007



「蓮科って007みたいよねー」

 水曜の昼。食堂から持ち出したトレーを芝生に広げ「草上の昼食」とシャレ込んでいると、何を思ったか唐突に早乙女がそんな台詞を零した。編入試験があったせいか、県の教師会が多目的ホールで催されてたせいか、いつもの三割り増しぐらいでバカ混みだった食堂内を諦め、裏庭近くの芝生に落ち着いたのがかれこれ十分くらい前の話だ。
 何もこんな真冬に外で食わなくても、という俺の云い分は「あたしはこのファーコートを脱ぎたくないのよ!」という早乙女の一言で却下され、仕方がないのでいまはボア付きのフードを頭からスッポリ被って煮込みうどんを啜っているという、傍目にはだいぶおかしな状況に陥っていた。うどんのせいか、フードのせいか、周囲の声が多少聞き取りにくい。
「ああ?」
 あまりに脈絡のない台詞に思わず聞き違いかと思ってフードを取ると「蓮科って…」早乙女は律儀にも同じ言葉をもう一度丁寧に繰り返してくれた。
「それは女に甘いってことか?」
 食堂内で早乙女と偶然会ってしまったがために、草上の昼食を余儀なくされている設楽が早乙女の感慨にまずクチを挟む。
 その点で云うなら確かにアイツは限りなくジェームズ・ボンドに近いよな。あの女っタラシさ加減はむしろ犯罪だろうとこの頃はよくそう思う。こないだも中庭で上級生の肩に腕を回してたしな。翌日には見たこともない下級生の肩を抱いていたあのゴツイ掌。
 携帯の着信が八割の確率で女であることも今更な話だし。そう、今更だと頭では思うのだが気持ちの上ではなかなか割り切れないでいる。……ついでに云うなら最近はちょっと落ち込み気味だっつーの。
「まあ、それもあるわよね」
「女に甘くて気障でオトコマエで?」
「そうそう」
 八方美人的に誰にでも優しくて、黒く潤んだ瞳はいつでも堪らない蠱惑に満ちてて、砂糖よりも甘く蜂蜜よりも濃密な台詞を、最上のタイミングで囁いてくれる唇。
 確かに俺に触れる手は優しいし、注がれる眼差しは真摯だけれど。好きだとか愛してるとかいままで数え切れないぐらい囁かれたけれど。
 それは俺にだけ向けられるモノじゃないから。アイツにとっての俺って何なの? 蓮科の言葉に仕草に瞳の中に、答えを見出したと思ってもすぐに消えてしまうカゲロウのようなソレを。
 俺はもう何度掴み損ねてるんだろう。
「ねえねえ、ボンドのモットーって知ってる?」
「女にはキス、男には銃口?」
「そう、ソレ! その辺もまさに蓮科なのよねぇ」
「キスキス・バンバンか」
「何だ、そりゃ?」
 まるで見えない話に首を傾げつつ、木枯らしに吹きつけられてだいぶ冷めてきた人参を口に放り込んだところで。
「し・か・も・容赦なし!」
 ケラケラケラっ、と早乙女が急に腹を抱えて笑い始めた。コートに芝生がつくのも構わず転げまわっているところを見ると、何かのツボに入ったのだろうか。
 とりあえず女に甘いのは解るが、男に銃口ってなどういう意味だよ?
 脈絡がまるでなかったわりに続きそうな話の気配に、ひとまず黙ったまま経過を見守っていると。
「……ああ、なるほどね」
 設楽が小さく独り言のように呟いた。何がナルホドなんだかさっぱり解らないまま食い終えた椀をトレーに戻したところで。
「春日」
 呼ばれて上げた視線を固定した指先。
 それを追うように近づいてきた唇。
 もう何センチかで設楽の唇が触れるというところで。
『ガチッ』
 という無機質な冷たい音が聞こえた。
「イイ度胸だな、おい」
 撃鉄を起こしたモデルガンがピタリと狙った照準。その的になった設楽が「ジョークだって」と両手を挙げたところでようやく、俺にも事の次第が呑み込めた。
「ハチスカ」
 今日は珍しくタクシーでなく、路バスをアシに使ってきたらしい。裏口から重役出勤で現れた蓮科が重そうなコートに身を包みながら設楽のこめかみにリボルバーの銃口を押し当てていた。チラリと横目で窺った先、浮かべられた笑顔がかなり上辺なのは一目瞭然。…ナルホドね。自分は好き勝手してるクセして、俺に誰かが近づくのにはイイ顔しないんだよなコイツ。なあ、そういうの世間で何て云うか知ってる?
「オマエ、世界中の女が自分に振り向くとか思ってんだろ」
「あ?」
 だったら俺の銃口が向かう先はただ一つ。
 構えるまでもなく、オマエなら解るよな?
 んなムシのいい話、世の中にあってたまるかっつーの!
「カスガ?」
 離れようとしていた顔を捕まえて、スルリと首筋に右腕を回す。空いた手で設楽の顎を捕えると「え、ちょ…」と何か云いかけた唇を塞ぐように、俺は自分のソレを素早く近づけた。
「…オイ」
 一秒後、唇に触れた感触に安堵半分。悔しさ半分。
「そう易々とは謀られねーぜ」
「内心すげー焦ったクセに」
 設楽との唇の間、阻むように差し入れられた掌がグイっと俺の顔を後方へ押しやる。ザマーミロってんだ。早乙女が弾かれたようにまたケラケラケラッと腹を抱えて芝生を転がり回る。
「イイッ、春日サイッコー!!」
「バーカ、笑ってんなよ」
 云っとくけどオマエの娯楽のためにやってんじゃねーぞ? 笑い上戸のオネエに軽く蹴りを入れてから立ち上がると、ちょうど五限の予鈴が鳴った。
「置いてくぞ、早乙女」
「あたし次出ないから、万事OKよ!」
「あっそ」
 何がオッケーなんだか解ったもんじゃねえ…。追及する気にもなんねーけど。蓮科のウルサイ視線は徹底シカトの姿勢で俺は芝生の上で胡坐をかいてる設楽に片手をあげた。
「悪かったな」
「千載一遇のチャンスだったかもな?」
 そう云って片目を瞑った設楽に少しだけ救われた気がした。用済みになったトレーを片手、食堂へと続く小道を辿る。
「待てよ、春日」
 並んできた蓮科に冷めた視線を投げると俺はすぐにそれを逸らした。下手な言い訳を欲してないのはお互いさま。
 何か云いかけた蓮科の口を塞ぐように、イエローサブマリンが鳴り出した。最近よく鳴るそのメロディ。その着信相手がオトコじゃないってのも、ここ数ヶ月でとっくに気付いてるんだぜ? 蓮科が通話ボタンを押したのを尻目、大きく一歩を踏み出す。
 授業中でもソレが鳴ると、律儀に教室を出て行く長身。その背を見送ったのも、そろそろ両手の指じゃ足らないぐらいの回数になってそう。ま、会話からそれがバイト関係の相手だってのも知ってるんだけどね。
 一歩、二歩、三歩、進んだところで立ち止まったままのアイツを振り返る。
『バン!』
 右手でカタチ作ったピストルに、見事撃ち抜かれた左手を蓮科がヒラヒラと振ってみせる。その手からゴトリとモデルガンが落っこちた。ついでに携帯も落っことしゃヨカッタのによ。
 何も銃を手にしてるのは、オマエだけじゃねーんだぜ?
 しかも俺の銃口はいつだって。
 オマエの左胸だけを狙ってるんだから。
「バーーーッカ」
 未だ電話中の蓮科に捨て台詞一つ残すと、俺はプラスチックトレーを左手に、自前のリボルバーを崩して右手にした。

 双方の唇にその時浮かんでた苦笑を互いが認識するのはもう少しあと。
 やがてそれが、笑顔ではいられなくなることを。
 ――この時はまだ誰も知らない。


end


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