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「僕は、若菜ちゃんが好きなんだけどね」

 日向はそう云うと目を細めて笑った。
 この人が笑ってないところなんて、見たことない。
「私は、嘉納先輩が好きです」
 俯きながらコトバを選ぶと、自明の理とばかりに日向は笑って首を傾げた。
「うん、知ってるよ。でも八重子は僕のコトが好きなんだよね」
「……ええ」
 午後の弓道場。
 部活日以外にもここにいるのは、日向と八重子くらいなものだ。
「八重子と別れてあげようか」
「ほんとですか?」
 思ったよりも大きな声が出て、若菜はあわてて辺りを見まわした。 
 二人の間に横たわる鬱蒼とした空気が、少しだけ揺るいだような気がする。
「ううん、嘘。それはできないな」


 この上ない優しい笑顔で、悪魔のようなセリフを囁く人。


「どうして?」
「だってそうしたらキミ、僕のコトなんて見向きもしなくなるでしょう」
「そんなの…っ」

 八重子がいるかもしれない、そう思って訪れた弓道場だったがそこにいたのは道着姿の日向だけだった。
 卒業前の日向の射を見れる機会も、そう何度と残されていない。数十分ほど静寂を共有したのち、日向は唐突に若菜を振り返ると笑ってこう云ったのだ。
「好きなコが見てる前だとつい力みが出ちゃうね。射が乱れる」
 お互いそのコトについて意識はしながらも、それについて言葉を交わすのはこれが初めてだったかもしれない。
「お邪魔でしたら、すぐに退散しますケド」
「僕の心の問題だから。それとも少しは気にしてくれてるの?」
 少し話でもしようか、日向のその誘いを断らなかったコトを若菜は後々まで悔やむコトになる。

「だから、僕は八重子とは別れないよ」
「…そんなのずるい」
「僕をズルイ男にしてるのは誰なんだろうね」
 例えるなら、明るい昼下がりに風に揺れる白百合のような笑顔だと思う。
 眩しくて、目を閉じた後にも瞼に残る、鮮烈な白いイメージ。
 どうしてあんなひどいセリフを吐きながら、この人はこんなにも優しく笑えるのだろう。
「そーゆう云い方もズルイです」
「だから誰がそうしてるのかなって、云ってるんでしょ」
 物分りの悪い子供を前にしたように、優しい口調でそう云いながら日向はふっと切れ長の目を細めた。
「好きな人の不幸を見たくなる気持ち、ってあるんだよ」
「そんなのオカシイです」
「あるんだよ。現にこの僕のように、ね」
 日向の手から部室の鍵が落ち、床でチャリンと硬質な音をたてる。
 それに気を取られた一瞬。
 若菜は唇を奪われていた。卑劣な手口で。
「…………」
「ね、こうして悦に入る淫蕩なキモチ。解らないでしょう、キミみたいなコには」


 解る、といえば嘘になる。
 でも解らないといえばそれも嘘だ。


 涼しい顔でいつも笑っている日向の葛藤を口移しされたようで、若菜はなにも云えなかった。感情を転嫁したように、日向の笑顔が余裕に満ち足りる。
「逃げないの?」
 鍵のかけられた部屋。
 伸ばされた腕を若菜は振り解けなかった。
 所詮は同じなのだ。
 気持ちなら痛いほど解る。
 だって八重子は、間違いなく日向のことが好きなのだ。
 日向が自分を好きにならなければ。
 八重子の視界に果たして自分は映っただろうか。

 きっと。
 ううん、絶対に映らなかった。

 シャツにかかる指先はそのままに、見上げた日向の顔からは笑顔が消えていた。
「先輩に私が抱けるんですか」
「抱けないと思うの? 僕はそんなに聖人君子じゃない。それに」
 日向の長い指が若菜の唇に触れた。
 節の目立たない細長い指。
 この指がいつも八重子に触れるのだ。
 バス停で手を繋いだり、制服に忍んだりして。
「僕に抱かれれば、八重子の関心は益々キミから離れないだろうね」
 苦しげな声。

 なんだ、解ってるんじゃない先輩。
 暴かれた魂胆はそうして二人だけの秘密となる。
 秘密の棘。
 痛くて抜けない棘。 
 荊だらけの道を自分たちはどこまで行くのだろう。

 全てが罠。
 逃れられないなら浸かり切ってしまった方がいい。
 どう足掻いてもうまくいかないのなら、自暴自棄さえもが正当性を帯びてくる。
 そう、その方が食い込まない…。


 がんじがらめの恋――。


end


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