憂鬱なるチェリー



 総領兄弟は学年でも有名な双子だった。


 兄である総領冬己は理数系を得意とする眼鏡をかけた秀才、弟の夏己は運動神経抜群のインターハイ常連者。その容姿は一卵性ゆえ何から何までがそっくりだったが、性格や資質まではそうはいかなかったようだ。色で例えるならば冬己は冴え冴えとした青。そして夏己は燃えるような赤を身に纏っていた。
 そのシンと冴え渡るような青の持ち主・総領冬己と、梓はちょうど一年前のこの時期、六月に付き合いはじめた。

 きっかけは大した事ではなかった。
 梓の落としたバスの定期券を冬己がクラスまで届けにきてくれた。そんな些細なことだったように思う。話してみると意外にウマの合うことに気づいた二人は、いつのまにか共に行動することが多くなっていた。
 そして気づけば、体を重ねるような仲になって一年。


「ん…」
 唇を外した瞬間、思わず漏れた声が恥ずかしくて梓は顔を俯けた。
「なに恥ずかしがってるの」
「…なんでもない」
「だったら、顔あげてよ」
 冬己の指が梓の顎にかかり、クイと持ち上げられる。無理やり上げさせられた顔にまた冬己の顔が近づいてきた。まだ濡れている唇をペロリと嘗められる。梓の体に微量の電気が走った。
「カワイイね…、いますぐ押し倒したくなる」
 口元に浮かぶ余裕の笑み。口ではそんなことを云ってても、実際には冬己がそんな衝動的な行動には出ないことを梓はよく知っていた。
 もっと緻密に、組み立てるように、冬己はジワジワと梓の理性を侵食していくのが好きだった。焦らしに焦らされて、弛んだままどこまでも続くかと思われた快感の波形を、一気に高みまで引きずり上げられる感覚。さっきまで泣きながら哀願してたはずなのに、いざそうされると急速に上り詰めさせられる快感に体がついていかなくて、気を失うこともしばしばだった。
 穏やかな笑みを湛えた口元、柔らかい光を宿した瞳。その全てがいま梓に向けられている。
 校内では眼鏡を外すことの少ない、冬己の素顔。それをこんなにも間近で見ることが出来るのは自分だけなのだ。そう思ったら急にたまらなくなった。冬己の首に腕を絡めて自ら口付ける。
「……ん」
 珍しい所業に一瞬目を見張った冬己だったが、やがてそれに応えるようにゆっくりと梓の髪に指を差し入れた。絡めた舌におずおずとだが梓も舌を絡め返す。濡れた音。



「ちぇ、自発的キスは先を越されたか」



 急に割って入ってきた声に、梓はビックリして冬己の腕の中を逃れた。甘い陶酔の突然の幕切れに、心臓がバクバクと音をたてているようだ。
「いまのは俺の作為じゃないぜ」
「そんなの解ってるよ、ずっと見てたんだから」
「妬けた?」
「当たり前だろ」
 冬己とまるっきり同じもう一つの声。
 慌てて振り向くと、そこには扉にもたれて腕を組んだ冬己の姿があった。
 薄い眼鏡、着崩されることなくきちんと身に纏われた制服。学校帰りなのだろう、持っていたカバンを机に放ると、冬己は長い指先で前髪をかきあげた。サラサラと落ちる髪が銀縁眼鏡にかかる。それは見間違えようもない冬己の癖だった。
 授業が終わっていつも通りに、昇降口で待ち合わせて一緒に帰ってきたはずなのに…。まさか。
 目の前にいた冬己のシャツを引っ張って首元を確認する。されるがまま、冬己は口元に笑みを浮かべていた。右の鎖骨のちょっと下、そこにあるはずのホクロがどこにも見当たらなかった。
「ほら。梓が動揺しちゃってるよ、ナツキ」
 酷薄そうに笑った唇が呼んだ名前。ビクっと反応を返した梓の体に、逃れられないよう冬己の腕が絡んだ。抵抗も空しくシーツの上で絡め取られて、梓はいつのまにか二人の冬己に前後を挟まれていた。
 眼鏡をかけたままの冬己がボタンを開けて、見せつけるようにシャツを広げる。そこにもあのホクロは見当たらなかった。いよいよ動揺した梓に眼鏡の冬己が口付ける。後ろにいる冬己に押さえ込まれて、梓はその唇から逃れることができなかった。制服の上を四本の腕が這い回る。
「な、なんで…こんな…」
 キスの合間に囁いた台詞。それに答えて眼鏡の冬己がニッコリと笑った。
「梓はね、俺と夏己の共有物なんだよ」
 そう云って眼鏡の向こうから現れた素顔。それは紛れもなくいままで付き合ってきた冬己自身のもの、そしていまさっき自ら口付けたそれと、寸分違わないものだった。


「怖い?」
 確かめるように囁かれる台詞に何度も頷く。
 その度に涙が頬を滑り落ちていった。
「やめて欲しい?」
 壊れた人形のように涙ながらに頷く梓を、二人の冬己が楽しそうに眺めている。
「じゃあ、俺と夏己のどっちかを選んでごらん?」
「そ、んなの…」
 ニッコリと笑った同じ顔。すでにどっちがどっちなのか、梓には区別がつけられなくなっていた。眼鏡やホクロ、優しい言葉遣いや穏やかな物腰。いままで梓が冬己のものだと信じて疑わなかったそのどれもが、いま目の前にいる二人の冬己からは微塵も感じられなかった。
「泣かないで、梓」
「意地悪してるわけじゃないんだよ」
 目元を優しく拭う指先。サラサラと梓の髪を撫でる手。
 いや、それは確かにいまも存在しているのだ。
 ただし、二人の中に同じ要素として平等に。
「俺たち、どうしても梓が欲しかったんだよ」
「でも梓は、俺たち二人を同時に受け入れられるとは思えなかった」
 左右の耳から吹き込まれる囁き。
 動きはじめた指先が、脱がせかけの制服を梓から取り去ろうとする。
「だから梓に近づいたんだ」
「冬己という一人の人間としてね」
 カタカタと震え出した体を宥めるように首筋に舌を這わされる。濡れた生温かい感触に背筋が戦慄いた。
「この一年、梓は二人の冬己に抱かれてたんだよ」
「きみはどちらの冬己をも受け入れていた」
 囁く唇と、肌を這う唇。
 込み上げてきた嗚咽を唇に吸い取られる。耳元に差し入れられる熱い舌。
「いまさらどちらかを選ぶなんてできないだろう?」
「梓はどちらも拒めないんだよ」
 両耳から囁かれた宣告。
「ぁあ…ッ」
 それを聞きながら、梓は自分を絡め取る細い蜘蛛の糸を見たような気がした。



 六月の雨が窓ガラスを叩く。
 鬱蒼とした空気が室内に立ちこめている。動く気配のないそれがふいに揺らいだ。
 薄暗い室内で白い肌が鈍く光る。体中に散った蹂躙と愛撫の跡。
 そういえば、と思い出す。
 あれは小学生の頃だったろうか。
 デザートに出されたアメリカンチェリーの中に実が二つ連なったチェリーがあった。調和の取れたそれを別つのがあまりに忍びなく、梓はそのどちらをも食べられずに結局、両方とも駄目にしてしまったのだ。
 腐りおちていく果実。ただでさえ毒々しい色を放っていたチェリーが、次第に茶色く、鈍く変色していく様。飽きもせずに眺めていた。机の上で朽ちていく息衝き。あの日も陰鬱とした雨が降っていた。
 窓ガラスを彩る、暗いドット模様。


「後悔してるのか」
 右側から伸びてきた手が梓の腕を掴む。
「でも、もう遅いよ」
 左側から伸びてきた手が梓の脚を掴んだ。
「逃がさない」
「絶対にね」
「…あっ」
 絡め取られて、梓は再びシーツの襞に沈められた。
 腐り落ちていく果実。
 その狭間にいる自分。


 この雨の降り止む日がいつかくるのだろうか。
 いや、むしろ止まなくていい…。
 そう思っている自分が、梓は存外嫌いじゃなかった。


end


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