまりのようにテラスの端で丸くなっているしかなくて。記憶と違わないその光景の、傍らから放たれる電気信号。
 それはとても――弱々しいSOS。
「大丈夫?」
 横合いから声をかけると、閉じ合わさっていた睫毛がゆっくりと上下に開いた。
 ほんの少しだけ揺らいだ視線が、数秒後にこちらの姿を真っ直ぐに捉える。両腕を枕にテラスのテーブルに伏せていた細面を持ち上げると、瀬戸内は柔らかな微笑を薄い唇に載せた。
「一瞬、高三の夏に戻ったのかと思ったよ」
「あたしも」
 デジャヴを誘う情景――ただあの日と大きく違うのは、互いの立場が逆転していることだ。
 あの日、ここでこんなふうに死にかけていたのはあたしの方だった。生理が重いのは毎月のことで用心していたはずなのに、あの日はいつもより少しだけ早くなってしまったのだ。おかげで冥府を彷徨いかけていたあたしを、救ってくれたのが瀬戸内だった。
「で? 偏頭痛?」
「そう。うっかり薬を切らしちゃってね…」
「この時期だと保険医もいないしね、あたしも去年、酷い目にあったからよく覚えてるわ」
 おかげであたしのカバンにはあれ以来ずっと常備してる鎮痛剤があって、右手にはさっき買ったばかりのミネラルウォーター。コンビニの冷蔵庫から真夏の外気に連れ出されて、クリスタルガイザーはすでに滴るほどの汗をかいていた。
「一回二錠よ」
 ピルケースから取り出した白い錠剤を瀬戸内の掌に転がしながら、未開封のペットボトルもとんとテーブルの上に置く。
「水もあげるわ。ボトルごともらって?」
「悪いよ、代金払う」
「いーの。これで去年の借りはチャラってことでどう?」
 借りだなんてぜんぜん思ってやしないけど、そう言った方が瀬戸内相手には有効だろう。
 人の気持ちを感じやすい性分だからそんな気遣いすら見透かされてそうな気もするけど、昔に比べたらずいぶん丸くなった印象を受けるから、あたしのこの拙い心遣いも、いまの瀬戸内ならきっと受け入れてくれるだろう。
「ありがとう、すごく助かる」
「どういたしまして」
 そのやり取りが去年とまったく同じだったことに同時に気がついて、思わず笑ってしまう。
 
 憎らしいくらい晴れた空も、うるさいぐらいの蝉時雨も、去年と一緒。
 それから、互いの関係性も――。
 あの日をきっかけに少しだけ近づいた気がした心の距離は、そのまま縮むことなく卒業の日を迎えた。と言ってもこれはあたしの心象だから、瀬戸内にとっては最初から変わらない距離だったろうと思うけど。
 もっと近づこうと思えば、もう少し近くには寄れたのかもしれない。でも隣には立てないことを知っていたから。あたしは踏み込まず、クラスメイトのラインを守った。
 その判断は、間違ってなかったはず。
「ところで、瀬戸内」
「何」
「いま、幸せ?」
 瀬戸内の頭痛が鎮まりかけた頃を見計らって、声をかける。
 何の脈絡もない唐突な質問だったにもかかわらず、瀬戸内は即座にふわりと表情を綻ばせた。
 作為ではない、自然な笑み。それが何よりの答え。
「――よかった。もし表情曇ったら、メガネ殴りに行こうと思ってた」
「え?」
 キョトンと瞬きする瞳を見つめながら、もう言ってもいいかな、と思う。
 あの日からずっと胸にしまい続けてた思い。何よりも今日ここで会えた偶然が、それを後押ししているような気がした。
「瀬戸内いつだったか言ってたよね、自分は女子に嫌われるタイプだって。でもね、あんたのこと好きな女子もいたんだよ」
「え……?」
「あたし、あんたのこと好きだったの」

 瀬戸内の目が驚いたように見開かれる。
 思ったとおりの反応だ。瀬戸内にはなぜか、自分が周りから好かれるという概念がないらしい。好かれることを想定していないというか、好かれなくて当然だと思っている節がある。だからこんなふうに口にしない限り、一生伝わることはないと思ってた。
 案の定な反応でたっぷり五秒ほど驚いてから、瀬戸内は「ぜんぜん知らなかった…」と首を振ってみせた。
 でしょうね。ええ、でしょうとも。

「いつから……?」
「そうね、意識しはじめたのは一年前のあの日から。それからわりとよく見てたんだけどね――あんたってさ、否定したいことがたくさんあるのにその術を知らないから肯定してるみたいに見えたんだよね」
「…………」
「それがずっと気になってたの。もっと泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑えばいいのにって」
「………そう」
「正直、あんたが切敷と付き合いはじめたって知った時はチクショウって思ったクチよ。でもあたしには無理だってのもわかってたし」
「……僕は」
「ああ、返事は求めてないから気にしないで? ただ知っといて欲しかっただけ」
 一年間ずっと秘めてた思いを口にして、ようやく夏の呪縛から解き放たれたような気がした。
 瀬戸内を思い出すたび、脳裏に甦っては切なさを誘っていた青空や蝉時雨も、今日からは別のイメージに様変わりだ。だって去年の思い出に、あんなにも素直な瀬戸内の笑顔はない。
「でも、よかった。相手が切敷で」
「そう、なのかな」
「そうよ。じゃなきゃいま、そんなふうに笑えてないでしょ?」
 指摘にまた瀬戸内が笑みを零す。
 ほら、ね。もちろん大丈夫だとは思ってたけど。――だって切敷も、電気信号感じ取れるヤツだから。
 二人がつき合いはじめたと聞いた数日後に「ゴメン」とか謝られた時はさすがに殴ってやろうかと思ったけど、やっぱりこれでよかったんだと改めて思える。ていうか、ぶっちゃけあたしの思いなんてどうだっていいのよ。
 あんたがそうやって笑っててくれれば、それだけで。

「それにしても会えるとは思ってなかったな。こっちに戻ってるとは聞いてたんだけど」
「誰に?」
「空木よ。瀬戸内たちも行ったんでしょ、あの店。倉貫とか観月とかと一緒に」
「ああ、そうか」
「聞いたわよ、倉貫と南が相変わらずぶちかましてたって話も」
「あの二人は一生ああなんじゃないかな」
「ていうか、死んでもあのまんまよ。きっと」
 顔を見合わせて、思わず笑い合う。

 元クラスメイトの消息とか、懐かしい話をいくつか蒸し返してからあたしはテラスをあとにした。
 もう少し長居すれば待ち合わせているという切敷にも会えたのかもしれないけど、うっかりしたらわけもなく殴ってしまいそうな気がして。瀬戸内を幸せにしてくれてありがとうって気持ちの裏にはまだ少し、恋心の残骸が残っているから。

「来年、空木開催で同窓会があるらしいじゃない? そこでまた会いましょ」
「うん。じゃあまた来年」
 そう言って手を振った瀬戸内の笑顔で、あたしは長かった夏の日の思い出を締めくくった。



end


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