吐息の熱
一息ごとに白くなる視界。
「けっきょくこなかったね、勇馬たち」
段差のバラついた石段を踏みしめながら、雪乃は少し下の段にいる統和の背中にそっと目を向けた。水に溶いた墨汁のように、辺りを取り巻く真冬の宵闇。
統和の着ているダウンジャケットの鮮やかさが、いまはただ鈍く、色褪せた深緑色に見える。ううん、それだけじゃない。手摺りにつかまっている自分の手袋も、いまはなんとも形容しがたい色合いに変わっていた。真昼に見た水色の手袋と果たしてこれは同じものなのだろうか?
「だろうとは思ったけどね」
「ウン。姫はじめのジャマするなって、克久云ってたしね」
「あー、有言実行だからな克久は…」
油断するといまにも足を取られそうになる急勾配の石段。冷たい手摺りにつかまりながら、雪乃はちょうど三分の一ほど下ったところで一度、足を止め大きく息をついた。
石段の終点、真っ暗に沈んだ闇の底でチラチラと薪の炎が瞬いている。そこだけ朱色を落としたかのように鮮やかな赤。
じっと見つめていると、なんだかそのまま吸い込まれてしまいそうな引力を感じる。
「雪乃?」
立ち止まったままの雪乃を気遣うように、統和も数段下で歩を止めた。
「どうかした?」
「あ、ううん。ちょっと一休み」
初詣にしてはやや遅い出足。元旦でもないのにこんな深夜、神社を訪れるような変わり者は他にいないらしい。人気のない境内。
「疲れた?」
「…んー、さすがに疲れてないとは云えないけどさ」
「辛かったらもう帰るよ? 気温もだいぶ冷え込んできたしね」
「ううん、ダメ。俺、明日には帰んなきゃじゃん? 統和と初詣に行けるのなんてもう今夜しかないんだから」
大晦日から統和の家に泊まり込みはじめて、今日でもう何日目だろう?
オールナイトで年越しを迎えてから、すっかり時間の感覚が狂ってしまった。昼夜を問わず、体温を求めては求められて…その繰り返し。
つい数時間前までシーツの上に二人、寝転がっていた。盛りがつくって、あーゆうことを云うんだろうな…。なんか止まらなくて、何度も求めては統和にせがんでしまった。もしかしたら呆れられたかもしれない。
愛想尽かされちゃったりとか。
……してたらどうしよう?
じっと、暗闇の中に目を凝らす。
「雪乃?」
確かに統和がそこにいるのに。
「どうかしたの?」
声も聞こえるのに。その表情だけが解らない。
途端になぜか急に怖くなった。本当にいま目の前にいるのは統和なんだろうか?
バカな考えだと思いつつ、闇の中の輪郭から目を逸らせない。
日の光で見える真実と、闇の中で見える真実。
それがイコールであるとは限らない。
『薔薇は赤い』 もしかしたらその固定観念に縛られているだけなのかもしれない。刷り込みの先入観に惑わされて、大事な何かを見落としてやしない?
「ユキノ、顔上げて」
吐息の熱が頬にかかる。
伸ばされた掌の体温。触れてきた唇の冷たさ。
吸われた舌が痺れるような甘さに震えた。熱いものが体の奥底からこみ上げてくる。濡れた音と連動して雪乃の首筋をくすぐる指先。
「ん、ン…ッ」
思わず身をすくめ唇を外すと、耳元でクスリと小さく笑われた。
「なんかバカなこと考えてたでしょ?」
「…ん、ちょっとだけ」
目先の不安なんて、もうどこへやら。
気付いたらすっかり吹き飛んでしまってた。
呼吸のたびに肺を満たす外気の冷たさ。
刺すようだったソレも、いまはもう気にならない。むしろ心地いいとさえ感じる。
「調子に乗って負担かけ過ぎてたよね。ゴメン」
「ううん、欲しがったのは俺の方だからさ」
「でも、一晩に五回は」
「ウン、さすがに疲れた。つーか記録作ったよね…。統和って見かけによらず絶倫?」
「どうだろ。むしろ雪乃の方がかなり…」
「う、わっ。この俺が淫売だとでも!」
「いいじゃん、すげー色っぽかったもん。辛抱堪まらんって感じだったよ、ホント」
「……も、やめよこの話。恥ずかしすぎていまにも死にそ…」
手を繋ぎながら石段の一つ一つをゆっくり踏みしめる。
薄墨の中の朱色がどんどん近くなる。
統和は統和に変わりないのだ。自分だってほら、変わりないのに。
何も視覚で恋をするわけじゃなし。
雪乃、と呼んでくれる声の響き。重ね合わせた唇の甘さ。嗅ぎなれた日向のような匂い。いつでも見つめていてくれる優しい眼差し。
そして首筋に触れる吐息の温かさ。
「ダイスキ、統和」
「…どうしたの突然?」
「なんかすごく云いたくなったの。アイシテル、統和。世界中で一番スキ!」
「……ん。解ったからそれ以上、云わなくていいよ」
「なんで?」
「何でって、そりゃ」
恥ずかしいからに決まってるだろ…と、横を向いた統和の耳。
すごい真っ赤になってた。
「ダイスキだよ、統和」
もう一度。今度は小さく呟くと、雪乃は赤く染まった頬にそっと口付けた。
end
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