ハリボー250g



 教室のドアを開けた途端、あ、失敗したって思った。
 それはもうイヤってくらい痛烈に。


「あ、瀬戸内」
 向こうが気付かなければそのままシカトで回れ右な勢いだったんだけど、気付かれてしまったからには仕方ない。
「一人?」
 なんて間抜けな質問を一つ投げ入れてから、僕は溜め息一つ、先に教室の中に送り込んでからそれを追うように左足の一歩を踏み出した。冷たいタイルの感触が上履の薄い底を通して足の裏に伝わってくる。ギャラリーでもオーディエンスでも、何でもいいから他に誰かいればよかったのに。そうすればまだまともな思考が保ってられたんじゃないかと頭の隅、思いながら二歩、三歩。いつだって僕の脳内を掻き乱してくれるのは、その言動、思考回路、立ち居振る舞い、そしてその眼差し。加えて決定的なのはこの作り物じみて鼻につく香料。僕は一時期この匂いに強迫観念すら抱いてたような気がするからどっちかというと事態は深刻で、さらにいま取り返しのつかない深みにまで踏み込んでるような気がしてならない、五歩、六歩。
「ハイ」
 近づくなり前触れもなしに差し出されたそれを出来れば受け取りたくなくて。
「…………」
 四拍の無言を間に挟んでみたけど効果は皆無で、解り切ってた結末をこうして目前に提示されると脳内のノルアドレナリン値がジワジワと上昇してくのが手に取るように解る。とどのつまり僕は南のことが嫌いなんだろうという、いつもの結論に辿り着くまで時間は一分もいらない。本当は一分が一秒でも、決り切った答えは変わらないんだけど。結果とか結論というよりは決定事項というか、ファイナルアンサー? 僕にこれ以外の答えを望む方が明らかに間違ってると思うから、いまさら余計なことを考える必要はないよね。

「いらない。輸入菓子好きじゃないんだ」
「でも有名だよね、ハリボー」

 でもの意味がまるで解らない。ようやく僕の意思を察したらしい南が引っ込めた小袋を豪快に引き開ける。五センチ四方の袋から飛び散ったグミが机の上にカツンカツンカツン、と弾け飛んだ。ハリボーの名前は僕も知ってるし、過去に何度か口に入れたこともあるけど、ほぼ毎回に等しく思うのは、なんでたかがグミがここまで硬いのかっていうこと。それからこれも毎度のコトながら思うんだけど。キミはどうしてそこまで致命的にコドモの行動が取れるのかな? 僕はいつも理解に苦しむんだけど。本音を云えば苦しむまでもなくそれが南という人間なんだってのも知ってるけど。やだなぁ、こういう脳内矛盾。大嫌い。クラインの壺って知ってる?

「昨日カルディで衝動買いしちゃったんだ。だってイースター仕様なんだよ? ほら見て」
 そう云って差し出された掌に乗ったカラフルな、というにはグロテスクに過ぎたグミの欠片たち。確かによく見ればそれはウサギだったり、卵だったりして、イースター的要素はきちんと踏まえてるみたいだけど、でもだから何? それがどうしたの? こんな時、切敷なら頭を撫ぜたりして何か云うのかな。その台詞を想像しようとしてる脳内の働きがまず不愉快。南という要素だけならただの天然で片がつくのに、そこに切敷ってキーワードが絡んでくると途端、火急的サイレンが頭の中で鳴り響く。自分でも笑っちゃうぐらい。怖くて怖くて仕方がなくなるんだ。
「……本当だ、ウサギだね」
「うん。ウサギだけでもね、何種類かあるんだよ。なんか、やるコト細かいよね。羊とか卵とか、あと鶏?」
 いや、疑問形にされても困るから。返す余裕ないし。それはそれですごい事なんじゃないかと我ながら思ったりする。いままでどんな嘘だって、真顔で、笑顔で、必要とあれば涙まで浮かべてついてきたっていうのに。南の前じゃそれが全部在り来たりな虚飾に変わる。ないんだ余裕。本当に、笑っちゃうくらい、泣きたくなるくらい。

 喪失を恐れるのはソレが掛け替えのないものだと知っているから。そう、知っているから。切敷の云う信頼とか、自信とか、そういうのも頭ではもちろん解ってるんだけど、でも南の前に出ると無条件でそれが無に帰してしまうんだ。似てるから、とか。そんな理由で傍にいてくれてるんじゃないのは知ってるし、他の誰でもなく、あの眼鏡の奥の眼差しがいま一心に注がれてるのは自分だけだっていうのも解ってるのに。


 僕や倉貫が入り込まなければあの二人の恋は成立していたんじゃないかと思うたびに心の何処かが拉げていくような気がするんだ。


 少し前までは自身を傷つけることこそが命題だったのに。いまは傷つくのが怖くて意味のない笑顔とかこうして浮かべてたりする。重ねた視線を逸らすことなく南がニコリと微笑む。その邪気のないあどけなさや、無垢でいたいけな純粋さを、どうすれば一番確実に、効果的に殺してやれるか、瞬時考える思考が迷走する。僕に発信テレパシーがあって手の内が全部晒されたとして、南はこんなふうに笑いかけてくれるだろうか?

「……倉貫、は?」

 自分から話しかける気はなかったのでしばらく放置してた沈黙を破ったのは云うまでもなく南で。やけに遠慮がちで、何かに怯える小動物のような呟きは下手すると聞き逃してしまいそうなほどに小さくて掠れてて。室内で対流することなく淀んでた空気がその台詞をドロリと包み込んだ。
「さあ。さっきまでは一緒だったけど。ていうか、そんなの携帯で捕まえれば済む話なんじゃないの?」
「…充電、切れたから。連絡取れないからココにいれば会えると思って」
 ああ、そう。それでこんな時間になってまで薄暗い教室に一人陣取ってたんだ? そうやって倉貫が迎えがきてくれるのをただ待ってたって云うの? そうしてればいずれ誰かが拾ってくれると思ってたんでしょ? 本当はそれが倉貫じゃなくても構わなかったんじゃないの? ううん、むしろ違う誰かを待っていたとか。そう、例えば。
「倉貫、疲れ気味だったから先に帰ったのかもしれないね」
「…俺を置いて?」
「ありえないと思うの?」


 あ、テレパシーがきたと思った。


 泣きそうな呼吸が灰色の空気に一筋の傷をつける。ああ、そうか。同じなんだ。考えてみればそうだよね。南の中に殺してやりたい人間リストがあったとして僕はダントツ一位の自信があったから。そうだったね。南はいつだって僕に殺意や羨望や嫉妬をそうやって投げつけていたよね。バラバラと床に落ちたハリボーが冷たいタイルを続けざまに打つ。カツンカツンという硬い音。投げつけられたグミはほとんどコートに当たっただけだったからその感触すら解らなかったけど。顔に当たった一粒、赤いグミの痛みだけは忘れないよ。

 二度目の失恋は一度目よりも甘くて、けれどやっぱりひどく痛かった。

 本当はもっとずっと前に確定してたんだけどね。高一の終わり、倉貫に最後に抱かれたあの夜。泣きながら走り出した南の背中を驚いたように追いかける倉貫の視線が決定打だった。僕を容れない瞳を傍に置いておくことで傷つく自分が愛おしかったのかもしれない。

 着信履歴を辿って四日前にようやくその名前を見つけてコールする。憮然と出た態度が気に食わなかったから「三組」とだけ告げてすぐに電話を切った。涙を堪えてたらしい南が驚いたようにパチリと瞬きをする。一粒だけ落ちたそれがパタ…と冷たい机を打った。

「あのね、屋根裏にいるって!」

 踵を返して三歩、南から遠ざかったところで追いかけてきた台詞が背中に打ちつけられる。掛け違えたボタンさえ正せば、僕らは一番の親友になれるのかもしれない。そのテレパシーが伝わっていればいいのに、と思いながら「アリガト」僕は三組の教室を後にした。教室にいるはずだったシルエットを探しに、放課後の図書室を目指して。それにしてもあまりに役立たずなメッセンジャーだね…。


 三度目の恋が「正直」になるように、できればキミにも祈ってて欲しいよ。


end


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